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2013-04-17 [長年日記]

[煉瓦] 大阪市の煉瓦産業

「日本連歌師の研究」もとい「日本煉瓦史の研究」を読んだ。大阪のみならず日本近代の煉瓦製造業の成り立ちがわかって面白い。「工場通覧」で見かけたあの会社この会社も出てくる。しかし完全に解明されているというわけでもないようだ(特に大阪エリアは)。一度原典にあたって勉強してみたくなった。

(イ)煉瓦 和泉国には良質の粘土を豊富に産出し、古来瓦製造業が盛んであったが、明治初年造幣局及砲兵工廠の建築起工に際し之に充用する煉瓦製造の目的を以て三・四の煉瓦製造業者が現れた。大阪市に於ける煉瓦製造業はかかる状態に刺激せられて起りしものであって、明治九年田中盛秀が福島に工場を設け、之を盛秀館と称して耐火煉瓦の製造を開始せしをその嚆矢とする。其後造幣局・砲兵工廠を始め、各硝子製造所に耐火煉瓦の需要盛んとなるに及び、十五年に創業せる硫酸瓶製造会社も煉瓦の製造を兼営し、十六年には耐火煉瓦の製造を専門とする五成舎が起り、其他津枝三雄の製々舎貞徳舎広瀬倉平工場横山耐火煉瓦製造所等多数の同業者が輩出した。此間焼成工程も機械化したのであって、例えば前記硫酸瓶製造会社は二十年に大阪窯業株式会社と改称し、ホフマン式輪窯一基を築造して煉瓦製造事業を拡張し、二十六年よりは煉瓦専門工場となった。
 日清戦争前後には建築用煉瓦の需要増加せるため斯業は益々盛んとなり、三十年には 津守煉瓦株式会社住吉煉瓦株式会社天王寺煉瓦株式会社の如き新設会社も現れたが、他方には斯業の雄、大阪窯業株式会社が三十一年堺の分工場へ本社を移転せし為め、大阪の赤煉瓦製造業は衰えた。併し三十七年東京の品川煉瓦株式会社が大阪に支店を設くるに及び、大阪は関西に於ける耐火煉瓦の主要なる産地となった。爾来大阪は耐火煉瓦の生産地として発展し、大正九年に大阪硬化煉瓦株式会社が起って硬化煉瓦の製造を開始せし以外、多くの煉瓦製造業者は殆ど耐火煉瓦の製造に従事している。(「明治大正大阪市史」第2巻)

同書には生産額の推移も載っている(単位:千円)。明治末〜大正にかけて耐火煉瓦が主だったことがわかる。

耐火煉瓦 普通煉瓦 その他 計
明治41年 369 74 ー
大正3 359 129 ー
大正7 1949 23 ー
大正11 792 193 37 1023
大正15 1027 ー 4

そうなんだな、大阪市は耐火煉瓦が中心なのだ。耐火煉瓦のことをすっかり忘れていた。小さな鉄工所とか硝子製造会社とかでは必須の構造材料だし、それほど大規模でもなかったから、市街地の近くで製造販売するのが都合が良かった。

製々舎ははじめ北安治川通3丁目で開業。 大阪鉄工所( イギリス人実業家ハンター氏)と関係があるらしく、 製々舎の刻印の入った耐火煉瓦がハンター家住宅に使われている。大正時代の「工場通覧」を見ると南区難波小田町に移っていて、しかも第2工場まであったらしい。難波小田町は今の芦原橋駅の東方で、鼬川の北岸に位置し難波駅にも近かった。貞徳舎は現業(!)で、京橋駅の南方、寝屋川に面した立地。広瀬・横山工場は「京阪神商工録」だったかにも名前があった。このへんは泉南市の紀要にも載っていない。そりゃそうか、赤煉瓦ではないものな。

大正14年に津守町が編入され津守煉瓦の生産額が計上されているはずなのに「ー」になっているのは意味深。津守煉瓦は 林尚次郎(だったっけ?)が経営、明治30年創業、同末頃には「津守村大字北島」にあった。大正7年頃には中之島6丁目に(本社が?)移っている。大正15年版では掲載されなくなるかわり、同じ林尚次郎の林商店が載るようになる。この頃煉瓦製造業を止めてしまったのかも知れない。


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