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旧道倶樂部録"

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2013-07-18 [長年日記]

[煉瓦工場][煉瓦刻印] 大阪煉瓦、狭山煉瓦@大阪狭山市

行基さんが作ったという巨大な溜池・狭山池のほとりに大阪狭山市がある。良質の粘土が採れ、盛んに焼き物作りが行なわれていたところで、よくありがちな延長線上として煉瓦製造業も勃興した。ただし泉南地域の他の市町村に比べれば遅く、大正初年頃の話である。

大きな工場として次の2つがあった。

堺煉瓦株式会社分工場 狭山村半田 大正2年~大正7年
大阪煉瓦株式会社 狭山村池尻 大正6年~昭和8年 (以上『泉南市年報』データ)

堺煉瓦の分工場には京都陶磁器試験場長が設計したという最新式の輪窯があった。大阪窯業との合併話を寸前のところで蹴って投げた賽である。しかしその賽、あまりいい目が出なかったらしく、わずか5年で姿を消してしまう。堺煉瓦じたいも大正8年に解散した(『諸会社役員録』)。跡地は南海紡績煉瓦部が引き継いだようだがこれも長続きしなかった(『泉南市年報』)。

もう一つの大阪煉瓦はそれなりに繁盛した。一時は狭山村で最も大きな工場だったそうだ。そうして昭和8年頃、大阪煉瓦が姿を消すのと前後して狭山煉瓦製造所が成立している。『泉南市年報』では昭和5~昭和16となっている。
(めんどくさい注記。『泉南市年報』は起業年を資料のデータで、終業年は資料の発行年で見ている節があり、起業年は正しく終業年が1、2年遅くなっている可能性がある。かく云う自分もこのへん徹底できてないが……)。


狭山煉瓦製造所は『工場通覧』昭和10年代版に番地が載っている。狭山村池尻416番地という。いまこの付近で「池尻」を検索すると、狭山池の南方のほんのわずかな一区画が示されるだけだ。ほかは池尻自由が丘、池尻中、池尻東、などの字に変わっているらしい。

『諸会社役員録』を見ていて(大正期・狭山村の)大阪煉瓦が結構大きな会社であることを知った。津守煉瓦との脈絡も見えてきた。いつも口にする六大煉瓦会社―大阪窯業岸和田煉瓦日本煉瓦堺煉瓦丹治煉瓦津守煉瓦ーは大正初期の生産額で見た六大会社であって、それ以降のことというのは、実はよくわかっていない。津守や丹治、堺亡き後の大型煉瓦工場として、大阪煉瓦が大阪煉瓦界の一角を占めていたはずなのだが……。廃毒では見逃していたこの会社が、実は重要なキーカンパニーだったんぢゃないか。そんなことを考えるようになり、俄然興味が湧いてきた。行ってみた。


大阪狭山市の教育委員会さんに煉瓦工場のことをお尋ねすると、市史編纂所のIさんを紹介してくれた(大阪狭山市もいま通史近代編を絶賛編集中という)。Iさん曰く、

・堺煉瓦はいまのSAYAKAホールがある辺りと推定されている(終戦直前、ここに蹄鉄工場があり、それが堺煉瓦跡地を流用してたんじゃないかと推定されているとのこと)
・大阪煉瓦はいまの狭山駅の西方。直近には軍需車両を製造する工場・富士車両があり、狭山駅にはその頃の名残である貨物引き込み線が残っている。現地はいま「さやまハーモニータウン」なる名前の住宅街

とのことだった。跡が残ってないことは承知之助だったけれども、工場所在地が絞りこ込れているとは思っていなかったので、とても有り難かった。そこを集中的に探せばいいわけだからな。しかしそれだけだと情報忠則(37)になってしまうから、番地のわかっている狭山煉瓦を自力で探してみることにした。


まずは役場へ行き、80年前の「池尻416番地」を探した。勝手がわからないので受付の方に尋ねてみたのだが、その結果紹介されたのは財務課だった。確かに地番=土地=税金と関係があるからなあ、役所によって違うんだなあと感心しつつ、これこれこういう訳で、を説明したのだが、しかしここには古い地番と現在の地番の対応表のようなものはなかった。そりゃそうだ。過去に課税するわけじゃないもんな。


とはいえ、自分の望みはここで十二分に達成された。もと池尻だった地域では地番がそのまま残されている(字をまたいで連番の地番が振られている)ので、416番地というと一箇所しか該当する場所がないという。それは狭山駅の西側、いま「ふくなが歯科クリニック」があるブロックの一角だった。例のハーモニータウンの端っこだ。ということは! 大阪煉瓦の工場=狭山煉瓦の工場ということになる!!

(と思ったのだが『泉南市年報』では併存していた時期があることになってるのよね……。それでさっきのめんどくさい注記の続き。『泉南市年報』が大阪煉瓦の尻を昭和8年としているということは、実際には昭和7年まで操業だと思われ、なおかつ『工場通覧』昭和15、6年版では狭山煉瓦の操業年が昭和7年になっていたりする。自分は昭和元年〜8年頃のデータを『泉南市年報』に頼ったのでこの年代が厳密に追えていない)


市役所を辞し、狭山駅まで歩くついでに煉瓦探し。大阪狭山駅の周辺はつい最近建ちましたどうです綺麗でしょえっへんというような建売住宅が99%を占めていた。空振りに終わるかと思われたがしかし、残り1%の古区画で手成形煉瓦を発見。画像の説明六稜星だった。狭山池の東畔の奥まったところにある民家でも、花壇に使われている古煉瓦がほぼ全部六稜星(一部無刻印)だった。あとで歩いた駅東にも六稜星を発見した。どうやら大阪狭山駅周辺では六稜星が優勢らしい。考えてみれば津守と狭山は南海鉄道でつがってたわけだから、例えば堺や岸和田のを運んでくるより早かったのだろうなあ。(とこの時は考えたのだった)

画像の説明府道198号が南海線を潜るところでは、南海の変電所の敷地?道路の法面?に屑煉瓦が散乱していた。自由に触れる煉瓦をようやく見つけた嬉しさのあまり、2、30分ほどかけて徹底的にひっくり返した。結果、堺煉瓦が2つ(1つは太い五本線、1つは廃毒でクリーニングしたやつとそっくりの細五本線)、そして六稜星が1つ。これはモルタルを割ったら綺麗に出てきた。さらには太短線2本による「ハ」の字の刻印もあり、これは初見だったのだが、たった1つだけなので新種認定に至らずじまい。堺煉瓦の押し損ねかも知れぬ。

画像の説明堺煉瓦は件の分工場由来! と考えたいところなのだが、目の前の南海線から来たものである可能性も捨て切れない。すぐそばにある高架はコンクリート橋台になっているが、路線の開通は明治31年で、狭山駅~大阪狭山駅間には開業当時の煉瓦アーチが残っていたりする。もとは煉瓦橋台か煉瓦アーチだったのを取り壊した結果の屑煉瓦であるかも知れない。六稜星=津守煉瓦なら明治30年創業のこの会社が煉瓦を供給してたとしても矛盾しないし。太「ハ」はとりあえず置いておく。

画像の説明その煉瓦アーチを観察したりしつつ北上すること10数分(この間手成形煉瓦に遭遇せず)。狭山駅に到着した。写真はその西側にある貨物引き込み線を北方から撮影したもの。クロスレールの一本に1958と刻印されてたから、その頃まではちゃんと役を果たしていたのだろう。今は住宅街の最寄り駅でしかなく、載せる貨物もないのはもちろん、引込線のホームすらなくなっていた。完全なる盲腸だ。

画像の説明もう少し引いて、416番地の北方から撮影。これだけだと鉄道写真ですらない意味不明な写真である。


画像の説明

んで、目当ての工場跡についたわけだが……。真新しい住宅が立ち並んでいるばかりで、昔日の面影は微塵も残っていない。煉瓦のかけらすら落ちていない。あるのはいかにも平和な日常が繰り広げられていそうな建売住宅と、その軒先を飾る機械成形のオシャレ煉瓦だけだ。煉瓦工場時代と現代との間に富士車輌が挟まっているのだからなおさらモノが残っていないだろう。それは覚悟していたことだった。


自分の狙いはそこじゃない。住宅街の西側に西除川という川が流れている。その川のほとりに何かがあるんじゃないかと踏んでいた。工場敷地を更地にし、住宅街にした時の残土が捨てられているんじゃないかと。日本煉瓦製造だって、そばを流れる川にたくさん煉瓦を捨てていたというじゃないか。


だんだん面倒くさくなってきた。結果をいうとJust the God hand、あるはずと思って探した場所に望み通りものが落ちていた。煉瓦工場跡にありがちな焼損煉瓦だ。しかも。

六稜星煉瓦刻印

六稜星の焼損煉瓦だった。

焼け過ぎて紫変した肌に六つの角をもつ星の刻印。煉瓦が歪み、潰れてしまったため刻印までひしゃげている。どう見ても焼損煉瓦です本(略)。これが意味するところは甚だ大だ。六稜星の煉瓦がここで焼かれていたということだから。ネットには六稜星=津守煉瓦という説があり(勝手に)その説を支持していたのだが、その反証が出てきたということだ。

しかも発見はこれだけじゃない。六稜星の焼損煉瓦は都合4個発見したが、それを上回る数の、別の刻印煉瓦が見つかったのだった。

大阪煉瓦刻印

自分以外で実物を見た人はおそらくいないんじゃないだろうか。南海汐見橋線木津川駅の駅舎の脇に数個落ちているのを見たきり、他所では一切見たことがなかった、会社不明の煉瓦刻印だ。「∀」の記号に似ているが下三角に小さな切れ込みが入っている(ことは採取煉瓦の拓本を取っていて気づいた)。この煉瓦の刻印にも同じ切れ込みがあったのでそういう刻印だというのは間違いない。あの木津川駅転石の生まれ出づったところがここだったとは。

画像の説明焼損煉瓦だということはこっちの写真のほうがわかりやすいかも。2つの煉瓦が長手で固着し、割れたものだ。


結果は驚くべきものだったが(驚いているのはお前だけだろ、というツッコミは謝絶する)、解釈が難しい。整理すると

・池尻には大阪煉瓦と狭山煉瓦があった(『泉南市年報』では併存した別会社とされているが、所在地はおそらく同一で、大阪煉瓦→狭山煉瓦と変遷した筈)

・その工場跡地で六稜星刻印と「∀」刻印の焼損煉瓦が見つかった

・市街には六稜星が主に分布している

・津守煉瓦(木津川駅)と大阪煉瓦・狭山煉瓦(狭山駅)は同じ鉄道会社の路線上に存在する

・津守煉瓦の関係者が大阪煉瓦の役員に就いている(大正10頃だったっけ?)

六稜星=津守煉瓦とする従来説に則れば、大阪煉瓦の工場を作るために津守から運ばれてきたものという解釈になる。焼損煉瓦が焼損した状態でここまで運ばれてきたという解釈。窯を築くくらいなら焼損煉瓦であっても使い手はあっただろう(見つかった焼損煉瓦にはモルタルが付着していて、何かの構造物に使われていたことが明らか)し、最初の窯を築くのに自社生産の煉瓦を使うことはできなかった。津守煉瓦関係者が大阪煉瓦の役員になっているのも両社の間に深い関係があったことを匂わせる。

六稜星=大阪煉瓦という新説はこれから構築しないといけない段階だが、一を聞いて十を知る的な詭弁でもないんじゃ中廊下。津守煉瓦の操業期間は明治30~大正13(『泉南市年報』。 廃毒でT14尻としたのは『窯業銘鑑』によったものだが、データはT13現在のものであるかも知れぬ )だが、明治年間に築かれたことが明らかな建造物で六稜星が見つかったことはあったかな? と考えてみると、これがない。新庄第二水路橋の橋台(不明)、吹田駅構内発掘現場(T12開業)、岡町住宅地(M45以降)、桜井住宅地(T初年以降)、阪大医学部跡地(T4~)。kousenさんが南海高野線九度山駅で見つけてはるのだけれども、九度山駅が大正14年築だとしたら非常にギリギリということになる。凍豆腐関係の遺構はどうだろう?千早洞がT6だからそれより前かも知れない。

「∀」=大阪煉瓦説でもよいのだが、分布量と継続期間が一致しないカンジ。むしろS7~S14の狭山煉瓦のものと考えるのが妥当げだ。何を意図してあの意匠なのかはさっぱりわからんが。解決しますた

行けば行くほど新たな発見があることは嬉しことだが、その都度自説が揺らぐのはちょっとどうかと思わないでもない。まあいつものことだろう。今はまだけんきゅーの端緒についたばかりであって、自分で立てた仮説を追試しているようなものだ。当たっていたらオメデトウ、間違ってたら軌道修正すりゃいい。

そういや津守で見た焼損煉瓦は何だったのだろう。あれには刻印がなかったような。

[煉瓦刻印] 推定阪煉瓦(大阪狭山市)

画像の説明上の煉瓦刻印の拓本を取ってみた。やはり単純な∀じゃねえなあ、と再認識したところで閃くものが。

画像の説明図を描くとこんな感じ。オブデータ集を作った時には三角形の切れ込みだと思っていたんだが、上記煉瓦のはこんなに見える。とすると、

大阪煉瓦刻印こういうことなんじゃね?

こんなんわかるかーッ!!!

刻印はわかりやすく打刻しやすいものにしましょう>各位。

千早索道 大正10

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936463/279


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