nagajisの日不定記。
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幹事会のついでに図書館に寄って、念のためにと思って近デジに収録されていない統計書を読んだら、そこに重要な情報が3件くらい書かれてた。まさかB.C.H.J.の起源が豊中市にあったとは思わず、成金商社=若井工場だったとも思わず、宮崎商会の出自がわかるとも思わず。ギリギリ入れ込んだせいで発行が遅れること確実になった。あと、和泉煉瓦株式会社・社長田端治平だと勘違いしていた。和泉瓦株式会社なのだ。貝塚煉瓦が大阪窯業に買収されたあと、その社長・田端治平は瓦製造会社を興し直したということ。それはそれで面白い歴史。
大阪府統計書は府立図書館になく市立図書館に揃っているという不思議。市立は古い図書のコピーの制限がないのが有り難い。あ、機械の写真さしかえなきゃ。
大正〜昭和期に煉瓦製造業がぽこぽこぽこぽこ勃興した印南郡。すでに調べられているかと思い、図書館に尋ねてみたが、高砂市史近現代編は現在絶賛編集中なのだそうだ。工場の正確な位置も不明。一部の煉瓦工場は戦後も操業していたらしく、そういうところは現地で聞けばわかるかも、という話だった。しかしなあ・・・中筋村とか伊保村とか阿弥陀村とか言っても結構範囲広いのだよね。位置特定まで到れるかしらん。
とかいいながら、一部工場については地番まで書かれているのがあったことを思い出した。大正煉瓦、関野煉瓦、中播合同煉瓦、あともう一つ。それが現在の地番と一致する保証はないけれどもアテにはなるだろう。この地域は中世には瓦製造・土器製造が盛んだったそうだ。それが明治時代をスルーして大正期に煉瓦生産が興るのは不思議かも知れない。
大正6年頃に作っていた煉瓦(機械整形)は、抜きの潤滑に油を使っていて、 それによって表面が緻密に仕上がり水を吸わないとされていたらしい。同社パンフでは「油抜煉瓦」とかなんとか表現されていた。手元にあるのはかなりよく焼けた色をしているがえらく水を吸う。製造時期が違うのかな?
そんな岸和田煉瓦のあった街。確かに立派な煉瓦壁があったり煉瓦製の「うだつ」があったりしたのだけれども、 貝塚に比べると少ない印象がした。結構細かく裏道を歩いたつもりなのだが「おお!」という発見には至らず。工場跡がすっかり改変され(跡地に建てられていた温泉リゾート施設は現在絶賛解体中。大阪窯業敷地もその駐車場となってアスファルトの下だ)ているうえ、街全体がずいぶん改まっている感じだ。
見つかった刻印は岸和田煉瓦のペケ印一色。びっくりするほどキシレンしかない。見る煉瓦見る煉瓦すべてペケ印、刻印がないのは機械整形。あ、ペケ印云うたら怒られるんかな。初代社長の山岡尹方は敬虔なクリスチャンで (以前TUKAさんが探していた岡部長職が洗礼のきっかけになった。新島襄を紹介されたのだ) 、社章もキリスト教のセントアンドリュースクロスから取ったそうだ。だから同志社大学に岸和田煉瓦が使われているわけなのだな。このへんは以前こけさんが指摘してくれたことが全面的に正しい。以上入れ込む暇がなかった情報。
書き直す時は工場の系譜を軸に書くとよさげだ。全面的に推測と断って。研究ノートとして。ノートは確か枚数制限が厳しい筈だがうまくやろう。
廃れてしまった産業のことをいまさら掘り下げても、世の中の99.9%の人には役に立たないが、自分には面白い。自分が面白いと思うことをやらないでこのクソッタレな世界を生きる価値があるもんかってんだ。その認識は今に始まったことじゃないが。
暑い暑いと思っていたがそこまで上がっていたとは思わなかった@豊中市。ここの気温測定装置は伊丹空港の辺りにあるからなおさら高く出るのかも知れない。滑走路のアスファルトの照り返しがあるうえに内陸部。。。猪名川のそばとは言え風がそこまで上がってくるようには思えぬ。
ハッ、うちが暑いのは伊丹空港のせいかッ!
最近焼きうどんばかり食べている。4玉98円と安い上に簡単に作れてお腹いっぱいになれるから。焼きうどんの味付けはずっと醤油味だとばかり思っていたが、ある時焼きそばソースを使ってみていたく瞠目して以来ソース味派になっている。テフロンの禿げたフライパンで作っても焦げ付かないのがまずいい。焼きそばほどしつこくもならない。野菜だけ先に炒めて皿にあけ同じフライパンでうどんを茹でて水洗いして一緒に炒めてというスキームも確立できた。てなわけでソース味の焼きうどんおすすめ!と誇らしげに語ったら、それが世の中のアタリマエであったことを聞かされて若干悄気た。しかしソース味の焼きうどんはうまい。これに野菜を入れて溶き卵を落としてもいい。すき焼き風味のような、そうでないような未知の味わいになる。野菜はなんでもいい。いまの時期はゴーヤがうまい。しかしマヨネーズは入れないほうがいい。
手整形のは特にだが、煉瓦を見ていると「どうやって作ったんだろう」と思って止まなくなる。何だって感情移入はできるだろうけれども手整形の煉瓦ほど人間味のある工業品はない。壁に塗り込められて見えなくなってしまうものだから適度に手抜きがある。刻印も「とりあえず押せばいいんだろ」的な適当なものが多い。ピシッと正しく押されたものに出会うとうれしくなる。
右か左かに偏った(深さが均等でない)刻印から、作業者の利き腕や作業時の位置がわかるんじゃないかと思っている。右利きであったら右斜め上から左斜め下に向かって振り下ろされることになるので右側が深くならないような向きに煉瓦と正対すると、それが作業時の煉瓦の配置になる。
大阪窯業や★刻印など天地がはっきり区別できる刻印なら、その刻印の方向と刻印の偏りとで作業の流れが読めるんじゃないか。刻印を天地逆に押すことはないだろうから、刻印が正しく見える向きが即ち作業時の配置。★刻印煉瓦の溝は★の下側についていたから、やはり先に裏面に刻印を打ってひっくり返したということになる。
刻印が長手と直角に押されていることは意外と少ない。どちらかに傾いていることが多い。これも、目の前にある煉瓦に無意識的に刻印を打ったためだろう。人間の腕は体の左右についているから、体の正面にあるものに手を伸ばすとまっすぐにはならない。
焼く前の煉瓦は柔らかい。その柔らかい煉瓦を移動させるのはちょいとばかし工夫が要る。特に長手や小口を触らずに動かすにはどうしたらいいか(煉瓦は小口や長手を見せるように積むのが基本なので、そこに手形がついたりしたら商品にならない)。煉瓦の重さは一個2kgくらい。焼く前の水分を含んだ状態ならなおさら重い。別の板の上に抜いて、板ごと運べばいいわけだが、最後までその状態ではなかった。どこかで積み上げておかないと乾燥場が足りなくなる。
煉瓦は焼くと収縮する。その収縮したサイズが東京型や並型の規格に合わなければならないわけで、それを見越して型枠を(素地を)大きく作っておく必要があった。そのアワイはどうやって決められていたのだろう。どれぐらい収縮するかとか、土の配合でどれくらい変わるかとか、わかってたんだろうか。 何か経験則があったのだろうか。
手整形の煉瓦は全体的に下向きに反っていることが多い。裏面と表面とで収縮の差があったらしい(表面のほうが収縮しやすい)。やはり詰める粘土の密さが違うからだろうか。下にある粘土ほどよく押し付けられて密になる。上の方の粘土はそこまで押さえられない。上から押し込む行為がある種のラミネーション現象を起こす可能性も考えられる。二度三度と粘土を足すとその足し目で若干の違いが出てきそうな気がする。
煉瓦は必ずしも全てに刻印が押されたわけではないらしい。樽井煉瓦跡に残されていたへっつい用煉瓦は刻印ありと刻印なしとが半々くらいの割合だった。平を見せて積むこともあるのだから、その時のためにわざと無刻印のを用意したのかも知れない。作業者全員に同じ刻印を用意するのはそれなりに手間だし、何万個も打っていたら摩耗もしただろうから、時には打てない煉瓦もあったんじゃなかろうか。結局のところ刻印はその会社の宣伝目的という側面もあったのだから、例えばまとまった数を受注し納品するような場合には押さなくても困りはしなかったはず。なんなら他社から買い漁って数合わせてもいい。購入する側にとってみれば必要なサイズの煉瓦が必要な数あればいいわけだからな。
明治30年代、大阪窯業は小売をしなかった。堺煉瓦や貝塚煉瓦は小売もした(卸売業者に販売?)。建物の基礎や屋敷境界の煉瓦壁だと複数社の刻印が混じっているのが普通で、卸売業者を介した購入だったからではないか(業者の倉庫で混じってしまうというパターン)。少なくともその都度工場から買ったようには思えぬ。そんな小さな工事で。
明治30年代の後半にはすでに煉瓦の小売業者が存在した。土木請負会社もあちこちから買ったのかも知れぬ。一社だけだとリスキーだから。あるいは仕上げ用と根敷のような3級品4級品とで会社を使い分けたか。薬水橋梁も見えにくいところには雑な作りの堺煉瓦が使われている。表はよく焼けた色の揃った赤煉瓦が使われている。
あと、機械式の煉瓦製造機も明治の終わり頃には国産化されていたらしい。正確な名前と年度を忘れてしまったがそんな機械製造会社の名前を見た覚えがある。普及したかどうかはさておき。
機械整形は「練り」に機械力を使ったところに注意しなければならない。切断はあくまで手作業。本質は「練り」の機械化。割れた手整形煉瓦の断面を見ると、赤っぽい土と白っぽい土とが明確な層状を呈した状態で焼かれていることが多い。よく混じっていない証拠。機械式だとより均等に混ざり強度も高くなる。はず。
機械整形のちりめんじわがモルタルの付着力を高めるという話があったが、実際にそれを剥がしてみた経験から言うと、それほど大差ない感じがする。むしろモルタルの質に大きく左右される。滅法固くてうまくはつれないこともあればサクサク削れてしまうこともあり、モルタルの一部だけしつこく残ることもある。硬化の進み具合だとか養生の仕方とか砂砂利セメントの比とかでも変わってくるものと思う。
昭和初期(大阪窯業五十年史編纂の頃)に敷設された舗装煉瓦にはディンプルがない。かわりに横一文字に溝のついたものが坂道用として作られていた。これは京都の四条大橋(だったっけ)の橋詰めなどに使われている。ノーマルのは大阪の卸売市場の構内に大量に使われた。またこの頃の舗装煉瓦には側面に刻印があった模様。貝塚工場の煉瓦壁のには見られなかったな。
先日見かけた穴の空いた煉瓦は「ホロータイル」が正式名称。漢字では空洞煉瓦。軽量煉瓦、空洞煉瓦はいまもJIS規格にある。軽量煉瓦は小さな孔をたくさん開けたもの。空洞煉瓦は2〜3個の大型の孔。貝塚工場近くの民家の軒下に3個穴の空洞煉瓦があったな。あれも大阪窯業製かも知れぬ。刻印はなかったはず。ホロータイルは耐震性を持たせるために考案されたが煉瓦そのものへの忌避感からあまり売れなかったらしい。実際の効果もあんまりだったかも(だって貝塚工場のは横目地で割れて倒れてるんだもの。縦の接着力は普通の煉瓦と同じで、其の点では金森の鉄筋煉瓦のほうが効果的だった)。むしろ化粧タイルとかスクラッチタイルだとかのほうが売れた。綿業会館のも大阪窯業製。化粧タイルはおもに向日町工場にて作成。
金森の鉄筋煉瓦も大阪窯業が製品化。実際に使われた構造物がいくつかある。関東のほうばかりだった気がする。辰野金吾?妻木頼黄?の耐震工法はホロータイルのに似ていて、煉瓦積み何段かに一段鉄板を挟んで、それを鉄筋と固定するというやり方だった。横浜開港記念館の冊子に写真がある。
煉瓦に温かみが感じられるというが、その感覚は正直よくわからない。ノスタルジアがそう思わせるだけなんじゃないか。当時は文明開化の象徴であり権威の象徴だったのだから温かみも何もない。人を威圧するため誇るために煉瓦を使ったのだ。作っているほうだって過酷な重労働だった。「いいものだ」と思って作っていた人なんていないんじゃないか。汚れてしまうと急におどろおどろしさが出るしな。それはコンクリートでも一緒か。
古い市街地では石梁を道路側溝の縁石に使っているところが多い。十三の駅周辺とか貝塚とか。規格がほぼ一緒なのが興味深い。それが最初の排水溝の企画で、阪急岡町のようなのはコンクリートになるまでの過渡期のものだったかも知れない。石梁溝は深さが煉瓦一個or二個分ほど。その下に煉瓦を埋めているところもあった(表面はコンクリで覆われているが枡のところで断面が見えている)。そういえば出入橋の下手の阪神高速下道路でも排水渠の主構造に煉瓦が使われていたな。下水周りはとかく煉瓦が多用されている印象。