nagajisの日不定記。
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午前中は部屋の大掃除。土日だけとはいえ3ヶ月間使いっぱなしで放置し切っていた部屋を片付けようと試みた。土日しか帰れないということは即ち平日にゴミを出せないということである。 プラゴミだけで4袋溜まり、加えてペットボトルが大袋に一つ、空き缶も今日出したつもりだったのだが奥からもう一袋出てきた。さらには資料やら衣類やらがとっ散らかって山積みになっている。結局午前中だけでは終わらなかった。
午後からOさんと打ち合わせ。廃5は少し考えなければならない。そりゃ4回も同じような体裁では飽きられてしまっても不思議じゃない。そもそも3の時点で変えられなかったのが影響しているかも知れぬ。打ち合わせが終わってから妙案が浮かんだので後日メールする予定。道路遺産という言葉を使いたくないんなら使わなければいい。
夜はKINIAS役員会。集中訓練期間中、最後の一回だけはどうしても時間が取れず出席できなかった。その償いの意味も込めて今夜は出席した。何か重要なことが決まる回ではないのだが不義理は一つ一つ片付けて行かねばならぬ。
そんなこんなでなかなか自由時間が取れない。
何であのとき涙が出たのか、今でも考え続けていて。答えを出しあぐねている。この間は「自分に共感した」と書いた。Oさんにはとりあえず「自分にレンビの情を抱いた」的なことを伝えた。どちらもうまく言い表せていない気がするし、かといって適当な語が見当たらない。
好き放題文句を言われ、いかにも知ったような口で非難をし、溜飲を下げて勝手に逃げ出した相手に対して中指を立てることもしない自分が哀れに思われたのだろうかと思ってみたが、どうも「哀れ」というのが合わない気がする。「可哀想」という感情は相手に対してしか起こらない。そんなデタラメを述べ立てて他者を攻撃していないと生きられない可哀想な人なのだろうから。批判に耐えて黙々同じことを続ける自分が不憫でならない、というほうが、まだ近しい。けれども決して黙々とやっているわけでも、不憫と思っているわけでもない。
それだけけなされて、書くものが面白くないと自覚しながらなお「書くことしか残されていない」と思っている自分の頑なさ。健気さ。諦めの気持ち。決して報われることのない努力。そういうものに触れ、感化されて流れた涙だった。削って削って、削り落としてなお残ったのが、純粋な「書きたい」という気持ちであったことに心を動かされたのだ。加えて、現実に帰ってきて、それがジブンの芯なのだと解ったときの誇らしさーーー人に自慢できるとか、人より優れているとかいう比較の感情でなくて、己に恃んで恥じない絶対値の誇らしさーーーも涙の誘発剤の役割を果たしていただろう。秋の夕三時の吸い込まれそうな青空のような透明感を伴って、そんなにもおれは書きたかったのか、と気付かされた。それが涙の流れる凹溝になった。
講義終了後、改めて「書いてどうするのか」と問うてみたが、ジブンの芯は答えてくれず。質問を「どう書いていくか」に変えてみても同上。結局のところ、外面は変わらないだろう&変えることもできないだろう。芯が確認できただけでも収穫だ。
一期生から二期生に向けて贈った言葉の、最後から二番目のひとことは、そんな経験をもとにして書いたつもりでいる。ラスト一つは照れ隠しそのものである( 「ちゃんこ屋の向かいが「にゃんこだ」」と書いておいた) 。