nagajisの日不定記。
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「蹴」の断片や「ソ二九」を採取した場所でこの煉瓦も見つけている。 やや焼過気味な茶色い煉瓦で、非常に大きな十字の刻印が入っている。小口幅の1/2くらいはあるだろうか。似たような十字刻印の断片もあって、それには全形が入っていたから、これも十字とみてよいだろう 。&、焼き色と煉瓦の厚さは第三隧道呑口に使われているものと瓜二つだった。このポータルに使うための特製の焼過煉瓦だったと思われ、その欠片が散っていたからここが作業場だったのではないかと思うのである。
十字の刻印というと岸和田煉瓦のSt.Andrew's crossが連想されるが、ここまで大きなものは見たことがない。それに疎水工事には蹴上の専属工場で作られた煉瓦が供給されていて、民間から購入したという記録もないらしい。とはいえ第一疏水に蹴上事務所以外の煉瓦も使われていることは傍証がある(後述)。これもそのひとつに成り得るかも知れない。第三隧道呑口ポータルと写真の煉瓦はかなりの高確率でイコールで、写真の刻印とキシレンがイコールになるかどうかが断定できない。
まず時間軸を整理してみる。琵琶湖疏水の工事は明治18年に始まり23年4月9日に竣工式を行なった〔Wikip.〕。第三隧道の工事が全終了したのは明治22年3月26日〔琵琶湖疏水要誌p.319〕。ちなみに東口坑門費は1723円11銭8厘。洞内アーチと側壁の煉瓦は別計上で、そちらは19470円16銭4厘だ。
琵琶湖疏水工事事務所の煉瓦工場は明治19年7月21日から稼働し23年10月で終了した〔続・そすいのさんぽみち〕。疏水要誌には明治22年(度?)の生産記録までしか載ってないので実際には20年3月頃には終了していたと思われる。で、第一隧道が明治23年2月13日に完成。これが第一疎水で最後に煉瓦を使った構造物のはずだ。竣工式のあと鴨東運河が作られているがとりあえずこれは置いておく。
第一隧道:M23.2.13〔p.307)〕
第二隧道:M20.12.30〔p317〕
第三隧道:M22.3.36
第四隧道:不明
第五隧道:M23.1.〔p.368〕
第六隧道:M21.8.20〔p.368〕
水路閣:M21.8.30〔p.369〕
ねじりまんぽ:M21.6.
滋賀県庁の小原と相談したのは明治19年9月28日〔琵琶湖疏水 楽百年之夢〕。これ以降に隧道閘門の意匠設計を始めたとされる。
第三隧道が建設されていた頃、岸煉はまだ第一煉瓦会社を名乗っていた(M20~M26)。代表の山岡尹方は士族授産施設の頃から関わっていて、明治15年に新島襄の仲介で洗礼を受け、以降St.Andrew's crossを使っていたという話がある〔岸和田市ホームページ他〕。第一煉瓦会社も十字刻印を用いていた可能性があるわけだ。ただし商標取得は明治36年〔商標大全〕。
第一疎水に蹴上事務所以外の煉瓦が使われていた証拠。安朱川橋にある「カ二」刻印。(安朱川水路橋の竣工年は不明だが該当区間は明治22年12月25日に竣工したことになっている。p.356)
JR和歌山線の脇で見かけた細十字の刻印が岸和田煉瓦のものである可能性は高い。兵庫県の湊川隧道工事に岸和田煉瓦が供給した記録があり〔土木史研究講演集〕、実際に湊川隧道から細十字の刻印が見つかっている〔K先生談&神戸市サイト〕。湊川隧道は明治34年竣工、JR和歌山線(南和鉄道)該当区間は明治29年建設。同じ細刻印の見られる秣倉庫は明治42年以降。
土木研究講演集では煉瓦の納入先に琵琶湖疏水はない。とはいえ坑門費1000円ちょいなら煉瓦代もそれ以下のはずで、そうなると確実にtop30以下だから載ってないはず。
すっごいうろ覚えなのだが、岸和田煉瓦が記した資料で「琵琶湖疏水に煉瓦を供給した」ってのが書かれてあったような気がする……。土木史研究講演集かと思ったが違うようだ。自分の記憶違いで、大阪府庁の間違いだろうか? うんそのような気がしてきた。岸和田煉瓦経歴書だ。
余談:かつて鴨東運河の脇には煉瓦敷の舗道があって、ここには大阪窯業と岸和田煉瓦の煉瓦が使われていたが、明治末の拡張時のものである可能性が高い。第二疏水の時には民間から普通・焼過煉瓦を購入している。