nagajisの日不定記。
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歴史というものに触れれば触れるほど自分の立ち位置がわからなくなってくる.書物や聞き語りで知った歴史は自分が直接見聞きしたものではないのだから,それを書くときに「という」のような伝聞形を使うのが相応しいように思っている.かといって「という」「らしい」の連続ではサマにならない.そんな曖昧なもの,誰が喜んで読むだろう,と自分でも思う.しかし伝聞は伝聞なのだから,正確を期するには伝聞形で書いておかなければ.と独り悶々として揺れている.どっちつかずが一番よくないのもわかっている.「だ」「である」の断定形を使って臆面せぬ人の心境に早くなりたいものである.
歴史を「だ」「である」で記述することは,書き手の責任(責任表示義務)なのかもしれない.間違ってても私の責任だよ,という意思表示としての断定形.しかしそういう間違いを間違いだと指摘してもらえ,修正する機会があるのならばともかく,そのまま放置されてしまうことのほうがはるかに多い.そうするとなおさらタチが悪いものになってしまう.知らぬ間にそれが真実味を帯びてきて,あたかもそれが揺るぎない事実であるかのようになってしまう.数十年数百年後に「昔のpdfにこんなことが書かれていた」というようなことになって,その頃の人の頭を悩ませることにもなりかねない.そこまで残るという自負があるわけじゃない.深く考えずに適当に書いていたものが何かの拍子で歴史をややこしくしてしまう可能性がゼロでないから心配している(江戸時代の日記とか紀行文とか,まさか自分が歴史になるだろうとは思ってなかっただろうにもかかわらずそういう観点で見られている.同じようなことが我が身に起こらないとは限らないし,資料の齟齬にさんざん悩まされている身にはなおさら怖く感じられる.同じ事をしちゃいかんと思う).
歴史を題材にしたフィクションだと受け取ってもらえたら楽なんだが.そういうわけにもいかないか.いまさら.
とnagajisは考えたらしい.
出典が確かなもの(史書に載っているなど)は断定、出典が曖昧なもの(記憶にないもの)は伝聞、にしています。先人の研究を事実と認定しないと、そこの検証をする無限ループに…。
まあ、そうですよね・・・。原典が間違ってたらどうしよとか考えてたらきりがありません。
「鉄道忌避伝説の謎」辺りを踏まえたお話ですよね。<br> ~によれば~である、って感じで出典を明らかにしてれば、断定していても後世の混乱のもとにはならないと思いますです。拝読させて頂いてる限りでは、nagajis先生の文章は「伝聞」と「それ以外」を混同するようには書かれていないし、さりとて読みにくいとも思いませんですが