nagajisの日不定記。
本日のアクセス数:0|昨日のアクセス数:0
ad
雨降りたる為演習なきと喜びいたり。然るに午後に至りて雨止みたるため、行われたり。賢積寺台へ行き西南役の話聞く。ぬかるみの行軍なりたるため、軍靴の手入に困りたり。生徒監殿出張。
秋季皇霊祭に此の良天気誠に有難きものなりき。五時非常呼集に起され雄健神社を参拝後七時半まで校庭の除草をなす。冬の如き手の感覚を打く。東天白ずむ頃豈清涼ならずや。
此の良き日除草をなすも国の為
午前中手紙書き午後は心を休めんが為品田・松元・志磨・上田と八景水谷に行き、十六時より菊池氏を研究すべく図書室へ行く。此の祭日に今日の行事誠に反省して恥じざるはなし。〔「恥じざるはなし」に朱棒線+「?」〕
彼岸の中日にして家にては祖先をまつる。
秋季皇霊祭にして亦彼岸の中日なり。
起床前に剣術が許されし故一訓は三時半より操〔手偏→足編に朱訂正〕ぎ甚しきは号令調声をなし安眠妨害極めて大なり。依って自習時間眠くて手につかず。〇五・〇〇起床、剣術、〇六・三〇集合、引率を以て世界館に至り「愛機南へ飛ぶ」を見学す。是は航空宣伝映画にして、陸予士・陸航士の事など相当にありたり。ついで寄るのみの予定にて多田少佐殿宅へ行き、遂に上らされ、昼も近かりし故四人連れ立ち宇土楼を見学し偕行社〔偕の字朱訂正〕へ行く。運動会の事を打合するが目的なり。御馳走になり一四・〇〇別れ一時間藤崎宮に待たされて一五・一五帰校したり。今日斯様にならんとは思いもよらざる事にして亦一興なりき。山岳訓練準備怠なし。良好。
3カ月ぶりに部屋を片付けている。出しっ放し資料を片付け、ゴミの山を処分し、気になっていたアレコレを修理。細工リストの遅い休日。
万年床の下から発掘された懐中時計。プラスチックフードのくせにジッポと一緒の懐中に入れる癖があって傷だらけもいいところだった。コンパウンドで磨いて磨いて磨いて修復。そういえばメガネも傷が入ってた。コンパウンドで直るだろうか。(やめとけ)
前置きが長くなる。昨年11月になくした三脚の代替として680えんの三脚を購入、これが5月頃に大破損して、それを無理矢理修復して使っていたのが、8月の尾鷲行きの旅先で完膚無きまでに崩壊した。仕方なく、尾鷲の家電製品店で最も安い三脚を買った。痛い出費だったうえ、その24時間後に、矢の川明治道の担ぎでぶっ壊れた。その三脚の修復。
三脚の脚とまん中のパイプをつなぐパーツがばりばり欠けた。かろうじて二脚固定できていたので使えなくなったわけではなかったが、残りの部分も風前の灯火。
買って気づいたのだが、このパーツ、680えん三脚のと全く同じだったのだ。つまりこれを移植すれば直せる。4倍近い値段だったくせに同じ部品の使い回しというのはちょっと納得がいかなかったが、まあいい。
というわけで、壊れた三脚と壊れかけた三脚の2本を積んで走っていた最終日。持って帰ってしばらく放置していたのを、ようやく移植した。
…ようば貧乏なのよ(泣
ついでに、買った三脚に付いてきた袋もボロボロになった。ストラッブがもげてチャックがどっか行った。ちょっと思う所あってこれも修復。チャックの金具は以前使っていたヒップバッグのもの。
親玉。以前作ったFinepix s9100のツメを電池室に取り付ける作業。あとで気づいたのだが電池と電池室壁の間に挟むという技はニッケル水素充電池でないと使えないのだった。というのも乾電池は一回り小さくてスカスカになってしまうのだ。迂闊。(これまで名刺をちぎって挟んでた)
ヤスリとミニルーターと瞬間接着剤を駆使して取付。0.2mmくらい高く付いてしまったがそれ以外はOK。あとは瞬間接着剤がどれくらい持ってくれるかだな。
実はORJへ来る人(検索サイト経由)の検索ワードって「廃道」がトップに来ることは滅多にない。のだけど最近上位に来ている。目立つほどの急変化。こういう一般的なワードって実はGoogleとかYahoo!とかが裏でコッソリbot飛ばしてるんじゃないかと思ったりして一つの恐怖だ。そうでなかったとしても、このワードで検索する方は廃道ってナニ?という人だろうから、かえって逆効果だよなーと思ったりもする。何しろ有料だからそこから先に進めない。ここでいかに興味を持ってもらえるか、なのだろうけれど・・・。
実は検索でORJへ来るスキームは峠データベースが最も多かったりする(検索以外では当然山行がが最大)。記事関係ももちろんあって、足せばそちらと拮抗しそうなのだけれど、廃道よりも峠が上位にあって一般的に興味が持たれている現状、この劣勢は挽回できそうにないし、むしろこういう所に新規読者の開拓の余地がありそうな予感が(個人的に)している。しかし峠から廃道へ誘うのは簡単そうで難しい。山歩き方面は山メインだし現状では実用的じゃないし、走り屋さんは御免被りたいし、サイクリングは論外だし。え? お前も自転車だろって? 旧道倶楽部は邪道倶楽部なのよ。
1日目:近鉄榛原駅→上田口弁財天→石楠花トンネル・栂坂トンネル→曽爾村→御杖村→鞍取峠ピストン→請取峠→泊
2日目:請取峠→峠道探索→飯高→高見峠→木津峠→東吉野村→国栖→大和上市駅
本当なら3日取って木梶川の木馬道を見てくる&飯高で聞き込みをすべきであったが2日しか取れなかった。はじめから中途半端な旅になることを覚悟して出た。その割には収穫ありと言える旅になった。木梶川の木馬道は近畿の山と谷の執筆時点ですでに廃道化していたらしいから並大抵ではないだろうし、木梶第一橋から見えるという道跡もいま時分なら草葉に覆われて見えないだろう。
薄木祐蔵は墨坂という場所に住んだのではなく、榛原にある墨坂神社に由来するものだろう。5年前のはそのへん適当に書いている。付近随一の大社、東吉野村の飛び地的駐車場もある。山へ入っていくのに川伝いに下ってゆく奇妙な感覚。弘法の水はたった2ℓのために100円払うはめになる。朝走ると強烈な逆光。
最後の在所の果てにあった自販機が無くなっていてちょっと調子を外された。この在所までは坂らしい坂もなく楽に登れるが、ここから上田口弁財天までがつらい。単一勾配で直線的に登っていく。開路トンネルから在所までの登り上げはあんなにきつかったっけか。
上田口はほとんど変わるところなし。深霧隧道も5年前のまま。あきら氏とほっくり返した西口の石垣、とうの昔に埋もれてしまっただろうと思っていたのに、かえって露になって、苔蒸したりシダが生えていたりしたのはかなり意外だった。こちら側は木漏れ日がハイコントラスト過ぎてよい写真が撮れなかった。コンデジの限界だな。それよか峠道があんな雰囲気であったとは。忘れてた。しばらく憩う。
秋霧隧道はやはりあの場所にあったのだろう。いまの目で見てもあの切り通しは脆過ぎる。
以前は「緑の回廊 開路」だった看板が「弁財天」と書き直されていた。新道ができたことで開路と名付けられたという経緯は忘れられてゆくのだろうか。そういう選択もまたありだろう。だれか一人覚えておけばいい。
栂坂峠(ここは「つが」と訓む。何故?)に行ってみるつもりでいたが、国道トンネルが未見だったので入っていったところ、そのまま栂坂トンネルに突入してしまい御杖村に出てしまった。まあ、いいか。開路トンネルと合わせて3本立て続けのトンネル群。汎社会的にはこれ以上ない良道。そのかわり曽爾村山粕までの標高差と長い坂道は如何ともしがたい。逆方向に走るのがためらわれる。
山粕の小さなお店で食料を補う。夜のお菓子だけと思っていたが意外に充実していたので焼そば+ベーコンも買ってしまう。下る途中に休憩所。そうそう、8年前もここに泊まろうかと思った一瞬があった。あの時も今日もまだ日が高くて先へ進んだのだ。
御杖村へ入っていく道すがらは、正面に採石場の岩露頭が聳えていて、ちょっと荒涼とした感じ。少し進んで桃俣を過ぎ、桜峠西麓まで行けばまた違った印象の世界になる。別天地というか桃源郷というか・・・ともかく山里らしい山里。おっとその前に、杉の間伐がきちんとなされ、皮剥ぎされて山の斜面に転がっていたのが印象に残った。黒と暗緑、褐色基調の杉林のなかで、丸太の白い肌がひどく目立って見える。そういや川上村ではこういうシーンを見なかった。ここに限らず御杖村は全域に渡って森の手入れが行き届いている印象。
徒歩時代の伊勢本街道は、今の国道のような川伝い道ではなく、山粕から小さな峠越えをして桃俣に下った。峠を鞍取峠という。川伝いルートは明治産だ。桃俣側から峠をピストンしてみたが、確かにこれは荷車道化できないだろうという、狭い小さな谷へ入っていく。峠前後のつづら折れなんかはまさしく徒歩でなければ無理で、しかし伊勢参りの主コースだっただけあって幅広めであった。よく整備されているし、麓の神社に休憩スペースがあるし、取り付きに「桃俣昔話の会」なる団体の建物もあったりして、果報な扱いというべきか。かえって明治道の閑却されていることが可哀想になる(この辺りは国道アスファルトの下だろうが)。神社で焼そばを作って食って再出発。
請取峠への分岐は記憶とTM頼りで。一度間違えかけ、これではいけないと思い旧道伝いに登っていくことに。消防署近辺のうら寂しさは記憶のままだった。これを越えてもう少し進むと小さな商店のある三叉路に着く。ここが分岐。いせ/はせの道標もある。
あとは南へ行けばいいだけで、かつて一度通った道だが、国道バイパスに出る直前に「明治橋」という名の橋が架かっているのを今回新たに発見した。バイパスから分岐する県道は何故か3車線分ありそのうち2車線が作りかけで放置されている。まさかこの道幅で三重県まで通そうとしているわけではあるまい。
途中の墓地で休憩して、この日最後の登りへ。土屋原は明るい雰囲気の、そこそこ大きな在所。緩い山斜面に旧家が連なっている。左岸に渡った辺りの眺めが特によい。在所はずれで人をみかけたので話を聞いてみた。5、60のお父さん。峠を越えて向こうへ行ったことはないが、飯高からは享楽寺詣での人がよく越え、その姿を見たことがあるという。土屋原の中まで道が拡幅されたのは戦後まもなくのこと。家の石垣を1、2m引っ込める工事をしたと。
この後蛇谷まで各谷ごとに砂防指定の看板。指定自体はS39だが看板は最近建てられたものらしい。やはりH16台風によるものか。
8年前通った時の道のありようはほとんど記憶に残っていない。あ、こんなシーンがあったのか、こんな勾配だったか、と思うような場面ばかり。何しろ当時は一充電で100枚ちょっとしか撮れなかった。ケチって写真を撮ってない。三峰三峠+高見峠+西杉[最杉]の5梯子で時間がなかったというのもある。今日は時間がたっぷりあるから道を味わいながら登った。
沿道にはポツリポツリと民家がある。どれも文字通りの一軒家で寂しいこと限りなし。しかし田を作り得るほどの平地はあるから昔風の暮らしを守る限りは暮らしやすいのかも知れない。
最後の一軒を過ぎた所で蛇谷。蛇谷山。一帯は天理教の御用林になっているという。欄干の崩れた橋を渡って距離50mほど行った所で舗装終わり。残りも真新しい印象を受ける地道で走りやすい。南向する区間の中間にゲートがあるが開いていた。傍らから谷へ降りていく地道もあり、これは地形図破線道の峠越えにつながっているようだった。川底に新設の林道(車道)が作られている。峠前後の天理教私有地を避けるルートであるらしく思われた。将来この道が県道として繋がることがあったとしたら、この谷道を通り、トンネルで峰を打ち抜いて三重側に出ることになるだろう。
ほぼ同じ勾配と道形と雰囲気のまま、地形図実線道の終点まで。終点は小さな広場になっていて、正面に40°ほどの山斜面。まさしく林道の終端という感じだ。ちょっと見上げれば切り通し越しに空が見える。2002年に訪れた時はこの斜面を斜に登っていく踏み分けが明瞭についていて、何迷うことなくその道を登った。確かこの時は旧徒歩道をなぞって通された林道と、その末端だと解したはず。道は峠まで届かなかったのだろうと。実際はそうではない。
本当はこの辺りで泊まるつもりだったが、まだ少し時間があったので、峠の南のどこかで泊まることにした。荷物をバラして担ぎ越える。峠前後の掘り割り状の道。全幅3m、有効幅員2.7mは深霧隧道前後のそれと似ている。
峠であるものを発見。見て、8年前にも見たことを思い出した。最大の発見かも知れない。
峠南は以前にも増して荒れているように思った。そして狭い。立派な石垣はあるが幅2mもなかったのではないか。確かに立派な石垣はあるが・・・というかこれまで見た石垣のなかでもトップクラスの規模。2ケタmあるかと思いきや実測6mがせいぜいだった。ということは神ノ谷のあれもその位だったかも知れない。ここの石垣は微塵も歪んでいない。
しばらく担いで荒れがひどくなり、進むのが億劫になったところで荷を捨て、偵察へ。地形図に川が描かれている谷の頭で水場を発見する。この一つ二つ手前の、炭焼き釜の隣にテン張った。高見山や大台を見晴らしながらの夕餉はとても情緒があって良かったが、何度も寝落ちしそうになった(そのせいで夜半に目が覚め寝直すのに苦労)。
三重県側の道の狭さと荒れやすさがネックになったものと推測される。奈良側も峠直下にやや狭いところあり。奈良側はもっと手前から高度をあげて峠に直結させるつもりだったのではないか。それを失敗して峠直下に至ってしまいつづら折れを挟まざるを得なくなった。三重側には無理がない。峠の切り通しの旧高さからジャストで下っていける。
2日目:朝方まで眠られなかったのが響き、目が差目田野は、もとい目が覚めたのは7:30過ぎだった。いつもの旅ならこれくらいでも余裕だが、予定が詰まり気味で、日が昇る頃には活動開始しなきゃと思っていたにもかかわらずのこの時間ゆえ少々凹む。右膝の痛みも引いていない。あれやこれや思案して予定を組み換えつつ飯を食う。
峠道の続きは似たような荒れ道。昨日のうちに偵察しておいたので状況やおよその所要時間は把握している。水場の谷を越え、大石垣と岩崖の難場(ここの写真は昨日のうちに撮っておけば良かったな・・・ここもスポット光で白黒い写真にならざるを得なかった)があり、2、3の谷渡りをすれば、自傷行動をする鳥を見た林道末端へ。往復写真撮影込み1h。だいたいその通りに行った。
当初の峠道を辿る時間は約2時間と見ていたが、これは道の大半が地道車道化あるいはその廃道と化していたお陰でクリアできた。全線がひどい廃道だったらもっと時間がかかっただろう。絶品とまでは言えないがそこそこな道。大石垣もある。
12時頃に波瀬山林舎に着く。そうそう、通りやすい道を通っていくとこの場所へジャストで出てくるのだ。国道を通っていくとひどく遠くにあるように見えるが。ここでの聞き込みを諦め、国道旧峠を諦め、現国道と高見トンネルを抜けていく。旧道は麓のほうのわずかな区間のみ。国道から上へ別れてからは膝痛と8年前に追っているのでパス。バイパス新道はそれほど走りづらいものではなかった。
麦谷でふと旧道に入り込み、たまたま居てはった方が軌道を見たことのある方だった。しばし話し込む。聞き込むぞ!と気合いを入れてやった時よりこういう偶然で出会った時のほうが収穫があるような気がする>nagajis
木津隧道。望遠で扁額を撮影し明治21年竣工と確認。念のため上に上がってみたが旧坑口はない。もともとこの位置にあったのだろう。しかし扁額があるほどだからよほど近代的な作りだったはずだ。県下で最初の近代的道路隧道であったかも知れない。それを考えるとやや特異点的な存在だ。(追記:9/30のにっき参照)
西吉野村に下り着いて4時。膝の痛みもあるので無難コースへ。しかしせっかくなので佐倉峠に行ってみようと思ったのが失敗だった。旧道に入り込んで行き止まり。あとで地形図を見ると行き止まりから見えていたあの場所が峠だったのだった。歩いて行っておけばよかった。(プリントしたのに忘れてきたのだ)
県道で高見川伝いに下る。下り一辺倒なので楽。吉村寅太郎終焉の地、ニホンオオカミの碑など地味ながら興味のあった物件に出会う。なるほどなるほど。さらに下って国栖へ。ここで人を訪ねて旧国栖隧道のことを聞く。正確な竣工年は地元の方(郷土史家の範疇に入る方)でも御存じなかったが、峠の北側山中にも荷車道があることを教えていただいた。いまの県道に沿う家々の裏手山中に残っているそうな。そうだろうな、なければあの山道を昇り降りせねばならなくなる。
6時までに着いたら入って行こうと思っていた中荘温泉。秒単位で間に合ったので入って行くことにする。ふだん自転車旅の先で温泉に入ることはない。どうせあとで汗だくになってしまうからだ。しかしこの日は日暮れて涼しくなりそうだし、あとは大和上市まで下る一方なので、これ幸いとばかりに寄って行く。お陰でさっぱりした。この贅沢のため夕食はおあづけ。帰ってやきそばの残りを食って寝た。
息抜きである。こんな絵葉書を入手した。
画像では判りづらいが金泥を使った上質な出来である。にもかかわらず絵柄の意図が謎である。判じ絵の一種なのかも知れない。
蛇、蛙、ナメクジが書いてある。蛇は針のような鋭い土台の上に乗っていて、いかにも蛇らしいニョロニョロなポーズを取っている。他の2つも元はそんな土台に乗っていたらしく、倒れた針土台が2つ描かれている。
蛇、蛙、ナメクジとくれば「三竦み」を連想する。カエルは蛇に睨まれると身動きが取れなくなる。蛇はナメクジを食べると死ぬ(と言われていた)。ナメクジはカエルの大好物である。そんな3者が集まると3すくみになって身動き取れなくなる。そんな3すくみを題材にした絵と思われる。
のだが、U字磁石の存在が場面をカオスにしてしまう。なぜ磁石なのか。
針土台に乗った各々は玩具であって、磁石か何かが仕込んであって、みっつ並べると3すくみ状態になる(突くとゆらゆら動きつつ隣を追尾する)ような玩具が存在したのかも知れない。それを磁石で崩してしまったという構図、なのだろうかと思ったものの、よく見れば蛇の体が長過ぎて、そういうバランスゲームには使えないように思われる。蛇の長さ>カエルの長さ+ナメクジの長さなので三角形を描くことができない。
蛇が倒れずに生き残っているのは、これが巳年の絵葉書として作られたからかも知れないと思った。にしても絵には落款が押されている(絵を印刷したものなのである)のはどういうわけか。こういう構図の日本画が古くから存在し、それを絵葉書にしたものらしいが。
真相を、ご存知の方はあるまいか。昨日からずっと気になって仕方ない。
ぎうぎう詰め込んだ。不用意に開いたら文字がフローしたり画像があっちこっち行ったりするに違いない。そのうえnagajis掘採文章である。密かにWord爆弾と名づけて送付した。という事実を未来に書いて私は帰る。
残り一本! は来週までお預けたい。
うーん。新たに発見したものの数は多いんだけど、肝心の兎が捕まえられなかった。可愛いトガリネズミには違いないが消化されずに排便された骨のシーケンスだ。それ一つ分析して組み直すだけで大変な手間。そして他に結びついて行かぬ。特に新道。
ランプ小屋を見に行って、そこでランプ小屋通信を手にしてしまった辺りから予定がじゃんじゃん逸れていった。敦賀港駅→敦賀市博物館→鉄輪町眼鏡橋→疋田のアーチ暗渠→麻生口隧道→新道→小刀根隧道でタイムアップ。柳ケ瀬隧道まで行けなんだ。頑張れば隧道口くらいは見れただろうけど。
トガリネズミ3匹で兎1匹と交換してくれないだろーか。
ちょうどその頃若狭国は滋賀県の一部であった。かといって滋賀県統計書は明治16年からしかなく。福井県も16年から。
大輪田ではこんな刻印煉瓦も見つかった。撥型異形煉瓦に押された「L」のような刻印。しかしLとは向きが違違って、正確に表現するなら”「”だ。こういうのを見つけてしまうと改めて煉瓦刻印の際限無さを思い知らされる。これの出処を突き止めるのはまず不可能であるだろう。もうひとつの異形煉瓦にあった組三本線?も。
この畑はもう一度行ってもっとじっくり探したい。縁石に使われているのでうかつに裏返せなかったし砂土まみれで表面が見えないのも多かった。持ち主の人に断って探させてもらったらもっといろんなことがわかりそうな気がする。急ぐ必要は無いけれども忘れないようにはしたい。
嫁!>nagajis
https://archive.org/details/gri_33125008732923/page/n403?q=brick+size
1820年代、19世紀のLondon stockは8・3/4×4・1/4×2・1/2インチ。ほぼ作業局形といってよし。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/846169/48
材料の購買試験検査
一 煉化石
明治二十九年二月二十五日試験且つ標本の為め公入札法に依り泉州堺播州舞子外三箇所のの製造に係る上等焼過及び赤焼煉化石各五百枚合計五千枚を購買せしに其品質価格も概ね判然したるを以て更に同年五月二十日上等赤焼煉化石六十万枚同焼過煉化石三十五万枚の公入札を執行し同年二十六日落札者 予定価格以内に於ける最低価格の投票者を謂う以下同じ と二種とも一枚九厘を以て購買の契約を締結す其仕様の要領左の如し
一 煉化石は上等赤焼及焼過の二種にして上等赤焼煉化石は長七寸三分幅三寸五分五厘厚一寸八分焼過煉化石は長七寸二分幅三寸五分厚一寸七分とす
二 煉化石は正形にして其質緻密鞏固のものたるべし
三 煉化石は全体通して十分に焼き上げたるものにして亀裂気泡焼滓其他の欠点なきものとす
四 煉化石は四枚を一点とし請負人の費用を以て掛官指定の場所に積み重ぬるものとす
五 煉化石は当出張所備付見本より品質劣等ならざるものたるべし
六 受授前に破損したる煉化石は勿論総て当出張所検査員に於て不完全と認めたるものは受取らざるものとす
煉瓦を購買する側の仕様書。あらかじめ見本を買って質を調べてから仕様を決めているのがまことに興味深い。とても現実的なやり方。そしてここで出てくる寸法がほぼ並形、ただし焼過煉瓦については収縮を認めて少し小さく取っている。焼過煉瓦が小さくなる傾向ははるか以前から認識されていて、仕方ないことと考えられていたようだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1708528/173
『新鉄道法令集 下巻』より。明治44年7月28日公布、達第563号。第一種 ・第二種のサイズを定めている。第一種は東京形と同型、第二種はいわゆる作業局形ライクなやつ。「但両種共寸法は長さに於て二分幅及厚さに於て一分の伸縮を許す」という注意書きがミソ。相当甘い。
この達で「明治24年11月18日甲第1137号(経理課長)達は自今廃止す」とあるのを見つけ…
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/796897/852
ついに見つけた。『鉄道と煉瓦』にも載っていなかった鉄道作業局最初期の煉瓦規格!
煉化石検査標準自今別紙之通相定候に付検査委員へ建示遵守せしむべし並煉化石検査標準
- 壱等品
- 寸法 長は八吋四分の三より九吋迄幅四吋四分の一より四吋半迄厚二吋四分の一○目方六百四十目以上
- 品質 質分緻密にして吸水量百分の十
- 火度 最適度のもの
- 形状 角度正しくして瑕なきもの
- 弐等品
- 寸法 長八吋半より九吋迄幅四吋四分の一より四吋半迄厚二吋四分の一○目方六百四十目以上
- 品質 質分緻密にして吸水量百分の十二
- 火度 適度のもの
- 形状 角度正しく一面又は二面無瑕にして上積に差支なきもの
- 参等品
- 寸法 長八吋半より九吋迄幅四吋より四吋半迄厚二吋四分の一○目方六百
- 四十目以上
- 品質 質分緻密を欠き吸水量百分の十五
- 火度 稍過不及あるもの
- 形状 角度正しくっして少許の瑕数点あるもの
煉瓦の質によって三等に分け、厚さ2・1/4で固定、長・幅については余裕を持たせてある。その中央値が大高のいう作業局形になっている。一等品でみれば中央値8・7/8インチ×4・3/8インチ=22.5425センチ×11.1125センチ。これを尺寸に寄せた結果があれなのだ。
1インチ=0.8382寸という換算をすれば、8・7/8×4・3/8×2・1/2インチ=7.437×3.666×1.8855寸。この値を7寸4分にするか7寸5分にするか、3寸6分にするか3寸7分にするか……という話。ここで厚だけ5厘刻みにしたのは嫌らしいようで意味がある。仕様書では厚だけ決め打ちにされていて厳密に合わせる必要があったから・・・だと思うのだが実は1寸9分のほうが2・1/2インチには近いのだった。0.042cmしか違わんのよね。やっぱ嫌らしかぞ>大高。
8・1/2インチ‐9インチ=21.59センチ‐22.86センチ。1センチ弱の差がある。M44の規定で大小2分の差を認めているので計4分=1.2cmは違うってことになる。まあ同じくらい。
というタイトルのクソスレのまとめを見てしまい、
数学者「イッちゃうううううう」ビブンビブン
という米に腹を抱えて笑ってしまった。ここ2、3日そればかり頭を巡っている。悔しいこんなのでビブンビブン。
何故か立て続けに入金反映されてないぞゴルァがあった。びくびくしながらログを確認したら、その二つのゴルァの間の入金はちゃんと反映されているのだった。どういうことだ。
前回のアップデートの時、かなりad hocな修正で凌いだので、正直つらいのである。これ以上変えないでくれ>Paypal
_ しとろん [メガネのレンズはコンパウンドで磨くとコーティングがダメになっちゃうよん]
_ nagajis [思いとどまってヨカッタ・・・]