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旧道倶樂部録"

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2010-09-24 [長年日記]

[独言] 備忘日記

1日目:近鉄榛原駅→上田口弁財天→石楠花トンネル・栂坂トンネル→曽爾村→御杖村→鞍取峠ピストン→請取峠→泊

2日目:請取峠→峠道探索→飯高→高見峠→木津峠→東吉野村→国栖→大和上市駅

本当なら3日取って木梶川の木馬道を見てくる&飯高で聞き込みをすべきであったが2日しか取れなかった。はじめから中途半端な旅になることを覚悟して出た。その割には収穫ありと言える旅になった。木梶川の木馬道は近畿の山と谷の執筆時点ですでに廃道化していたらしいから並大抵ではないだろうし、木梶第一橋から見えるという道跡もいま時分なら草葉に覆われて見えないだろう。

薄木祐蔵は墨坂という場所に住んだのではなく、榛原にある墨坂神社に由来するものだろう。5年前のはそのへん適当に書いている。付近随一の大社、東吉野村の飛び地的駐車場もある。山へ入っていくのに川伝いに下ってゆく奇妙な感覚。弘法の水はたった2ℓのために100円払うはめになる。朝走ると強烈な逆光。

最後の在所の果てにあった自販機が無くなっていてちょっと調子を外された。この在所までは坂らしい坂もなく楽に登れるが、ここから上田口弁財天までがつらい。単一勾配で直線的に登っていく。開路トンネルから在所までの登り上げはあんなにきつかったっけか。

上田口はほとんど変わるところなし。深霧隧道も5年前のまま。あきら氏とほっくり返した西口の石垣、とうの昔に埋もれてしまっただろうと思っていたのに、かえって露になって、苔蒸したりシダが生えていたりしたのはかなり意外だった。こちら側は木漏れ日がハイコントラスト過ぎてよい写真が撮れなかった。コンデジの限界だな。それよか峠道があんな雰囲気であったとは。忘れてた。しばらく憩う。

秋霧隧道はやはりあの場所にあったのだろう。いまの目で見てもあの切り通しは脆過ぎる。

以前は「緑の回廊 開路」だった看板が「弁財天」と書き直されていた。新道ができたことで開路と名付けられたという経緯は忘れられてゆくのだろうか。そういう選択もまたありだろう。だれか一人覚えておけばいい。

栂坂峠(ここは「つが」と訓む。何故?)に行ってみるつもりでいたが、国道トンネルが未見だったので入っていったところ、そのまま栂坂トンネルに突入してしまい御杖村に出てしまった。まあ、いいか。開路トンネルと合わせて3本立て続けのトンネル群。汎社会的にはこれ以上ない良道。そのかわり曽爾村山粕までの標高差と長い坂道は如何ともしがたい。逆方向に走るのがためらわれる。

山粕の小さなお店で食料を補う。夜のお菓子だけと思っていたが意外に充実していたので焼そば+ベーコンも買ってしまう。下る途中に休憩所。そうそう、8年前もここに泊まろうかと思った一瞬があった。あの時も今日もまだ日が高くて先へ進んだのだ。

御杖村へ入っていく道すがらは、正面に採石場の岩露頭が聳えていて、ちょっと荒涼とした感じ。少し進んで桃俣を過ぎ、桜峠西麓まで行けばまた違った印象の世界になる。別天地というか桃源郷というか・・・ともかく山里らしい山里。おっとその前に、杉の間伐がきちんとなされ、皮剥ぎされて山の斜面に転がっていたのが印象に残った。黒と暗緑、褐色基調の杉林のなかで、丸太の白い肌がひどく目立って見える。そういや川上村ではこういうシーンを見なかった。ここに限らず御杖村は全域に渡って森の手入れが行き届いている印象。

徒歩時代の伊勢本街道は、今の国道のような川伝い道ではなく、山粕から小さな峠越えをして桃俣に下った。峠を鞍取峠という。川伝いルートは明治産だ。桃俣側から峠をピストンしてみたが、確かにこれは荷車道化できないだろうという、狭い小さな谷へ入っていく。峠前後のつづら折れなんかはまさしく徒歩でなければ無理で、しかし伊勢参りの主コースだっただけあって幅広めであった。よく整備されているし、麓の神社に休憩スペースがあるし、取り付きに「桃俣昔話の会」なる団体の建物もあったりして、果報な扱いというべきか。かえって明治道の閑却されていることが可哀想になる(この辺りは国道アスファルトの下だろうが)。神社で焼そばを作って食って再出発。

請取峠への分岐は記憶とTM頼りで。一度間違えかけ、これではいけないと思い旧道伝いに登っていくことに。消防署近辺のうら寂しさは記憶のままだった。これを越えてもう少し進むと小さな商店のある三叉路に着く。ここが分岐。いせ/はせの道標もある。

あとは南へ行けばいいだけで、かつて一度通った道だが、国道バイパスに出る直前に「明治橋」という名の橋が架かっているのを今回新たに発見した。バイパスから分岐する県道は何故か3車線分ありそのうち2車線が作りかけで放置されている。まさかこの道幅で三重県まで通そうとしているわけではあるまい。

途中の墓地で休憩して、この日最後の登りへ。土屋原は明るい雰囲気の、そこそこ大きな在所。緩い山斜面に旧家が連なっている。左岸に渡った辺りの眺めが特によい。在所はずれで人をみかけたので話を聞いてみた。5、60のお父さん。峠を越えて向こうへ行ったことはないが、飯高からは享楽寺詣での人がよく越え、その姿を見たことがあるという。土屋原の中まで道が拡幅されたのは戦後まもなくのこと。家の石垣を1、2m引っ込める工事をしたと。

この後蛇谷まで各谷ごとに砂防指定の看板。指定自体はS39だが看板は最近建てられたものらしい。やはりH16台風によるものか。

8年前通った時の道のありようはほとんど記憶に残っていない。あ、こんなシーンがあったのか、こんな勾配だったか、と思うような場面ばかり。何しろ当時は一充電で100枚ちょっとしか撮れなかった。ケチって写真を撮ってない。三峰三峠+高見峠+西杉[最杉]の5梯子で時間がなかったというのもある。今日は時間がたっぷりあるから道を味わいながら登った。

沿道にはポツリポツリと民家がある。どれも文字通りの一軒家で寂しいこと限りなし。しかし田を作り得るほどの平地はあるから昔風の暮らしを守る限りは暮らしやすいのかも知れない。

最後の一軒を過ぎた所で蛇谷。蛇谷山。一帯は天理教の御用林になっているという。欄干の崩れた橋を渡って距離50mほど行った所で舗装終わり。残りも真新しい印象を受ける地道で走りやすい。南向する区間の中間にゲートがあるが開いていた。傍らから谷へ降りていく地道もあり、これは地形図破線道の峠越えにつながっているようだった。川底に新設の林道(車道)が作られている。峠前後の天理教私有地を避けるルートであるらしく思われた。将来この道が県道として繋がることがあったとしたら、この谷道を通り、トンネルで峰を打ち抜いて三重側に出ることになるだろう。

ほぼ同じ勾配と道形と雰囲気のまま、地形図実線道の終点まで。終点は小さな広場になっていて、正面に40°ほどの山斜面。まさしく林道の終端という感じだ。ちょっと見上げれば切り通し越しに空が見える。2002年に訪れた時はこの斜面を斜に登っていく踏み分けが明瞭についていて、何迷うことなくその道を登った。確かこの時は旧徒歩道をなぞって通された林道と、その末端だと解したはず。道は峠まで届かなかったのだろうと。実際はそうではない。

本当はこの辺りで泊まるつもりだったが、まだ少し時間があったので、峠の南のどこかで泊まることにした。荷物をバラして担ぎ越える。峠前後の掘り割り状の道。全幅3m、有効幅員2.7mは深霧隧道前後のそれと似ている。

峠であるものを発見。見て、8年前にも見たことを思い出した。最大の発見かも知れない。

峠南は以前にも増して荒れているように思った。そして狭い。立派な石垣はあるが幅2mもなかったのではないか。確かに立派な石垣はあるが・・・というかこれまで見た石垣のなかでもトップクラスの規模。2ケタmあるかと思いきや実測6mがせいぜいだった。ということは神ノ谷のあれもその位だったかも知れない。ここの石垣は微塵も歪んでいない。

しばらく担いで荒れがひどくなり、進むのが億劫になったところで荷を捨て、偵察へ。地形図に川が描かれている谷の頭で水場を発見する。この一つ二つ手前の、炭焼き釜の隣にテン張った。高見山や大台を見晴らしながらの夕餉はとても情緒があって良かったが、何度も寝落ちしそうになった(そのせいで夜半に目が覚め寝直すのに苦労)。

三重県側の道の狭さと荒れやすさがネックになったものと推測される。奈良側も峠直下にやや狭いところあり。奈良側はもっと手前から高度をあげて峠に直結させるつもりだったのではないか。それを失敗して峠直下に至ってしまいつづら折れを挟まざるを得なくなった。三重側には無理がない。峠の切り通しの旧高さからジャストで下っていける。

2日目:朝方まで眠られなかったのが響き、目が差目田野は、もとい目が覚めたのは7:30過ぎだった。いつもの旅ならこれくらいでも余裕だが、予定が詰まり気味で、日が昇る頃には活動開始しなきゃと思っていたにもかかわらずのこの時間ゆえ少々凹む。右膝の痛みも引いていない。あれやこれや思案して予定を組み換えつつ飯を食う。

峠道の続きは似たような荒れ道。昨日のうちに偵察しておいたので状況やおよその所要時間は把握している。水場の谷を越え、大石垣と岩崖の難場(ここの写真は昨日のうちに撮っておけば良かったな・・・ここもスポット光で白黒い写真にならざるを得なかった)があり、2、3の谷渡りをすれば、自傷行動をする鳥を見た林道末端へ。往復写真撮影込み1h。だいたいその通りに行った。

当初の峠道を辿る時間は約2時間と見ていたが、これは道の大半が地道車道化あるいはその廃道と化していたお陰でクリアできた。全線がひどい廃道だったらもっと時間がかかっただろう。絶品とまでは言えないがそこそこな道。大石垣もある。

12時頃に波瀬山林舎に着く。そうそう、通りやすい道を通っていくとこの場所へジャストで出てくるのだ。国道を通っていくとひどく遠くにあるように見えるが。ここでの聞き込みを諦め、国道旧峠を諦め、現国道と高見トンネルを抜けていく。旧道は麓のほうのわずかな区間のみ。国道から上へ別れてからは膝痛と8年前に追っているのでパス。バイパス新道はそれほど走りづらいものではなかった。

麦谷でふと旧道に入り込み、たまたま居てはった方が軌道を見たことのある方だった。しばし話し込む。聞き込むぞ!と気合いを入れてやった時よりこういう偶然で出会った時のほうが収穫があるような気がする>nagajis

木津隧道。望遠で扁額を撮影し明治21年竣工と確認。念のため上に上がってみたが旧坑口はない。もともとこの位置にあったのだろう。しかし扁額があるほどだからよほど近代的な作りだったはずだ。県下で最初の近代的道路隧道であったかも知れない。それを考えるとやや特異点的な存在だ。(追記:9/30のにっき参照)

西吉野村に下り着いて4時。膝の痛みもあるので無難コースへ。しかしせっかくなので佐倉峠に行ってみようと思ったのが失敗だった。旧道に入り込んで行き止まり。あとで地形図を見ると行き止まりから見えていたあの場所が峠だったのだった。歩いて行っておけばよかった。(プリントしたのに忘れてきたのだ)

県道で高見川伝いに下る。下り一辺倒なので楽。吉村寅太郎終焉の地、ニホンオオカミの碑など地味ながら興味のあった物件に出会う。なるほどなるほど。さらに下って国栖へ。ここで人を訪ねて旧国栖隧道のことを聞く。正確な竣工年は地元の方(郷土史家の範疇に入る方)でも御存じなかったが、峠の北側山中にも荷車道があることを教えていただいた。いまの県道に沿う家々の裏手山中に残っているそうな。そうだろうな、なければあの山道を昇り降りせねばならなくなる。

6時までに着いたら入って行こうと思っていた中荘温泉。秒単位で間に合ったので入って行くことにする。ふだん自転車旅の先で温泉に入ることはない。どうせあとで汗だくになってしまうからだ。しかしこの日は日暮れて涼しくなりそうだし、あとは大和上市まで下る一方なので、これ幸いとばかりに寄って行く。お陰でさっぱりした。この贅沢のため夕食はおあづけ。帰ってやきそばの残りを食って寝た。

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_ iso (2010-09-24 13:54)

「栂」は「つが」「とが」両方ありですよね。「栂池(つがいけ)」、「栂海(つがみ)新道」(白馬岳から親不知に抜ける登山道、私が高校生の頃に整備され、ここ最近人気)とか。もしかして東西で読み方が違う例?

_ nagajis (2010-09-24 20:03)

西上州にも栂峠がありますね。これは「つがとうげ」だったはず。まあこの呼び名も古来から変わってないという保証はないですが・・・あ、堺市立図書館に栂(とが)分館がある。


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