nagajisの日不定記。
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回収ミッションは無事終了したのだが幹事会の日を一日間違えた。電車代540 えんも無駄遣いした・・・。
顔の本に逃げようかと思ったがやめとこう。バレたらどっちもどっちだし閉鎖空間に持ってったらそれこそ意味ねえ。。。
朝和村道路元標はNPO法人京都歴史地理同考会さんが回収して保管している。この団体さんは歴史的遺物の保存・活用を行なっていて、例えば石碑や顕彰碑に解説看板を設置したり、工事で撤去されそうになった石碑の移設保存なんかをされているのだそうだ。本来は京都が活動エリアなのだけれども、たまたま町を歩いていた時にこれを見つけて、放っておくと亡失するんじゃないかと心配してはったそう。初めて気づかれたのは今から10年ほど前のこと。そうして行動に移したのが昨年の11月。(近代化遺産調査とは全く関係がない。念のため書き添えておく)
現在その移設先をどうやって確保しようか思案中という。会長さんが天理大学の非常勤講師をされている由で、最悪大学のどこかにとも考えていたが、できれば元あった場所に戻したいと仰る。ぜひそうすべきだと思う。お手伝いになればと思い「道路元標一件」の抜き刷りをお渡しして些末事含むあれこれをご説明してきた。
そもそも何で天理市にあったものが京都南区まで飛んでいったのか、よくわからない。突っ込んでもわからなそうだし、わかったところで誰かの得になるわけでもなさげだから、その方面は追求しないでおこう。畝傍町道路元標は駅前工事を請け負った建設会社が保管してくれていた。朝和村も溝の工事か角切りかの工事があって以降行方知れずになったそうだから(「尋ねて」)、同じようなことが起こったのかも知れれぬ。「尋ねて」には改訂天理市史下巻に「旧朝和村役場前にあったが現在行方不明」と書いてあると書いてある。告示では別の場所に設置することになっていたので、折損したのを公民館に運び込み、さらにそれが移動されられた可能性もなきにしもあらずだ。
現物は後頭部左側?に大きな打撲傷?があり、そこにぶつけられて折れたと思われる。しかし若干謎。「道路元標一件」によれば、南北に伸びる上街道(府県道奈良津線)から長柄駅に向かう道が分岐する┤字路の北角に設置したことになっている(げ、間違った地図渡しちまった)。旧上街道に面して建っていたはずなのでその側に車がぶつかることはあり得ない。例えば城島村道路元標のように向きを変えて建て直されていたとしたらあり得るだろう。上街道を背にして建っていて、北から来て駅の方へ右折した車が巻き込んだらここに傷ができる。
元標の残存率を計算しようとしたがどうもウマくない。
T9時点で154市町村あった。
白樫村がなくなり、畝傍町元標と樫原元標が設置された。
馬見村、南生駒村は亡失(多分)。当麻村は一応現存とみなす。掖上村と川上村と朝和村は現存。
櫟本村は現存と見なす?見なさない?>見なさない・・・
現存数71。「尋ねて」では69。神戸村と高市村と朝和村が見つかって・・・ってあれ2本亡失じゃなかったっけか? 樫原は入れてはらんのか。
分子を71とみなすか、72とみなすか。分母を154とみなすか、155とみなすか。
71/155=0.458.. 45.8%。とりあえずこんくらいは残ってる。他府県はどうやろね。
ああそうそう、これで奈良津線は丹波市から三重県境まで繋がった。