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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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1941-11-20 この日を編集

[陸幼日記]十一月二十日 木曜日 曇

朝に霧たち込む。剣術の際にためし切りがありて、見学す。ずばりと成りたるときはすーとするのみか腕前に驚く。ためし切りにて多く切るには、一つは力も必要と思う。中抜け成功す。


1942-11-20 この日を編集

[陸幼日記]十一月二十日 金 晴

気温稍暖にして為に先日来のだるみ及び就寝中の苦悶もなく、終日を新進の気を以て過したり。
我未だ剣術に於てかけ声小さく相手をして、いささか気合抜けしたるが如き感を持たしめるに至る。前の反省事項にも書きたる覚あり。声大なれば自ら気合も生じ剣術が愉快にならん。


2005-11-20 鐘ヶ坂トンネル見学 この日を編集

無事終了し,さきほど帰宅.飯を食って横になっているところ.アノ時間から自走で帰ってこれたことが半ば嘘のようだが,何とか帰って来れました.参加されたみなさま,お疲れ様でした.

$$詳細はあきら氏にお任せするとして(ヲイ,あらすじだけ.

朝7時すぎにJR福知山線に乗り,篠山口まで輪行.9時頃あきら氏と合流.鐘ヶ坂に向かって,合流予定のコルカタ氏を探しつつさっそく鐘ヶ坂隧道へ.

新トンネルは今のトンネルより一段も二段も低いところから始まってて,新道をイベント会場として開放していた.トンネルウォークは鐘が坂旧隧道を通って新トンネルで帰ってくる(その逆でもいいけど),片道4kmの歩き旅.

さっそく旧隧道がどうなっているのかを見に行く.現道とは反対側の川の土手沿いに登って,瓶割峠方面へ向かう車道に出て,そこから鐘が坂へと登ってゆく.のっけから新しい砂利道になっていてびっくり,約10年前の廃道からも,昨年の草刈り道からも想像つかないような新しさになっていた.山側には排水溝も.

鐘ヶ坂隧道は昭和に掘り下げられた部分が埋め戻されていて,ちょうど明治の頃の高さと同じになっていた.せり上がりアーチを形成するスライス煉瓦が目の高さ.おかげで天井にトラックが擦った跡をいくつも見る事ができた.この高さのお蔭で気付いたことなり.

隧道内には和モダンな灯篭が点々とついていて,そう悪くない演出だ.

本日のツッコミ(全1件) [ツッコミを入れる]

_ マリオ君 [あそこに入ったバスがでれなくなったというのはないのか齊]


2008-11-20 帰宅 この日を編集

[廃道本][独言] 帰宅

画像の説明11時過ぎ。なぜか村田鶴三昧の一日。わざわざ滋賀くんだりまで来て下さったKさん、Iさん、ありがとうございました。

話をさせていただいて、つくづく「自分はナニをやりたいんだろ」と思う。物書き志願でもなければ専業ライターでもない謎の立ち位置。どっちを向いてどの方向へ行こうとしているのか。廃道を歩くという行為は手段なのか目的なのか。自由のための必然性を受け入れる自由を備えているのか。とはいえそんな迷走の果て、わからないまま終わる人生もありかも知れないと思ったりもする。アンパンマン以下のnagajis。

何が君の幸せ 何をして喜ぶ
わからないまま終わる そんなのはいやだ
                      アンパンマン

[奇妙なポテンシャル] #73

廃道に対する思考・見方・スタンスを突き詰めていくと哲学的な思考に一致することがある。こういう見方もあるなあと思っていた事が得てして哲学論的であったりしてオオオレテツガクシテルなどと自惚れてみたりも正直したのだが、当たり前だ、哲学は世界や人間の思考を論述しようという学問なのだから。地形図の郵便局記号を見て「これって郵便マークに似てるよね発見した俺スゲー」と言ってるようなもの。

認識論的廃道:廃道はそこにあると認められて初めて道となる。認められなければ存在しないのと同様。

唯我論的廃道:廃道は《私》によって歩かれることで意味付けされる。

弁証法的廃道:廃道を歩く自由を享受するための必然性としての薮とその突破によって齎されるカ☆イ☆カ☆ン=止揚

たいへん生半可である。


2009-11-20 ああっ この日を編集

いろいろうまくいかないぜ・・・10重くらい不幸重なり中。メール遅延してます少々お待ち下さい。

[独言] 電子入稿

地味に苦手だ。特に相手の状況がわからない場合。zipで固めた.epsがEncapsulated Post Scriptなのかイラレなのか判断してもらえるのかとか、で.sitで別建て作ったらファイルいっぱいあるよ〜になりそうな気もするし。うむむ。そもそもイラレは.aiだろーがと言われそうだがEPS形式でイラレ保存したらやっぱりepsだよなあーとか。無駄な気苦労大杉柾之助。

[ORJ][企画] 桟道

画像の説明KINIAS幹事Sさんのご教示にヒントを得て。こういうことではないのか。ゲルバーだと120尺を超えてしまう。今でも125尺だが。

あとは“斜柱”と“増柱”・・・柱2本をはすに固定するのが斜柱かと思ったが、5尺だと何しても足りない。なんだこれは。

[独言]ほらね・・・

本日のツッコミ(全6件) [ツッコミを入れる]

Before...

_ nagajis [でも雨になりそうでする>23日。上手く行くなということでせうか。]

_ TUKA [降水確率20%っつーんで出かけたら、土砂降りに遭ったぜ! 意地になって傘さしながら撮ってきたぜ!]

_ nagajis [それくらいの気概がないとダメってことですかっ]


2010-11-20 この日を編集

[独言] どうもよくわからない

明治初期、各県が(仮定)県道や里道を定めたタイミング、およびそれを宣言するもの(県令とか告示とか)や宣言の仕方が同一でなく、ほんとうに県それぞれのやり方でやってる。当たり前かも知らんが混乱する。どうなってるのかこれ。以下うろ覚え書き。

奈良県
明治21年に最初のもの。前年暮れに独立したので当然っちゃあ当然。県費支弁里道は土木費支弁規則の県令のなかで、県道は別に告示の中で。
三重県
最初の告示がはっきりしない。明治12年に道路取締規則が出され「道路」が指定されるが県道ではない(これが実効する明治13年に県道が定まって云々という文献があるが・・・たぶん編纂室HPの記述のほうが正しい)。明治13年以降仮称県道の言葉が使われる。明治19年に土木費支弁法、国県道、里道ほか定まる。
滋賀県
早くから国県道の言葉が使われるが県道認定は明治20年。
兵庫県
明治9年に飾磨県・名東県・豊岡県が合併。そこそこ詳細な県会史があるが地方税で経営されるようになる?明治12年以降しかなく、その時点ですでに国県道の修繕費が議題に上っている=すでに決定済み?。明治21年にその年度の改修予定場所として路線が県令されるが恐らく全てでない。明治20年のが抜けてる・・・。
飾磨県治一覧には一等道路、二等道路、三等道路の表あり。しかし名東県のには街道名すら載ってない。
明治16=街道 http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807352/170
和歌山県
明治12年に道路取締規則、その及ぶ範囲として主要道路が例示される(日本の道Do-Law2参照)。明治15年に土工条規(17年に改訂: http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994877/224)ができて地方税支弁対象道路が示されるが県道指定でない。工事仕方規定も同様。その後明治21年に仮定県道路線の変更の告示があるが、その間に出たようでもなし。http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/788861/165。少し飛ぶが統計書あり。

大阪府と京都府はまた違うシステムなようなので未着手。

おまけ。統計書の表記もまちまち。三重県は交通の部に、鳥取県は土工の部に(明治末年頃)。鳥取の交通の部には鉄道と港湾ばかりでいかにも鳥取らしい。

そういうバラバラな状況だから道路法の整備が急がれたのだろうけれど、「これが(仮定)県道です」ちう告知がないまま県道の修繕仕方とか地方税補助とか言われても困る。どこかでそういう指定がなされたはずなんだろうが。むー。
そもそも県史嫁ということか。近代デジタルライブラリーにあることがらから体系を導きだそうとするのが無理なのじゃ。

まあ、そうだよな。。。新道路法の路線の認定とかみたいな明示行為は規定されてないから。地方税支弁のしかたによって(仮定)県道を示す必要がある場合とそうでない場合があるのだろう。「県道は地方税支弁とす」と書いたら県道を示す必要がある(奈良県とか)。「左の道路は地方税支弁とす」とするなら県道かどうかは明示する必要がない(大阪府とか)。


2011-11-20 ”道“を拓いた偉人伝 この日を編集

[原稿][廃道本] 第3章:禅海和尚(真如庵禅了海)

よく考えてみたら「廃道がない」という割に[廃道本]タグを打ってしまってた.まあいい.よくあることだ.

画像の説明第3章は禅海和尚.青の洞門を作った有名人である.できるだけ無名に近く,道づくりの現場に近い人をと思って「土木県令」のような人物は入れなかったが,この人だけは敢えて取り上げさせてもらった.理由は読んでいただけばわかる(といいな).名前はよく知られているけれども,実のところはよくわかっていなくて,事実と創作とがごっちゃになっているという典型のような人だから,である.

だからといって「禅海和尚の真実はこうだ!」みたいなことが書けたとは口が裂けても言えない.創作である『恩讐の彼方に』ではこうなっている,資料が伝える禅海像はこうである,と並べてみただけだ.むしろ言いたかったことは,生半可に知ったつもりでいた私がこんな記事を書いている姿を通して「知っているつもりのことをもう一度見直してみること」「それが道路趣味をのポイントである(とnagajisが思っている)こと」を伝えたかった.要するに伝記と見せかけて道探索の面白さを訴えようという回りくどい記事である.nagajisがふつうのぶんしょー書けるかってんだ.

前半は『恩讐の彼方に』を長々と引用している.我慢して読んでいただきたい(読んだことのある人はすっ飛ばしていただいてよい).最後になってその意味がわかってもらえると思う.「道,その後」では,禅海和尚の作ったとされる初代隧道がどのような改修を経て今日の姿になったのかを追究しようとした.初代青の洞門は明治20年代に最初の大改修があり,同40年頃にも改修があったという.特に後者の改修は大規模なもので,それによって今日見られるような車道トンネルになった.初代隧道はごく一部が残っているだけだ.といったことは町史その他にも書かれてあるのだけれども,実際にどの程度の改修だったのか,どのへんを改修したのかといった具体的な話がなかなか見えてこない.近世の話は詳しく書かれていても,より身近なはずの近代以降の話がおざなりになっているというのも,ある種の典型だ.

それを解決するために「絵葉書を利用する」という無茶をやっている.当初はそこまでするつもりはなく,古写真がわりに使おうという程度の気持ちだったのだが,何枚か集まったところで「二種類ある」ことに気づいてしまった.以降注意して見ていると,出てくる出てくる,よくもまあこんなに沢山撮ったものだと思うくらいに(しかも同じ構図で).それでその集まった絵葉書を使って大改修の前後を見ていくことにした.ちなみに絵葉書はどれも古物市や古本屋を回って100えん程度で購入した.数あるせいで滅法安いのである.

絵葉書の比較で改修ストーリーに目星がつき,あとは現地に赴いてその裏付けをするだけ,と思っていたら,現地で謎の旧道を発見してしまい,若干こんがらがりながら書くはめになった.ちょっとすっきりしないところがあるかも知れないが,そのへんも「道探索にはよくあること」ということでお茶を濁しておく.校了後にもっといい絵葉書を発見したりもしてしまった.補足訂正記事を書いて例の資料ページに上げておかなければならないだろう(出る前からコレかよ!).

画像の説明

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ ocoze@三重 [水俣の海岸線が好きで何度か訪れている。歴史に残る悲惨な公害を連想する風景はチッソ工場以外にはなく,それでも町とは友好的な関係を保っているらしい。 熊本・大分には魅力を感じる。廃道というよりはやは..]

_ nagajis [石橋のある風景はいいですよね.ふつうの方にも石橋はおすすめできます. やってみたいことはいろいろありますよ.売れるような内容とは思えませんし,ツテがありませんが(ばく]


2012-11-20 この日を編集

[独言] 結局行ってきた

19日の話である。日の出直前に寝たにも関わらず10時前に目覚めることができ、なんだか勿体ない気がしてきたため、一転して徒歩調査へ赴いた。洞の共同井戸、洞池を回った時点で15時過ぎ。せっかくだからと、忍海村と新庄村の道路元標を回収しに行った。行ったのである。行ったんだってば。行ったんだよ。しかも、そこで・・・。

[奈良近遺調] 新庄村里程元標

画像の説明画像の説明

こんなものが、ありやがッた。しかも・・・・・・「大正十一年八月建之」とはどういうことだ?!(嗚呼誰にも伝わらないに違いない驚き)

[独言] 共同井戸と洞池

どちらが新しいのかよくわからなかったが2つは水路で繋がっている模様なうえ2つとも大字洞にあるらしいことを境界標のお陰で知った(また境界標かよ!と思ったあなたは正しい)。さてどう料理したものか。

誰も来ねえだろうと思っていたら2人もすれ違ったのが妙。よほどよく踏まれた道なので畝傍山に登る道としてメジャーなのかもしれん。

肝心の水の出所がいまいちよくわからなかった。岩盤から染み出てくるのを貯めていたのだろうか?にしては水量が少なすぎる。以前は沢山出ていたのだと説明されてしまうとそれっきりな気もするがモノは現実的でないなあ。場所も谷筋ではなく尾根筋に近いところにある。湧水豊富そうには思えぬ。

[奈良近遺調] 思ったほど書けない

さっそく書いてみたがあれが洞池という確証がないのな。下の池は新池という名前らしいし(「橿原神宮と建国奉仕隊」図より)、その図には上の駅書かれてないし。ううむ。

里程元標のほうも進まない。奈良県は明治21~23頃に里程標の設置を行った?公文書「里程一件」なるものが存在するらし(伝聞形)い上に市町村のは木標であった。んで何故か左のこめかみが痛い。

[独言] うーん

御所、天川へ向かうタイミングが掴めない。寒いのは我慢するが、それ以外の要因でいろいろと。先にやらないかんこととか。

「天川ガイドマップ」によれば川迫から来た軌道は沢谷で終点。南角に土場、神童子や弥山の奥に製材所があったという。索道中継点というのは、当時は屈曲停車場を作れなかったため。あ、「天川ガイドマップ」の写真の搬器はロー式やな・・・。電索は玉村式やなかったっけ。

うん、たぶん違う。大阪荷箱のんじゃねえの?

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ JINKO [里程元標の件、大正9年以降に作ったんなら道路元標じゃないのか的なお話でしょうか?青森県は元標ほとんど残っていないので羨ましい…。]

_ nagajis [まあそんな感じです。加えて奈良県の場合、里程元標の位置を踏襲して道路元標を設置しようとしたらしいですし、その里程元標位置の調査は大正8年末には終わっていたようで、その後に、近い将来無用になることが..]


2013-11-20 この日を編集

[独言][KINIAS] しなければならないこと2,3

午前中は部屋の大掃除。土日だけとはいえ3ヶ月間使いっぱなしで放置し切っていた部屋を片付けようと試みた。土日しか帰れないということは即ち平日にゴミを出せないということである。 プラゴミだけで4袋溜まり、加えてペットボトルが大袋に一つ、空き缶も今日出したつもりだったのだが奥からもう一袋出てきた。さらには資料やら衣類やらがとっ散らかって山積みになっている。結局午前中だけでは終わらなかった。

午後からOさんと打ち合わせ。廃5は少し考えなければならない。そりゃ4回も同じような体裁では飽きられてしまっても不思議じゃない。そもそも3の時点で変えられなかったのが影響しているかも知れぬ。打ち合わせが終わってから妙案が浮かんだので後日メールする予定。道路遺産という言葉を使いたくないんなら使わなければいい。

夜はKINIAS役員会。集中訓練期間中、最後の一回だけはどうしても時間が取れず出席できなかった。その償いの意味も込めて今夜は出席した。何か重要なことが決まる回ではないのだが不義理は一つ一つ片付けて行かねばならぬ。

そんなこんなでなかなか自由時間が取れない。

[コアダンプ] フォーカシング

何であのとき涙が出たのか、今でも考え続けていて。答えを出しあぐねている。この間は「自分に共感した」と書いた。Oさんにはとりあえず「自分にレンビの情を抱いた」的なことを伝えた。どちらもうまく言い表せていない気がするし、かといって適当な語が見当たらない。

好き放題文句を言われ、いかにも知ったような口で非難をし、溜飲を下げて勝手に逃げ出した相手に対して中指を立てることもしない自分が哀れに思われたのだろうかと思ってみたが、どうも「哀れ」というのが合わない気がする。「可哀想」という感情は相手に対してしか起こらない。そんなデタラメを述べ立てて他者を攻撃していないと生きられない可哀想な人なのだろうから。批判に耐えて黙々同じことを続ける自分が不憫でならない、というほうが、まだ近しい。けれども決して黙々とやっているわけでも、不憫と思っているわけでもない。

それだけけなされて、書くものが面白くないと自覚しながらなお「書くことしか残されていない」と思っている自分の頑なさ。健気さ。諦めの気持ち。決して報われることのない努力。そういうものに触れ、感化されて流れた涙だった。削って削って、削り落としてなお残ったのが、純粋な「書きたい」という気持ちであったことに心を動かされたのだ。加えて、現実に帰ってきて、それがジブンの芯なのだと解ったときの誇らしさーーー人に自慢できるとか、人より優れているとかいう比較の感情でなくて、己に恃んで恥じない絶対値の誇らしさーーーも涙の誘発剤の役割を果たしていただろう。秋の夕三時の吸い込まれそうな青空のような透明感を伴って、そんなにもおれは書きたかったのか、と気付かされた。それが涙の流れる凹溝になった。

講義終了後、改めて「書いてどうするのか」と問うてみたが、ジブンの芯は答えてくれず。質問を「どう書いていくか」に変えてみても同上。結局のところ、外面は変わらないだろう&変えることもできないだろう。芯が確認できただけでも収穫だ。

一期生から二期生に向けて贈った言葉の、最後から二番目のひとことは、そんな経験をもとにして書いたつもりでいる。ラスト一つは照れ隠しそのものである( 「ちゃんこ屋の向かいが「にゃんこだ」」と書いておいた) 。


2016-11-20 この日を編集

[古レール] GHH No.2(軽レール)

GHH No,2

軽レールに刻印、なんて初めて見た。しかも独逸製。Oさん曰く「あると言われているけど見たことはない」という物件を、まさか大台ケ原で見るとは思わなかった。恐るべし畏るべし。

[キノコ] クチベニタケ

画像の説明

変わったキノコ、と思ったらガイドブックにも載っておりましたわ。つまむと法師が、もとい胞子が吹き出すらしい。


2017-11-20 この日を編集

[煉瓦刻印] 関西地方の煉瓦刻印

http://bdb.kyudou.org/

Wordpressの練習のつもりで作り始めたら、カンタン、カンタン、1日でこんくらいはできる。これと刻印分布図を組み合わせたらデータベースになってしまう。便利な世の中になったものだ。


2019-11-20 この日を編集

[独言] 治っていないではないか

意識の混濁は軽減されたがまだ鼻水が出る。寒い中自転車で走ったりなどすると覿面に出る。粘い鼻水である。いつもの調子で手鼻をかんだら頬から顎にかけてべっちょりと飛び散ってしまったりして阿鼻叫喚である。まさに阿の鼻が叫ぶ喚くの状態。そのてかてかした状態で悠々とゆうゆう窓口に立つnagajis。

[煉瓦] 久慈白糖工場煉瓦のメモ

画像の説明

瀬戸内町の教育委員会さんが持参してくださった煉瓦。右奥はウォートルスが上海で製造したという煉瓦で、これを参考にして奄美大島でも同型のものを焼いたそうだ(左手前)。上海のはよく焼けていて平の凹みも両側にある。対して奄美で製造したものはかなりボロボロで凹みも片面しかない。いかにも煉瓦製造濫觴期の煉瓦という態をしている。

この二つの煉瓦は馬鹿みたいにでかい。左奥に見えるやつが日本で普及したサイズに近いもの。体積比でいったらその3倍くらいはあるのではないか。

上海製造煉瓦は10inch×5inch×3inchというサイズ。inchメジャーで測ったのだから間違いない。そうしてこの寸法は非常に意味がある。以前書いた煉瓦税のときに定められた上限サイズなのだ。これ以上大きく作ったら二倍税になるというギリギリのサイズであり、M13蘭均氏土木学で示されている寸法もこれであったりする。そうしてそれを真似た白糖工場煉瓦は厚さが微妙に厚い。150inch3を越えている。だって煉瓦税関係のない日本で作ったやつだもん。

それを縮小した左上の煉瓦が東京形だったり並形だったりしたら面白いのだけれど・・・現物は63mmを超える感じですんなりとは腑に落ちない。ここらへんは報告書を拝読して考えなければならぬ。こいつだけが特別厚く見えるだけで他のは60mm前後に収まっていたりするのだろう。

[独言] 何を書いているのか>nagajis

美麗に書こうとかイイこと書こうとか思わないこったな。言葉で世界が変わるような魔法は持ち合わせていない。押し付ける言葉はもっと要らない。

瓦礫を処分するために夜の府道を歩いた。想定していたルートを歩いたのだが初めての道ゆえ目的地までの距離感を持たずに歩いてひどく寂しい思いをした。車も人通りもあったけれども自分とは一切無縁の人々であり車であり、自分の通行を見咎めたり記憶したりされることなどないのだろうな、と思う。センターの建物が妙にバカでかく、威圧的で、入れるものなら入ってみろと嘲笑している気がした。

昔は夜歩くのが好きだった。外灯も持たず無闇矢鱈と歩き回ってみたり、そういや初めて吸った煙草も夜に登山した山頂でであった気がする。あの時もライトは持っていなかった。吸った煙草はCamelのライトだったけどな。

明かりなしで歩いて平気だったのは、それは知った道であったからで、あとどれくらい歩けば目的地なのか(あるいは目印となるものの地点につくか)がうすぼんやりとでもわかっていたからで、初めて歩く道・町・街ではそうもいかない。自分の今いる位置がわからない、把握の外にあるということが怖い。わかったつもりで歩いていって、急に間違えていたことに気づき、わかったつもりであったことを悟らされた時の遣る瀬無い絶望感。今日もあやうくそれにはまるところだった。川に直角にぶつかるものとばかり思っていたのだが、気づいた時には川に沿って歩いていて、そのままでいたら永遠に川に着かないところだった。

夜のポートアイランドで方向を見失い彷徨した時のあの感覚。津守で北上しているつもりがいつのまにか南へ向かっていたアレ。岡町住宅地のなかでも気を抜いて見ず知らずの路地に入り込んでしまい明後日の方角へ行ってしまったことがあった。そういや豊中北郵便局辺から家に向かっていていつのまにか熊野町にいた自分もいたな。いずれもあまり思い出したくない記憶だ。

誰も助けちゃくれないのだ、という認識ほど、心を寒からしめるものはない。このまま闇に飲まれてしまうような気がする。例え、実際には12時間もじっとしてれば朝が来て周囲の状況を把握できるだろうにしても、助けてはもらえない現実は朝日の後でも続くわけで、結局のところ自分でなんとかしなければならず、そうして生きてきた割には「路頭に迷っている自分」の立ち位置に慣れない。まことに勝手なものである。

あの、たった3ヶ月の流浪の旅の間は、そんな心持ちにはならなかったんだけどなぁ。どこまでもどこまでも、果てしなく、彷徨っていける気がした。そこには一応未来があった。明日の自分が思い描け、それのためになすべきことがあった。今はそれすらもない。

[独言] だーかーらー。

ミスのリカバリほど慎重にしなきゃいけないって何度経験したらわかるんだ>あほjis


2020-11-20 この日を編集

[独言] おてがみかきおえる

ゆうゆう窓口に出しに行ったら新型コロナウィルスのえいきょうで18:00迄とかいうことになっていて逆上した。

どのみち60サイズを超えているはずなので下手すればゆうパックだなと思っていたものだからそのままコンビニに行って宅急便で出してやった。ざまあみろ。そんなことで溜飲を下げる小心者である。

[] 今回は長い

今から戦々恐々としている。触れなければならない範囲が広く、引用も長い。そのくせ2分割にもできない気がする。とりあえず書き始めてみたが全然流れない。台風の後に河原にできた水溜りが何日か陽を浴びで藻だらけになり腐敗臭を発しつつあるような淀み方をしている。これどうやって筋を通したらいいのだろうか。

考えることのできる時間はたっぷりあるのだ。だがそれを書ける頃には疲れているか考えたことを忘れている。結局のところは場当たりに指を動かし続けてその中で筋を通していくような書き方しかできないものらしい。いくら書いても上手くならないわけだ。


2023-11-20 この日を編集

[煉瓦刻印] 杉本煉瓦製造所@新道暗渠

画像の説明

やはり何度も訪れてみるべきだな……17年経って初めて真理に気づくことができた。はじめ四日市煉瓦の刻印かと思って焦ったが(ついこの間、初期には隅立て井筒印を使っていたと仮定し直したところなのに)、鮮明なものを探し出して清掃して杉本煉瓦のだとわかった。三行目がはっきりしなかったけれども国分暗渠へ向かう頃には葛木だと気づく。仮に17年前にこれに気づいていたとしても意味がわからなかったかも知れない。甲賀郡葛木に杉本煉瓦製造所があったと知っていたからこそ理解できる。そうしてその工場のことは明治30年版の滋賀県統計全書にしか載っていないというのがおそろしい。そこで創業M21.1.となっているからには関西鉄道草津線の建設に関わる創業だったはずで、しかしその想像を物的証拠で裏付けることはできていなかった。この刻印の検出によって全部が繋がったことになるわけである。めでたいことである。

刻印は三雲方のスプリングラインの上に露出しているのが最も鮮明。他にも三角形印がみられる煉瓦は多い。国分暗渠も平の露出は多いがわかりやすいところにはない。西側ポータルまで廻っている蛇腹の腹に1個ある。国分では焼過煉瓦の平の露出が多いがそこには確認することができない。おそらく製造系統を異にしていて、普通焼き煉瓦も全数打刻ではなかっただろう。全数だったら葛木ですでに検出しているはず。

国分・新道、杣川橋梁の橋脚はいずれも60mm厚を採用。同じ頃省線東海道線西半分では2-1//4インチや3インチがデファクトになっていた。関西で60mm=2-3/8インチを採用し始めたのが関西鉄道であったようである。

スパン12ft以下なので一応暗渠と読んでおく。国分橋梁・新道橋梁として知った身なので違和感がぬぐえないが、なあにそのうち慣れるだろうし、そのうちまた元に戻るかも知れないし。そんなところに拘っても意味がないし、しかし叙述する時に命名ルールをもっておかないとかえって面倒くさくもある。主に後者の理由で暗渠と呼ぶことにする。拱渠と書くのはなんか半角斎。

[滋賀県道元標] 県道貴生川停車場線

画像の説明画像の説明ついでにこれも新発見した。以前来た時に貴生川駅のそばに起点元標が転がっているのを見つけていたけれども、それと対になる終点元標もちゃんとあって、そちらは今も路傍に立っているのだった。建っているのは県道122号との分岐点、まさしく今の121号を示して立っている。

県道分岐点のほうが終点なのがちょっと面白い。あくまで駅側が始点、交通運輸体系でみれば鉄道を幹線としてそこから末端に向かうような形で設定されているわけなのだろう。

始点元標のほうは相変わらず駐輪場西角に転がされていた。巾20cm。


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