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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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1941-09-27 この日を編集

[陸幼日記]九月二十七日 土曜日 晴

午後内務検査(体操帽・帯・銃剣)あり。久し振りに随意運動行い、大いにあばれたり。自習中も大いに自習をなしてあきたり。愉快に一日が暮せたり。正義は必勝す。と心に固めたり。

〔「正義は必勝す」に朱線、欄外「然り」〕


1942-09-27 この日を編集

[陸幼日記]九月二七日 日 晴

近くより栗を取り来りて食す。さすがにうまきものなり。十時半帰校、品田・脇を医務室に訪る。整頓をなし午後は休養す。愉快なる日なりしが有意義に感ぜず。


2008-09-27 超内向的独言 この日を編集

[独言] 独言

自身の思想なり思考なりを、心の襞の奥底まで余す所無く書き尽くすことができたならば、人はものを書くことにこだわったりはしない。書いても書いても書き尽くせない、剰え言葉にしようものなら軽薄に過ぎたり「みたいな」の連続だったりするような、微妙な心理があるからこそ、そしてそれを何とかしてカタチにしてみたいからこそ、人に伝えたいからこそ文を書く。自身では拙いと解り切っている字句麗辞慣用詞を並べ立ててでも書く。

が、悪魔の囁き。そこまでして伝えたいと思うのなぜ? 自らの言い分を認めてほしいから? 自らの存在を知らしめたいから? 1億6000万分の1であることが、そんなに恐いかい?

神の存在よりもむしろ先に、悪魔の居ることを私は確信する。悪人正機の言葉にすがり他力本願を本気で信じる哀れな仏教徒・nagajis。それに気づいてしまう辺りからして未来永劫救われないだろうと思う。知りたいことを知り、書きたいことを書き、生きたいように生きる、でいいじゃないか。もちろん、人のゴキゲンをスパイしつつ嘘臭く生きるのもマタハリだが。

ORJに専念しはじめて、言いたいことをずいぶん書けるようになってきた。絶対的な尺度ではなく初めた当初からの相対的な尺度で。これができるようになったことは無上の感謝。貧しくても、社会的な地位もなくても、こうして書いていられるということに、感謝。そして寝る。


2010-09-27 この日を編集

[独言] 村田のいた街 second season

画像の説明大字の一文字がよくわからなかった。そのせいで後回しにしてしまい、驚愕の事実に気付くのに遅れた。

大正7年4月に埼玉県内務部土木課を辞し、同年10月に滋賀県へ赴くまでのごくわずかな期間、村田は大阪府庁に務めていた。正確に言えば大正7年5月7日から9月28日までの4カ月強である。その頃村田はどこに住んでいたかというと、右の住所であった。滋賀県に提出された履歴書にそう書かれてある。あるいは府を依願退職した後の仮の住まいであったかも知れないが、ともかくこの場所に村田鶴は住んでいた。

ぱっと見でピンと来る住所ではなかった。しかし改めて“解読”してみると

大阪府豊能郡秦野村大字

であった。驚かないわけがない。豊能郡といえばいわゆる北摂と呼ばれる地域であり今の池田市である。私がいま住んでいる場所から5kmも離れていない。天神荘に居た頃には北摂詣でや暇つぶし@池田のために何度も何度も何度も通った場所である。

秦野村は明治半ばの町村合併で誕生し、昭和10年に池田町と合併、池田市となって消滅している。今日秦野という地名は小学校や派出所の名前に残っているだけだ。大字田というのもよくわからなかったが、今の表記で言えば田であることが、昭和14年発行の「大阪府池田市土地宝典」によって判明した。この頃すでに秦野村は消滅しているが、旧田村の名を継承したと思しき大字「田」があり「北田」「中田」「南田」の3小字も見える。書き方はまさに村田の字の通りである(字田は昭和19年まで存在。その後才田町になり、昭和35年に城南3丁目、40年に八王子、、緑丘、鉢塚、井口堂、荘園、旭丘の各大字に分割された)。

画像の説明田であれば旧版地形図(大正2年版「大阪西北部」)にも載っている。旧能勢街道が貫く要衝の町。今日この方面の幹線道となっている国道171号は昭和の初めに府の十大路線の一つとして整備され、才田の南、阪急宝塚線と平行する新線として誕生した。今日の才田はかつて能勢街道の要衝であった頃の面影は全くなく、真新しい住宅が立ち並び、かたや産総研が殿と控えるような土地になっている(字北才田、中才田の一部が産総研の敷地になっている)。

画像の説明画像の説明

画像の説明
ここから府庁へ通ったのだとしたら…。能勢街道を10分ほど歩いて池田駅へ。そこから箕電(現・阪急宝塚線)で約1時間で大阪へ出ることができただろう。南へ向かって石橋駅(!)から乗ることもできる。車があれば、西国街道を通って三島郡味舌村の現場へ行くこともできただろう。いずれもちょっと遠いが、当時この辺りを小林一三が絶賛売り出し中だったことを考えると、荒唐無稽な家選びというわけでもなかったように思われる。

画像の説明東国から大阪に移るということは、茨城から埼玉へ移った時とは比べ物にならない変化だったに違い無い。激変した生活環境に村田は何を思っただろう。石橋以南は畑続きの超ド田舎を走り「ミミズ電車」と蔑まれた茶色い電車に乗って何を思ったか。阪急電車に乗りながらそんなことを考えた。まさかこの電車に、村田繋がりを見い出すことになろうとは。

[奇妙なポテンシャル] #197

画像の説明流行の事物あるいはキャラクターを用いて印象に刻もうという手法は否定しないが、もう少しものを考えてからやってもらいたいものである。だいいちこの宣言、主語がわからない。誰がアルパカを守らなければならないのかがわからない。仮に主語が『一般市民』であり一般市民に守ってもらいたいルールをア・ル・パ・カの4字に載せて伝えようという意図だとしたら、『パ』の「パトロールしましょう」が場にそぐわない。一般市民がパトロール、などというと井戸に毒を放り込んだ疑いでの私刑が罷り通る自警団とかモヒカン刈りトゲトゲショルダー集団による「汚物は消毒だー」な世界に通じる暗さばかりが感じられる。かといって主語を『池田警察署』とみなすのも難しい。警察が自身に向かってわざわざ「『ル』ルールを守りましょう」と訴える姿など見たくは無い。『ア』に至っては主語以前の問題である。「安全安心なまちづくり」をどうしようというのか。するのかしないのか。そこは空気読めという向きもあるかも知れないが、「する」だとしても「どのように安全安心にするのか」がはっきりしないまま「アルパカ」に乗せたところで何になろう。「アルパカ」を覚えたところで終いではないか。「アルパカの『ア』」→「安全安心な町づくり」、以上。では、何の発展も齎さないではないか。次のアクションあるいはその引き金となる何かがなければ、印象を刻んだところで無駄無価値である。

要するに「パトロールの『パ』」が言いたかっただけちゃうんか、と思う。そこから始まり無理矢理「ア」「ル」「カ」を紡ぎ出したに違い無いのだ。

[独言] 続・才田

旧秦野村の村域にはもう一つ才田という小字があった。土地宝典時代の小字だから秦野村大字才田である可能性もある。念のために、というよりも最初の目星として向かったのがこちらの才田だった。

いまの池田市と箕面市の境の辺りにある。渋谷高校のはす向かい、西国巡礼街道沿いと言って解る人はあるまい。ともかく阪急からも国道からも離れた辺鄙な所である。

池田市の他の地域と同様、新興住宅の立ち並ぶ一角だが、巡礼街道に面した所に小さな畑があった。そこで草取りをしている方に話を伺ってみた。たった4カ月しかいなかった人のことを問うのは無駄だろうが、この土地がどんな土地なのか、話を聞いてみたくなったのだ。その方は、確かに父親からサイタという地名を聞いたことがあると仰った。しかも400年来の過去帳があるという。そのような旧家の主だったのは意外でもあり小さな収穫でもあった。こういう偶然があるから、人は「神の悪戯」などという言葉を編み出したに違いない。

この土地を「池田の北海道」と仰ったのはある種の諧謔だとしても、不便な場所であることは間違いない。池田駅、石橋駅、箕面駅、いずれの駅にも徒歩30分。かつては池田山手線も通っていず、バスさえ通わない郊外の外だった。ただし、北摂山地の裾野の最上段である故に見晴らしは大変良い。ビルや建物が立て込んでいなかった昔−−−主は人っ子一人いない原野のような場所だったと仰った−−−は大阪市街まで見通せた。実際マンションとマンションの隙間から梅田のスカイタワーを見ることができた。

いくら箕電が通っていた村だとしても、府庁勤めの人間が住まうのに適した立地ではない。そう判断した。しかし見ず知らずの人と話し込んだ夕まぐれの一時が忘れ得ぬ印象となった。

そういうことを書いてみることのできる場所は、ここしかないのである。誰かと共有した時間は、その人との思い出として、公に語るのは憚られる。大事に大事に取っておきたい。ただ一人で歩いた夕闇の街並の、寂しさと懐かしさと驚きがない交ぜになった印象こそ、書いて誰かと共有したくなるというものではなかろうか。例えそれが「だからどうした」と継がれようとも、だ。

[独言] で、

明日こそは奈良図へゆく。目が覚めたら12時過ぎだった体たらくをくり返してはならない。じょ。

今日は休館日だぜ! 事前に気づいてやったぜ! ざまあみろヒャッハー!

[独言] うむ

もうちょっと練習せねば。画像の説明

本日のツッコミ(全4件) [ツッコミを入れる]

Before...

_ nagajis [似たようなモンテスキュー。]

_ みつ [元上池田住民なので懐かしい地名が、、、、五月山の鉱山跡も探してみたいものです。]

_ 井口堂をこよなく愛するひと [豊中駅がない!! jisちゃんかわいいですか あと、阪急の創業者は『小林十三』ではなく『一三』です。]


2011-09-27 この日を編集

[独言] ああギコギコ

出だしはいつも低調だ。あれこれ悩んでも仕方ない。勢いで突っ走るのが吉。そのためにもここにてけてけ書いてみる価値がある。と思う。

結局のところキーを叩いているうちに出来上がるのよね。事件が現場で起こっているように。脳内でこねくり回しても仕方無し、延髄反射に任せてなんとかしよう。

ということで格闘したがあんまり進まなかった。基礎教養という割にはそれで過半になりそうな塩梅だし、字数稼ぎにしか見えないし。ただ本人が書き残したものが少ない以上、最適な代弁者としてご登場願うことは必要悪なんじゃないかと思う。思い切って進めるがよろしい。

ということで珍しくアルコール摂取して寝ようとしたが失敗した。ううむどうしてくれようこの手持ち無沙汰。

[絵葉書] 徳島県大歩危峡

画像の説明ということで絵葉書。徳島県の大歩危峡。金比羅瀬付近という解説もある。最初に手にしたときは「ふーん」程度にしか思わなかったのだが、よくよく眺めているうちに気になることを発見した。

画像の説明

拡大図。これって隧道じゃね? 白く光っている道はぐねぐねしながら繋がっているように見えるがよく見ると路肩の雑草らしき影が横断している。右へ曲って?隧道?に入っているように見える。どうなんだろう。

帰ってからいろいろ調べてみたけれどもよくわからなかった。そもそも大歩危の金比羅瀬っていうのがどこなのかわからない(似たような角度で金比羅瀬を写した絵葉書は見つかったんだが)。もちろん現国道32号の線にはトンネルなんて無いし。目の錯覚か、光と影のイリュージョンなのだろうか……

追伸。戸倉上山田の絵葉書について、tyafficさんから続報をいただいた。絵葉書に写る道は現県道77号線で、明治時代に作られた新道であるらしいとか。橋は「大正橋」といって昭和6年竣工。昭和なのになぜ大正橋?というのにも答えを頂いてて、先代の橋は大正3年に架けられたんだそうだ。残念ながら平成14年に架替済。感謝!>tyafficさん

[絵葉書][橋梁] 富山県黒部峡谷・跡曳橋

画像の説明隧道が気になる絵葉書といえばこれ。主題は黒部峡谷鉄道のスパンドレルブレースドアーチの跡曳橋。しかしそのたもとに……

画像の説明
引込線らしい隧道がある。その先に続きはないように見える。背後の水路橋を建設するためのものだろうか?

本日のツッコミ(全1件) [ツッコミを入れる]

_ おれぐ [これは黒薙第二発電所の専用線で、今もほぼそのままの形で現役です。使用頻度は低く、今は一応通行禁止ですが、以前は普通に観光客が通ってましたね…。]


2016-09-27 この日を編集

[独言] 療養中

はなのおくのへんとうせんにえんかあえんをぬられていたい。原因がわかったのはよいがこの治療のほうがいたいというのはどういうことか。血止まらんし。

そういうわけですこし待っていただきたく>各位。

返事がないのはかんぶがへんとうせんというギャグである。

なわけないだろう。

[独言] 耐火煉瓦

せっかく社章を書いたので刻印集成に入れてみたくはあるのだが肝心の現物写真がないので締まらないことになること必至なのだった。受付にもらった高山耕山のタイ産レンガもとい耐酸煉瓦くらいしかねえ。その隣の飛行船マークの三石耐火とか、何で撮ってないのかね。

てなもんだから、入れたところで操業年とかの基礎データと、どこどこで発見されちょる情報くらいしか載せられない。現行版でもずいぶんスカスカなのに、さらにVoidicにしてもしゃあないような気はする。あと使用年度とか超不明。

耐火煉瓦は広域に分布するとわかっていながら関西中国四国の工場一覧だけで推断しようとしているのは我ながら笑止なのだが他に書くことがないのだよ。現時点で言えること・気がついたことのメモ程度に捉えていただかないと困る(勝手に困ってろ)。

[独言] いつ・どこで

↑の「言えること・気がついたこと」のようなナカグロの使い方とか、縦書き日本語のくせにコロンやセミコロンを使ってしまう気分は、今日泊亜蘭の作品の影響を受けたからでは決してない。氏の作品を先日初めて読んで、その中にそういう表記を多数みつけて妙にしっくり来てしまった。どこかで知らない内に読んでたんじゃねえかと思ってしまったほど。しかし。、てな句読点の使い方は馴染まないな。植かと思った。ニュアンスは理解できたのだけどそれが指をついて出てくるほどには馴染んでくれない。馴染んでしまっても困るけれど。

横書きの時に正規表現で表したくなることは(まま|時おり|ふと)ある。でも大半はパースエラーを起こしているので通らないはずだ?。一般には通用しないししかし先駆者は多数。

[独言] 食いたいものがない

アレが食べたいコレが食べたいと思うことがなくなってしまった。焼きうどんが食いたくなったりペペロンチーノにはまったり鶏レバーを焼きたくなったりインドカレー禁断症状が出たりすることがここ最近なくなってしまった。在れば食べるが無かったら無いで何でもいいという感じ。よくない徴候である。

旨いものを食べたいという欲は基本的に希薄である。旅先の名物に固執することはない。逆に避けているほうだと思う。nagajisごときが外食か、贅沢な、と思うからだ。人は何もすることがないと食べ物に向かうものだと思っている。何もすることがないことは贅沢である。ブルジョワジーの所作である。土地のうまいものがその土地普遍の食でないことはとうの昔に気づいている。間人の住人がカニばかり喰っているわけでなく、だったら鳥味噌漬けとかささみの醤油漬けとかのほうがいい。

とはいうものの、腹が減れば自ずと食いたいものが浮かんできたものだ。今日はカレーにしようとか、ハンバーグ捏ねてみようとか。なんか野菜が食いたいな、とか。そういう自然と浮かんでくるものがここ最近なくなってきたことに危機感を覚えるのだ。食うことに飽きたのだろうかこの男は。そう思って愕然とする昨今である。

[独言] 熱帯雨林の保全活動

家庭菜園が農業のスケールダウンでありながら野菜の成長・収穫時期に変わりがないごとく、やっている保全活動は小規模な行ないに見えて実は熱帯雨林生態の縮図でなく熱帯雨林そのものの一側面なのだなと、自分でもよくわからない例えでわかったつもりになっている。沢山植えてみなければ何が育つかわからない。大きく育てと願って植えても立ち枯れるものは立ち枯れるし、適当に植えたほうがよく育ったりとかもする。その一見偶然・漫然に見える盛衰のうちに熱帯雨林特有の法則性が確かに潜んでいるのである。それを見極めたい。となると保全活動屋というより観察者だな。

[煉瓦] ビビった

国立国会図書館で検索していたら自分が書いた記事が出てきてビビった。KINIASの研究ノートでも拾ってくれるんだねえ。有り難いことだねえ。


2018-09-27 この日を編集

[料理] さしみのつまをつくる

昨晩のお好み焼きのリベンジでも良かったのであるがお好み焼き粉その他と共にお安く売られていたかつおのたたきを購入していたことを思い出しそれをかたしてしまわなければと決意した瞬間に興味は早や添え物のほうに移っていってまず最初に思いついたのは玉葱を薄くスライスしたものであったがこれは既に試したことがあるので特に懸念はなく面白みにも欠けるのでそれを補うものとして第二の添え物を考慮したところけん即ちさしみのつまは自作したことがなかったなと気づきそうか私には大根の桂剥きの経験がないのだこの際だから桂剥きにも挑戦してみようではないかうんそうしよう双子葉ということで帰りがけに大根半本98えんを購ってきて早速取り掛かってみたわけだけれどもこれが中々難しく思うようにいかなかったのはある意味想定の範囲内前後誤差5%に収まる事象であってそれこそ練習のしがいがあるというものと思い直し無心になって桂剥きに勤しんでいるうちにわずかながらコツのようなものがつかめたのであるがそのコツというのは包丁の刃のほうを動かそうと意識するより大根のほうを刃に押し付けるようにして切るほうがうまくいくらしいことと刃を上下に動かすよりもムリムリと押しつけて切るほうがまだ薄く切れそうな塩梅だったことでただし後者は決してスムーズな動きでなく仕上がりも美しくないうえに大根汁がボトボトたれて見苦しいこと限りなしなので刃を上下に動かす切り方も練習してみたのだけれどもやはりそちらはなかなか上手くは行かぬなんとなればその切り方だと大根を支える左手の方にばかり力が入って逆にうまく静止できないうえに右手に握った包丁への注意が疎かになって刃を滑らせた結果勢い余って桂剥きの桂とでも言うべき部分をざくっと切り裂いてしまい酷い時には刃が親指の付け根目掛けて横滑りして飛んでくるという危険極まりない瞬間を何度も経験して冷や汗をかくこと数次であったこれは包丁が中途半端に切れるせいであるようにも思うし百均で購入した刃先が湾曲した所謂文化包丁を使用しているせいでもあるようにも思えそもそもの話として初桂剥きのくせにいきなり幅広の胴長さ約10cmで挑戦してしまったのも良くなかったようでありともかくそのような試行錯誤の結果として理想的な桂剥き即ち巻物の如くな長い桂はちっとも剥けないでどう頑張っても10cmも続かない断片的な桂ばかりが出来上がり無論その厚さは1mmから3mmの間を脈動する如くな不均等厚のものとなり厚さがそんなであるものだからけんにすれば径数mmの塊状けんとなってしまってさしみのつまとは決して言うことのできないお粗末な物体が出来上がり続けるのであったとはいうものの薄いところはそれなりに薄くできたし多少厚いところがあったとしてもそれは未だ経験したことのない新食感例えて言うなら薄切りポテトチップスに対するざく切りポテトの如くな歯触りがあってそれはそれで納得できたしむしろ問題は桂を千切りにするところにあることを思い知らされた次第過日あれだけキャベツの千切りを練習したにも関わらず端々まで切通すことができず即ちけんを一本一本正しく分離させることができず蛸足かささら足状とでもうべき切り損ねのけんを大量に発生させてしまったのであったがこれは要するに刃先の湾曲を意識し切れていないため刃を滑らせる距離を見誤り不足して切断し切ることができなかったのであり或いは刃先湾曲を利用して刃を滑らせた後に押し切るような動きを加えてやるべきなのだろうと思ったりもしたがというよりキャベツ千切り時代からそう意識してはいたのだがそう意識をしたつもりでいても意識通り事が運ぶであれば苦労はしないのであって未だにそれが身になってはいなのであったここで刃渡りの大きな包丁刃先のストレートな包丁を贖い求めることなど考えてはいけない良い道具は良い仕事の必要十分条件には非ずしてむしろ正確な繰り返し動作なりサクサクサクと切るタイミングの計らい方であったりを会得体得することのほうが先であり上達に必要なことであるはずであってそれを極めた上で良い道具を持たなければ宝の持ち腐れとなるであろう包丁に失礼であるだろうと信ずる私は結局のところざく切りポテト然とした太いけんを無闇に大量生産するばかりで相変わらず厚いけんシートの断片しか作り得なかったのであったその結果として千切り欲は満たされたものの肝心のモノはモノにならぬまま不本意なままでつま作りを終えねばならなかった。これくらい連続した桂剥きをしてみたいものである。

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ しゃちお [そうしよう趙紫陽!]

_ nagajis [あ、それ次使わせてもらいます(笑]


2019-09-27 この日を編集

[] イギリス煉瓦製造史("A history of English brickwork : with examples and notes of the architectural use and manipulation of brick from mediaeval times to the end of the Georgian period" / by Nathaniel Lloyd ; with an introduction by Sir Edwin L. Lutyens.

https://archive.org/details/b1105040/page/n29

1925年、日本がも少しで昭和元年を迎えそうな頃、イギリスではすでに煉瓦製造の歴史の本が書かれておって、それを令和元年のnagajisが読んでいるわけである。なんともかんともである。

煉瓦サイズからその構造物の年代を推定する試みはこの本以前からしきりに試みられていたようだが、著者はそれ無理、おおまかで一般的なアレには使えるかも知れんけどっていう立場らしい。測定結果が人によって異なるし(最大なのか最小なのか平均なのか)、1つの構造物のなかで1インチくらい違うこともざらにある。ell単位で作られているのかyard法なのかで分けるとかはできるけどもある時代のスタンダードなサイズはないということを言っている(はず)。うしろのページの表なんかも必ずしも明確な傾向を示していない。徐々に小さく・薄くなっていく傾向はあるけれども、だからといって厚2-1/2の煉瓦がどの時代の、というようなことは言えない。

逆に言ったら日本のほうがその点有利なのかも知れん。外国から持ち込まれた見本の煉瓦、あるいはお雇い外国人が示した煉瓦のサイズを金科玉条に守っておけばよく、そういう態度が比較的早い段階から「東京形」「並形」「作業局形」などなどの定形を産んだ。煉瓦寸法で定形を絞り込もうと思えばできないことはない。ただその「東京形」「並形」「作業局形」に厳密な意味でのdimensionがなく。人・文献によって1寸違うとかザラにあるせいで困っている。何寸何分を何形と呼んでいたかっていうところから固まっちょらんのである。困ったことであり悩ましいことである。

[煉瓦][独言] 建築工事設計便覧

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/846222/62

7.5×3.6×2.0の東京形をもとに展開。7寸5分の煉瓦を8枚並べると約1間になる。しかしこれは目地のことを考えていない。7.5*3.03*8=181.8cmなので煉瓦だけで1間を越えてしまう。高さについては2寸2分5厘として計算すると4段で9寸となり都合宜しとある。こっちは目地考えてるんだ。

七寸四分だと179.3なので、これでも目地は足りない。7寸3分なら3cm開くんで4mm強の目地が必ず取れる。煉瓦で尺寸設計のモノを造る時は7寸3分=並形のほうが都合がいい。

基本的なサイズからかなり縮小することを最初から見越して考えていると考えるべきなんだろう。ソモ煉瓦壁を尺寸で設計することがなかったかだ。インチなら問題ないのかも知れぬ。

[煉瓦][独言] 実用土木便覧. [正]

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/845830/39

東京の本だが珍しく並形を基準にして考えている。数ページ後の計算では幅3寸5分5厘厚1寸9分で計算したりしている。ああそうか、これは土木の便覧なのだ。


2022-09-27 この日を編集

[煉瓦] 愚かではないか。愚の骨頂ではないか。

現地に着く頃に雨が激しくなり、びしょ濡れになりながら測ったりしたものの、なんでそんな悪天候を選び取るようにして来てしまったのかと思い、まことに情けなくなった。ザックがびしょ濡れになって財布が全水没したりもした。そこまでして今日調べなければならなかったわけじゃない。無為な時間を過ごしたくなかっただけなのだ。

雨に濡れ、ボールペンをなくし、財布を濡らし、両手に荷物でいらいらし右足の痛みを堪えてまでして知りたかったのは何なのか。自分自身よくわからない。現物写真が撮れただけじゃないか、しかもびしょびしょの。 画像の説明

立花駅の前後は意外と煉瓦橋台がよく残っている。出口川暗渠が川ごと埋め立てられている以外は現存するようだ。しかしタイミングが悪すぎた。長靴でも入れないくらいの増水をしていて接近できなかったものが多い。

測れた限りではどれも厚56mm前後でかなり統一されている。表に露出している部分でそれなので規格としてはおそらく2-1/4in(57.15mm)を意図しているものと思う。煉瓦は小口長手が焼き締まって縮んでいることが多い。煉瓦の中央の厚さで測ることができれば57mm前後に落ち着くはずだ。

どれもよく焼けたきれいな煉瓦で、ひょっとしたら後年まるっと作りなおされたのだろうかと思ってしまう。木仙上谷や東皿池か安井だったかで見られたという職人の印も見当たらず。明石の煉瓦と堺の煉瓦と混在しているはずで、今日見てきたものはどれも堺ぽい感じがしたがどうだろう。そういや東皿池も安井もまじまじと見つめたことあったっけか。大昔に写真だけ撮った気はするが。


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