nagajisの日不定記。
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二回目の訪問の時に関野煉瓦跡に足を伸ばしていたのだが書き忘れていた。つーか写真からして撮り忘れてる。それほど収穫のなかった足伸ばしだった。
工場の所在地はマップ左下の赤マーカーの位置。この一角は町工場が発展成長して新工場を手に入れた!的な中規模工場が立ち並んでいる。鉄骨組にスレート葺き・2,3階分吹き抜けで天井にガントリークレーンが渡してある、みたいな。敷地はもちろんその周辺も整地し直されている。微塵も古さを留めていない。
そんな工場街の外側、マップの黄色ピンの位置に、古ぼけた木造建物があって朽ちかけていた。その前にある広場は南隣の鋳物工場の駐車場として利用されている模様。そんな旧区の西側にわずかばかりだが煉瓦壁が残っていた。平の面が露出していたことも覚えている。しかし写真を残してないということは、ここに刻印はなかったということだろう。
区画の中には金網で囲まれた空き地もあったが、夏草の茂る今時分に行っても雑草が眺められるだけだ。春先にもう一度行って再確認しておくほうがいいかも知れぬ。先の駐車場の煉瓦壁も含めて。
せめて区画の周囲を回ってみようということになり、南のほうに行ったのはいいが、そうすると広大な東洋紡敷地を一周せねばならなくなって、ひどく悲しく寂しい思いをした。
関野跡地へゆく前に区画の北側にある広い空き地で煉瓦刻印を発見している。瓦礫の山に紛れた煉瓦をひっくり返すと播煉の「ヲ」が見つかった(複数個あった気がする)。そうしてFさんが松葉菱+イ刻印の煉瓦を発見した。柱状に積まれた煉瓦の塊の中に。鏨とハンマーで割って回収しておいた。
ここはそもそも何の工場跡だったんだろう? と思って調べると、1963(昭和38)の国土基本図では高圧コンクリート工場ということになっている。古い木造建物が残っていた辺りにはひと繋がりの大きな工場があったようだが名前は記載されていない。
動水圧230尺、ってそういう単位じゃないと思うのだけど・・・。水頭のことを言っているのだろうか? そうすると単純に水頭約70mということでいいのだろうか。慣れない分野なのでよくわからない。それとも平方尺で考える? うーん頭がチリチリする。まあそこから考えなくとも毎秒0.7立方尺を防火用に使うことを想定してた、ってのを引っ張ったら委員ジャマイカ。
曽根の市街地で目撃。括弧内の言葉はいま勝手に作った造語である。要するに煉瓦サイズのコンクリートブロックだ。それを積んで作った壁が曽根の旧市街にあったという話だ。
機能的な観点では煉瓦と同じサイズである必要はなかったはずで、むしろ大きなほうがいろいろ利があったはずだ(目地を少なくできるとか施工が早く済むとか。隧道のコンクリートブロックなどは最初から大きなものが作られてた)。煉瓦があのサイズなのは中まで火が通るようにするため・焼くことで生じる収縮をゼロにできなかったから(大きければ大きいほど誤差がでかくなる)・手のひらの大きさに合わせてのことだったから。焼く必要のないコンクリートならなおさら厚く大きくていい。なのに煉瓦サイズのコンクリートブロックであるところが面白く思われた。ずいぶん古そうだったし、調べたら意外と刻印があったりしたのかも知れぬ。
今まで何度も言及してた割に、写真をあげてなかったな。これが播煉の「ヲ」刻印。『大日本商工録』に登録があるので間違いない。どれも同じ印影(書体)で、いくつかバリエーションがある和田煉瓦の「ワ」、播陽窯業の「ハ」、大正煉瓦の「大」とはちと違う。そのへんも会社の大きさを反映していると言えるかも知れない。それ用の刻印(印母)を作業人数分用意してたってことだからな。
それって結構面倒なことだったと思うんだ。何万個も打ってれば摩耗したり欠けたりすることもあっただろう。大量注文が入って一度に沢山作らなきゃいけない時もあっただろう(作業者の数が急に増えたり)。そういう時に備えて予備の印母を用意してなかったから、急ごしらえの印を作ってみたり摩耗したやつで不鮮明な刻印を打ったりしたんだろう。播煉合同は最盛期には4つも工場があったのだからなおさら大変だったはず。それぞれで揃いの刻印を用意しなきゃいけなかったわけだからな。
しかし未だに「なんで「ヲ」?」なのかわからない。初代社長が小田千代蔵だから「ヲダ」の「ヲ」なんだろうか。確かに『諸会社役員録』なんかでは「ヲ」の欄に「オ」も並んでる。ルの次に大阪煉瓦があったり尾崎商会があったりする。このへんの感覚はわかるようでわからない。「オ」=「ヲ」なら「ヲヲサカ」でもいいはずだがそういう表記は見かけない。昔は「ヲ」と「オ」で発音が違ったともいうけれどもイロハ順では混同されてる。一定のルールがなかった、でFAかも知らんがもやもやする話だ。