nagajisの日不定記。
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十五時より初めて剣術あり。三時間終業後野田閣下の話話あり(精神・身体・学術) 〔随〕意運動時に、三十分間運動をす。汗が多く出でたり。夕食の際も汗多く出でて困る。
午後は訓話・体操あり。運動班運動にては兜山登山競争をなすのみにて何となく物たりなく感じたり。補欠として二名入校を命ぜらる。丹宗の軍服姿に会う。
予未だ時間の利用不十分なり。特に、三度の食事後と夕食前なり。朝昼食後・夕食前等は自習を行いたきものなり。
朝の自習時に校長殿の巡視あり。然〔而〕して昼食後生徒舎西側にて校長殿話あり。曰く、新入生は三年の立派なる態度に感心しあり、故に嬉しく感じて皆に話すわけなり。今朝の巡視にて寝室の清潔整頓に驚く。着々三年としての本務に邁進中と認む。今後も未だ何もわからぬ一年に対してなぐることなく率先垂範、立派なる伝統を作らんことを望む。と。予此に一層覚悟を新にしたり。午後二時間自習。十五時半接種(赤痢予防)をなし以後就寝。予等は池田大尉殿に運動器具取扱委員生徒交代の申告に行く。所感としては未だ使用特に、一年生の活用不充分に感じたり。夕食前、夕食後に於て此の時とばかり雑談をなしたり。然し予は二十時頃眠りたる模様なりき。稍〃熱出たり。
一昨日、チャットにて「近世以前土木構造物調査」についての話をさせていただいた。4月2日に岡山大学の馬場研究室を訪ねて直に伺った話を伝え、また、たたき台となる資料(Google Docs&Spreadsheetsを使ってnagajisが作成中のもの)をup。
伺った話の概要は以下の通り。
これを報告し、チャットでのご意見を踏まえて、ORJとしての方針はこんな感じ。
という訳で今後、ORJ名義であちこちにメールをすることになると思う。その時はどうぞよろしく。そして一つでも多く、物件をお寄せください。
最後に、このプロジェクトに参加する意義。確かに道標なんかはそれこそ道の数もあって大変だろうし、個々の道標についての情報はリアルにもネットにも沢山あるけれども、どうしても「個々の情報」でしかない現状。それを集めて俯瞰して初めてわかること、そうしないと判らないことがある。近代土木遺産のリストのように。それを作るのに参加できる、という機会なんてそうそうないんじゃないかしらん。特に今は人海戦術的物量作戦が求められていて、自分達のようなミーハーな者でも充分に働ける余地がある。
さらにこんな話も。平成16年に始まった「景観法」によって、近代土木遺産リストが真価を発揮し始めたそうだ。景観法を採択した市町村では(景観法が古い建築物・土木構造物も範囲に含んでいるので)そうそう簡単に取り壊したり、意匠を台無しにするような悪改をすることができなくなった。改変にはNPOなど第三者の諮問?が必要(←ここは法庫をチラ見しただけの記憶で書いているのでちとあいまい)。なので、古くて貴重なものと「価値づけした」土木遺産リストに物件が載ることが、その物件を改変・破壊から守る抑止力になっているという。だから、自分達が「いいなあ」と思うものを積極的に上げることはそれを守る第一歩になるわけだ。但し景観法は自治体が採択不採択を選択するものなので、町がそれを採択しないと根本的には変わらないのだが。私個人は可能性のほうを信じたい。
脈絡などない。私の周囲のごくごく限られた仲間内で「奇妙なポテンシャル」という言葉が使われる。確かに面白そうな事象なりアイデアなりなのだが、それ以上どう発展させることもできず、かといって打ち棄ててしまうのもちょっと惜しい、そんなもどかしさを伴うような何かを指して「奇妙なポテンシャルを感じる」と表現する。以前書いたことのある「折り箸」などはその最たるものだし、年始の「蛸焼き新年会」をコードした畏怖〜善〜エロス畏怖構文も元はといえば奇妙なポテンシャルとして提示されたものから始まったものだ。
自分はなぜ、そこに「ポテンシャル」を感じたか。判るようで判らないことが多い。全く個人的な嗜好だろうと割り切ることも多いが、実は意外と人類普遍の共通感覚が潜んでいて、人文学的に価値ある秘密が隠されているやも知れぬ。そういう詰まらぬ詮索が大好きなので、今後この部録"でも定期的に考察を加えてみたいと思う。あくまでも賑やかしのつもりで。賑やかしだからな。
送信者 奇妙なポテンシャル |
先日見た踏み切りの表示。先に断っておくがレタッチだ。「くぐるな」と書いてあるのを見て瞬時に「ぐぐるな?」と読んでしまった、いわゆる空目。しかし実際にそれを作ってしまったところ、画像それ自体に奇妙なポテンシャルを感じてしまった。これはGoogle依存が進行しつつある現代人への警鐘ではないのか。あらゆるものを取り込んでインデクス化しようと企む巨大組織・Google。急いでいる踏切の前で、いつ電車がくるかを携帯でググってしまいそうなほど、我々はGoogle依存症なのではないか。わざわざGoogleを経由せずとも前を見、耳を澄ませば判ることだろうに。ネットを捨てよ、町へ出ようーーーそして遮断器はぐぐらないでねーーーという天啓。あり得るのではないか。
送信者 奇妙なポテンシャル |
同日、別の場所で見た看板。コンビニの駐車場に建てられた、よく見る類の看板である。奇妙なポテンシャルを感じたのはその内容ではなく右下の絵だ。
ぼんやり見ていると「ははあ車の騒音害のiconだな」と見過ごしかねないが、よくよく見ると決してそんな内容にはなっていない。重力を無視した有り得ないポーズで驚きを表現しようとする男性キャラの顔は笑っている。騒音に憤るというよりもむしろ車の恰好良さに驚喜する少年のようにさえ見える。背景のバクダンも実は意味を成さない。駐車した車が人にぶつかることなど有り得ないからだ。騒音害を撒き散らす車との遭遇を表現しただけとも取れるが、にしても喜ぶ男性キャラの顔が全てを無き物にしてしまう。元の黙阿弥である。
もちろん、作者の言いたいことは汲めるし、汲んだつもりだ。そうでなければただのVowでしかなく「奇妙なポテンシャル」を感じることもない。なのに感じるこのポテンシャルは何だ。書き連ねても尽くせぬ思い、表現し切れないもどかしさ。男性の服に貼り付けられたビニールテープが驚く程看板の色にそっくりな点も見過ごすことができない。そのそっくり具合いが奇跡的ですらある。
迅速図921枚がネットで見られるようになる。何というタイムリー。でもNN7.1じゃハネられるんだろうなあ;;) とにかく21日を待て!
思わずタレコんでみたが、採用されることはないだろうな。
第2版を作ったところで片づけを。psd貼りつけのイラレデータをai形式に戻したり、バックアップ版下を捨てたりしたら、1G減った。すごい圧縮率だ。
掲示板にコメントいただいてからずっと頭を冷やしつつ考えている。結局のところ、お知らせを目立つ所に目立つように書くのは、あとで突っ込まれないようにするためとか、「あそこに書いてあったでしょ?」と開き直るための方策だということもできる。もちろんそうするにはごく小さな字で目立たないように書いておくのが効果的なのであって、そうでないことを強調するためにトップにデカデカと置いてある。
そんな余計なことをするから、話が余計にややこしくなるのだ。
もっと気軽に、そして手軽に読んでほしい。そう思うのと同じくらいに、いやそれ以上に、誤解や損をさせたくないと思っている(などといいながら大きな間違いを「購読のてびき」でやってるんだが。これは近日中に修正する)。買わせるだけならAmazonの1クリックみたいなほうが効果があるし、毎回毎回手数料つきで購読料を送ってもらったほうが限りなくシンプルにできる。購読の仕組みも、てびきも。それはわかっている。けれども。
編集部の面々で相談した結果、サイトの方向性を変えていくことにした。ダウンロードページのお知らせは「いつものお知らせ」と「その号限りのお知らせ(イレギュラーなお知らせ)」に分け、イレギュラーなものだけ表示して、いつものお知らせは平時は折り畳んでおくことにする。トップページのHEADLINEと同じ。文言も説明的なものを減らしていくことにする。説明があることに気づかなかった人が迷うことになるかも知れないが、そこはサイトの構成だとか目線の流れとかでカバーできるだろう。
購入方法も、アカウントを作らず、ネットショップ形式で買えるような流れを作るかも知れない。支払いを済ませて戻ってきた時にダウンロードされてそれっきり。更新情報のお知らせも、更新号の再ダウンロードもない(かも知れない。検討中)。ともかく、購読の手引きを読まずとも買えるような「ただちに読む」ストリーム。更新を追っかけたり、カードが使えない/使いたくない方はアカウント方式を利用してもらうしかない。
4/24に研究発表しなきゃいけないことを忘れるところだったぜ。テーマは東熊野街道だから、トークイベントで使い回すわけにもいかないone off発表だ。
切り口をどうするかで既に迷いがある。東熊野街道を産業遺産と言い切ってしまうのには無理があるから、産業遺産調査的手法を応用しました的なものにするか、あるいは吉野林業発展の基礎とみなして産業遺産的なものと主張するか、前回みたく道=産業遺産!で押し通すかの3選択。現状は第一案で書きつつあるが、どう頑張っても定性的なところ(石垣が古く見える・切取工の規模が似てる)で白黒つけなければならないことになり、あまり科学的とはいえない。せめて石垣寸法とか石の大小を写真で比較とかすべきなのだけど、そんな都合のいい写真なんて撮ってない。文章にはなるが論考にはならぬ。
テーマを決める時にちょっと慌て過ぎたかなあ。摺子発電所一つで十分だったかも知れぬ。
個人的希望としては第3案にしたい。しかし産業遺産の何たるかを学び始めたばかりの若造があまり大きな口を叩くのもどうかと思う。究極的にはORJもKINIASも近代車道像解明/道路遺構の希少性=地域の資産としての廃道という主張に持っていきたく思っているわけだが、根拠なく「いいよ!」言うだけじゃ、目の前の人々を欺くことはできても後が続くまい。枠組みがあるからこそ枠を超える愉快さなり枠に収める楽しさが楽しめるわけで、その枠組みとしてガチなものが(マッチポンプであろうが)必要なんじゃないだろうかと思う。そーゆー意味でも試金石となるはずの発表であり、ひいては「廃道をゆく2」である。三度目の仏の顔となるか、それともこれで堰を切ることができるか。
逸れた。街道のあらましは文献から読み取れるが、それが実際を表しているわけではないこと。実踏調査の必要性。手法例とするなら「街道は一気呵成(覚えたて)に作られたため構造が似通う」辺りを柱にして論を進めるとか何とかしないといけない。逃げだが「定量的判断は後の研究に委ねる」か。改めて書くとひどい話だな。
第二の主張は「第一期・第二期街道の同定」。初めなのだから其の程度に留めておくべきかも試練。
路線等級でソートまで実装.ハッシュ作り過ぎでどれがどれかわからなくなった.こうなってくるとDB使ったほうが早いんじゃねと思ってしまう.それは余りにも牛刀なので自重する.
仕組みはこのくらいにして記述を始めなければならない.ずいぶん把握したと思っていたのにもう忘れていること多数.鉾流橋(市道控訴院筋線)の出自がどういうイレギュラーだったかとか,辰巳橋筋線なのか九条市岡線なのか,とか.
繁栄という名の幻ばかり追いかけている世の中には用がない.過去を知りたいと思うのは,それが紛う事無き事実であり,決して裏切ることがないからだ.
と誰かが言って板,と書いておいたら誰も信じないだろう.
「日本連歌師の研究」もとい「日本煉瓦史の研究」を読んだ。大阪のみならず日本近代の煉瓦製造業の成り立ちがわかって面白い。「工場通覧」で見かけたあの会社この会社も出てくる。しかし完全に解明されているというわけでもないようだ(特に大阪エリアは)。一度原典にあたって勉強してみたくなった。
(イ)煉瓦 和泉国には良質の粘土を豊富に産出し、古来瓦製造業が盛んであったが、明治初年造幣局及砲兵工廠の建築起工に際し之に充用する煉瓦製造の目的を以て三・四の煉瓦製造業者が現れた。大阪市に於ける煉瓦製造業はかかる状態に刺激せられて起りしものであって、明治九年田中盛秀が福島に工場を設け、之を盛秀館と称して耐火煉瓦の製造を開始せしをその嚆矢とする。其後造幣局・砲兵工廠を始め、各硝子製造所に耐火煉瓦の需要盛んとなるに及び、十五年に創業せる硫酸瓶製造会社も煉瓦の製造を兼営し、十六年には耐火煉瓦の製造を専門とする五成舎が起り、其他津枝三雄の製々舎・貞徳舎・広瀬倉平工場・横山耐火煉瓦製造所等多数の同業者が輩出した。此間焼成工程も機械化したのであって、例えば前記硫酸瓶製造会社は二十年に大阪窯業株式会社と改称し、ホフマン式輪窯一基を築造して煉瓦製造事業を拡張し、二十六年よりは煉瓦専門工場となった。
日清戦争前後には建築用煉瓦の需要増加せるため斯業は益々盛んとなり、三十年には 津守煉瓦株式会社・住吉煉瓦株式会社・天王寺煉瓦株式会社の如き新設会社も現れたが、他方には斯業の雄、大阪窯業株式会社が三十一年堺の分工場へ本社を移転せし為め、大阪の赤煉瓦製造業は衰えた。併し三十七年東京の品川煉瓦株式会社が大阪に支店を設くるに及び、大阪は関西に於ける耐火煉瓦の主要なる産地となった。爾来大阪は耐火煉瓦の生産地として発展し、大正九年に大阪硬化煉瓦株式会社が起って硬化煉瓦の製造を開始せし以外、多くの煉瓦製造業者は殆ど耐火煉瓦の製造に従事している。(「明治大正大阪市史」第2巻)
同書には生産額の推移も載っている(単位:千円)。明治末〜大正にかけて耐火煉瓦が主だったことがわかる。
耐火煉瓦 普通煉瓦 その他 計
明治41年 369 74 ー
大正3 359 129 ー
大正7 1949 23 ー
大正11 792 193 37 1023
大正15 1027 ー 4
そうなんだな、大阪市は耐火煉瓦が中心なのだ。耐火煉瓦のことをすっかり忘れていた。小さな鉄工所とか硝子製造会社とかでは必須の構造材料だし、それほど大規模でもなかったから、市街地の近くで製造販売するのが都合が良かった。
製々舎ははじめ北安治川通3丁目で開業。 大阪鉄工所( イギリス人実業家ハンター氏)と関係があるらしく、 製々舎の刻印の入った耐火煉瓦がハンター家住宅に使われている。大正時代の「工場通覧」を見ると南区難波小田町に移っていて、しかも第2工場まであったらしい。難波小田町は今の芦原橋駅の東方で、鼬川の北岸に位置し難波駅にも近かった。貞徳舎は現業(!)で、京橋駅の南方、寝屋川に面した立地。広瀬・横山工場は「京阪神商工録」だったかにも名前があった。このへんは泉南市の紀要にも載っていない。そりゃそうか、赤煉瓦ではないものな。
大正14年に津守町が編入され津守煉瓦の生産額が計上されているはずなのに「ー」になっているのは意味深。津守煉瓦は 林尚次郎(だったっけ?)が経営、明治30年創業、同末頃には「津守村大字北島」にあった。大正7年頃には中之島6丁目に(本社が?)移っている。大正15年版では掲載されなくなるかわり、同じ林尚次郎の林商店が載るようになる。この頃煉瓦製造業を止めてしまったのかも知れない。
ようするにだ、
【マッチングが進めば…】
煉瓦刻印から会社がわかる
↓
会社の存続年から煉瓦の製造時期が推定できる
↓
建造物の建造年が推定できる
ということなのだが、それを端的にいう言葉が見つからない。nagajisが能なしと思われる所以である。
マッチングという言葉もできれば変えたい。「この刻印、○×工場のだ」と言えるようにしたいということなのだが、
刻印と会社の対応をとること
刻印から会社を割り出すこと
刻印と会社を突き合わせること
会社が用いていた刻印を特定すること
を端的に言いたい。比定とか擬定とかいう言葉はなんか嫌らしいので×。もうちっとすんなりな言葉、短文、できれば日本語で。
英語は便利なんだけどなあ。a pair suitably associated とか、まさにそういうやつなんだけど。
いまさら気づいたが宝殿のB.C.△H.J.は陰刻なのだな。凹みの底に陰刻で文字が刻まれている。吹田で見た平面に陰刻のとも違う。少なくとも3種類の型があったことになる。
これも中津高架橋のそばで。砂場に設置された看板。これを見て「当たり前だろう」とツッコむか、そうでないか、で人間性が問われるようである。そんな初歩的なことを指摘しなければならないほど人は退化してしまったのか、とか、指摘をしなければ市民に突き上げられる公務員の悲哀がにじみ出ている、あるいは指摘されることを見越して先手を打った過敏性反応、そういったものを連想するのも既に「ありがちな反応」かも知れない。とかくこの世は生きにくくなった。
乳幼児にはちみつを与えて死なせるとか(緻密を与えるのではない)ニラとスイセンを間違えて食中毒を起こすとか、いくら注意したって無くならないことは山ほどある。そういう世の中にあってこの手の注意喚起看板は無力だ。閉め忘れをするような注意力散漫さんがそもそもこの注意書きを読むとは思えない。
そもそもなんで砂場の扉を閉めなきゃいけないのかと思ったら野良犬野良猫が糞をするからなのだった。そんなのまで気にしなければならない世の中もまた生きづらい。綺麗なのに越したことはないだろうが別に砂遊び中に糞を掴んだところで人生終了したりトラウマになったりすることもないだろうに。2、3日はウンコマン呼ばわりされ続ける悲劇はあるにしても、それを乗り越え砂場に潜む危険性を学んできた我々ではないか。
いっそのこと自動ドアにしてみるというのも手かも知れない。西部劇に出てくる飲み屋だとかマクドの厨房とホールの間に設えられているようなスイングドアタイプの扉にすればいい。あれなら余計な費用や維持費をかけずにあとぜきされるし砂場の入り口程度の用途なら必要十分であるだろう。ただし指詰めしないような工夫をしないとまたもや余計な問題が生じ砂場が撤去され公園はただの空隙地と化す未来に繋がってしまう。今ですら遊び道具が少ないのに。
そんな砂場の隣では子供たちがブランコ遊びを楽しんでいた。ブランコからジャンプして最長不倒を競ったり一人が乗ったブランコをもう一人が押して引いて勢いをつけたり(前から押して勢いをつけ最後はそのブランコの下を抜けて脱出する)。砂場の糞を嫌う大人が見たら発狂して叫びだすだろうという至極子供らしい遊び方であり微笑ましく思えたことだった。次に消えるのはたぶんブランコだろう。
9日晩から12日晩迄外出していたせいでその後を突っ走らなければならなかった。しかも8日は福知山線へ行ってまる一日。その前の日曜日も福知山線。ついでに雨中捜索もしたはず。頑張ったほうだと思うのだ。うん。
今回の旅行後は珍しく[きたく]を書かなかった。余りに充実した旅だったものだからその必要を感じなかったのだ。撮ってきた写真を見直すこともほとんどしていない。書いたり写真を見返したりすることが却って旅の思い出を薄めてしまうような気がしてならなかったのだ。見返すものがなかったんじゃない。見返す必要を感じないほど濃密な時間を過ごし充実の経験をしたと感じている。珍しいことだと思う。
一連のシーケンスから数枚を取り出して掲げることは可能だろうが状況説明が追いつかないようにも思った。無理に掲げれば廃道ポルノにしかならぬ。なので止めておく。そうして忘れて後で困るのは自分なのである。
片付けなければならないことがいっぱいだ。言いたいこともいっぱいだ。しかし書く時間がない。まとめ方もむずかしい。いやそんなこともないか、すべての行動のままに起承転結と成果があっただろ。書く手間惜しむな。流れを忘れるな。だからずっと反芻し続けている。
とか何とかいいながら今日はOさんに頂いたレール断面図を使ってゲージを作成してみたりなどした。福知山線で使うことになるのはおそらく半分もないと思われるのだけれども&同じポンド数の番号違いがドウ違うのかよくわからないまま作ってみたのだけれども、自らの手で型抜きしてゲージを作って実際にフィットさせてみていくうちにわかってくるだろうとも思う。そういや銘を調べるばかりでレールの規格については一切考えてなかったな。断面番号が書いてあればいいのだけれどない場合はどうすんのっちゅう話。だから断面ゲージが必要なのだな。きっと。まあ最初っから完全は望まないほうが身のためだ。こんなんありました、で掲げてツッコミ待ちでいいのではないか。
煉瓦刻印もレールのブランディングも同じ刻印なんだなあと今更のように気づいてみたり、同じ刻印でも厳格性?重み?刻印の一意性?にずいぶんな違いがあるなあと思ってみたりしている。煉瓦刻印を探して歩き回り、珍しいのに遭遇すると妙に嬉しくなってしまったり来歴に思いを馳せたくなったりする。モノから何かを読み取ること、が共根的に好きなのだろう。そしてちゃらんぽらんな私はやはり煉瓦のほうが性に合っている。
8日に福知山線へ行った時、倒れていた電信柱の足掛け出っ張りに太腿をしたたか打ち付けて悶絶した。
電信柱が倒れてそこに在ることは意識のうちにあったのだけれども、それと垂直に突起が伸びていることには露も思い至らず、その倒れた電信柱に沿って歩けば楽だろうという認識の元で全体重をかけて移動した刹那に太腿を強打したのだった。激痛を覚えた瞬間は何が起こったのかさっぱりわからなかったが、臓腑が底から迫り上がってくるような嘔吐感と「血の気の引いた顔」と云うレトリックを当事者視点で確認るよの顔面のさむさ、続いて流れる脂汗。右足をダメにしたあの瞬間の状況とそっくりで、それで「まずいことをした」と気づき、しかしそうやって気づいた時には既に時お寿司、しかも翌日の晩には夜行バスに乗って安芸へ行かねばならないと云う現状把握がさらに血潮を引かせるのであった。
現場から歩いて道場駅へ向かう分には全く差し支えなかったのだが、膝を180度曲げで座るとか、なるほど合点と膝を打ったりしようものなら悶絶してひっくり返ってしまうような状況。裸になって見てみればそこだけうっすら青くなっていたりもした(思っていたほど酷くはなかったが)。なるほど内出血して血液流通量が減少下から血の気が引いたのだな脂汗も出たのだなと納得してみたりもした。
偶々持ち合わせていた強力湿布薬を貼り続け、翌日昼間も何度か張替え、さらに塗り薬タイプのものを塗りたくったりもして無理やり収めて出発した。ザックにも湿布薬を入れていった。そんな準備が功を奏したのか現地に着いて安芸市街を散策している頃には立ったり座ったりに違和を感じることもなくなり、剰え旧県道の金網潜りデスマッチまでこなしたのだ。翌日本丸に行った時には打撲したことさえ忘れていた始末。
あれから一週間が経過したが打撲個所は今でも触れれば少し疼く。内出血部は直後よりも更に黒くなって、そのかわり表皮は何故か黄んなくなっている。右足の時も確かこんなだったような気がする。それにしても打撲が左太腿で良かった。もし右太腿だったらおればかり不公平だといってストライキを起こされていたかも知れぬ。そも右足は足首の打撲をかばって歩いたせいで膝も痛めやすくなっておるのだ(昨年冬のジョギングの時みたいに)。これ以上右ばっかり苦労させたら右足に謀反を起こされ夜中に後ろから刺されるかも知れずおちおち夜道も歩けない。しかもその刺客は四六の24時間ずっと我が身のそばにいて行く先々までついて回るのだ。恐ろしいことである。
なんやかんやしていたらずいぶん昔に仮定していたことどもを自ら否定するような結果を発見して大修正を加えなければならなくなった。NDL様々である。★刻印を踞尾の泉州煉瓦製造所とすればいろいろとすっきする。10数年前にそれができなかったのは操業期間の短さと規模の不明さに全面的に依る。当時は仕方なかったのだと思いたい。〓丹治と丸丹を入れ替えなければならなくなったのは不徳の致すところに過ぎない。訂正しようと思えば但馬の明治県道の時に出来ていたはずなのだ。
_ たかたか [採用されてますね > すらど 個人的には柏書房等で復刻されているドイツ式の迅速測図ではなく 彩色のフランス式の方であるというのが大きいです。 枠外イラストもちゃんと見られるのかな? サンプル1枚..]
_ nagajis [ギャッ]