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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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1941-07-04 この日を編集

[陸幼日記]七月四日 金曜日 雨

午后雨の中にて、「ケンスイ・トウテキ・二千米」あり。二千は五秒おそくなる。


1942-07-04 この日を編集

[陸幼日記]七月四日 土曜日 雨後晴

午後に至りて雨止みぬ。依りて教練考査あり。科目は「伏せ」「折敷」「駈歩」の三つなりき。以後自習。十六時より生徒監殿の特に考査に対する御注意あり。
柔道をなす。食卓変えあり。夕食後は前日に比しほがらかなる夕なりき。


1943-07-04 この日を編集

[陸幼日記]七月四日 日 曇

剣術にも一段と気合かゝりたり。午前中は整理・休養をなし、午後は十六部隊へ。 軍旗拝受式参列の為各個に行き十五時半集合。厳かなる中に粛々と行わる。斯様に最も新しいものを我未だに拝すること無かりき。今日新たになられた連隊長殿は誠に元気旺盛大部馬を走らせられたり。十九時帰校。二十二時消灯。昨日と共に約二時間の睡眠を失いたり。確乎たる意思の養成には最も可なり。防暑衣袴となる。良好。


2007-07-04 詐欺用報告 この日を編集

[ORJ] 報告書き始める

寄ってたかって書く!と息巻いてはみたけれど、ひとまず自分が書かないことには。しかし余計なことを書きすぎてしまうな>Wiki。だからWiki作るのが目的じゃないんだってばよ。

アップローダ作成に手間取って、帰宅直後にいただいていたメールに返信できないまま昨日は寝てしまった(参加者への同報メールはお送りしたのだけれど)。よって今頃になってRe:が届きます>皆様。申し訳ありません。また今日までにメールいただいた方々へはアップローダをご案内しています(はずです)。届かなかったら...いやそんなことは無いはずッ!自身を持てッ!

[独言]

そうして「昨日撮った写真だけど・・・」という題名のspamに引っかかるnagajis。そのタイムリーさが余りに悔しい。

[懐古] 2002年7月1日

5年前のOFFの日はまたもや雨の茨川。テントに籠って昨日のゴミを見ながら過ごす。ゆえにKIRINの秋味は未だに印象が良くない。というより一度も買った事が無い。坊主憎けりゃ裟袈まで憎いでキリン社員には申し訳ないが、そもそも自分が最初に嫌われる坊主なのだから堪忍してほしい(自分で書いておいてよくわからない)。

この旅の間は、暇ができるとシュラフを縫っていた。これも入部時に自分で見繕って買ったもの。あちこち破れて穴だらけだったのが、日を追うごとに修復されていって、ついには縫う所がなくなってしまった。

そうしてまた腹痛に襲われ、喉の圧迫感に悩まされ、痒みにやられ。だんだんと自分が自分でなくなるのがーーーしかも旅の途中でーーー何とも悲しく。そして悲しんでも腹痛は治らない。

[懐古] 2002年7月2日

一睡もできないまま、久しぶりの晴れ間が覗く朝。この日を逃せば後は無い。そう思って茶屋川を溯上した日。浅広の川原が続く茶屋川。これが自分の最後の姿になるかもな、と思って珍しく自分撮りしたやつが、「俺流」のトビラに使った写真だったと思う。ひどく煤けた背中だぜ、とつぶやけるような写真になれば良かったのだが、見直してみると何だかとても楽しそうだった。どうせそんな奴だ。

三筋の滝まではサンダルで。滝からブーツに履き変えて。いきなりの斜面登り。斜面よりも登ってからの水平移動が応えた。何しろ足場がない。幅3cmくらいの石のエッジくらしか足をかける場所がない。しかも一枚岩ではなく亀裂の入った岩だ。全体重を書けている瞬間にバガッと剥がれても不思議ではないような、そんなエッジ。もちろん手もとも手掛かりがない。縦方向に稜線状になった岩を必死で握ってまたぎ越えた。そういうごくごく微細な地形を覚えている。必死だったのだろう。

三筋の滝の上部は白い岩がゴロゴロしている。川原の石のサイズも三回りほど大きくなったような感じ。すぐに右手から大崩落が入ってくる。石灰岩質の白くて硬い石がほぼ山頂付近から谷底にまで渡って崩れていて、白い帯を成している。

それを過ぎた辺りで川が荒れだしたのだっけか。河原と呼べるような平地がなくなって、淵と崖と大岩の集合体となり下がる茶屋川。多分さざれ石であろうと思う、多数の小石を抱え込んで石灰化した大岩が3つ、平面的に並んで谷を塞いでいた。ちょうど∴のような感じで。自転車を担いだ自分はどこを行けばいい? しこたま悩んで左岸の岩に上がり、クリアした。その凸凹加減。懐かしい記憶。

その次は、さざれ岩が二つに裂けたような滝。滝それ自体は低くてむしろ沢なのだが、滝壷に相当する淵が物凄く深く見える。滝の両側は垂直で、滝口に近付くことすらできず、かといってこれを迂回するのにも相当な苦労をする。自分は右岸を通ったが、果してこれが正解だったのか(そもそも自転車を持ってきている時点で不正解間違い無しなのだが)。三筋の滝以上に足場のない高巻き。

その先で、力尽きた。川はどんどん狭くなっていき、もうすぐで尽きるか、というようなか細さになってしまった。両側から覆ってくる痩せた森の木々。こいつらまで相手にしなければならなくなった時のことを思ってぞっとした。そのくせ白瀬峠へ登るための分岐が見付からない。下手をすればこのまま御池岳標高1247mに登ってしまう。

引き返すタイミングはいつも難しい。志半ばで帰って悔しい思いを残すのか?それとも突っ込んで果てるか?はたまた脱出口を運良く見つけるか? いつも選択肢にはやばめなものを紛れ込ませている自分だが、それを意図して選ぶこともなく、死ぬこと自体を目的にして山に入ったりもしない。自分はただ限りなく死ぬ目に遭いたいだけ。KUWAHARAが共にある時は殊にそう思うし、死んだこともない。

引き返す途中で登山客に出会った。三筋の滝の上だったと思う。その先でも釣り客2人に遭った。ひょっとしてこの日は日曜日だったか?と思ったが2002年7月2日は火曜日だ(RV族がゴミを巻き散らして帰って行ったのが日曜日)。泊地に帰って荷を畳んでいる瞬間に大豪雨。茶屋川大惨事。そうだ、あの雨のカーテンも印象深いな。茨川入口の狭い谷間を雨の壁が迫ってきて、一瞬にして豪雨に転じた。山の天気は本当に変わりやすいんだと貴重な体験をした。3人の安否が気になったが荷が完全に水漬けになったのに追われていて何もできず。やがて小康状態になってからポツリポツリと帰ってくる。無事で良かった。自分が川にいた時だったらどうなっていたことか。

住み慣れた茨川を後にして下界へ。担ぎ続きで自転車がぼろぼろだ。こいつをなおさなければ。自転車もそうだが自分もボロボロ。永源寺ダムを下った辺りでもう何度目かの腹痛。鈍痛。ハリカ永源寺店裏でひっくり返って悶えた。買ったコーラ500mlが末期の水に思えた。それでも脳内を巡るのは「贈ーり物はハリカですー」のフレーズばかり。死んでも死に切れない。

考えてみれば、旅に出てからまともに風呂に入ったことがない。あちこちで水浴びしたり冷水浴したりしてはいたものの、やはり風呂というものは人間性活、もとい人間生理に欠かせないものなのかも知れない。そう思ってこの日は銭湯に行った。裸の自分を見て絶句。何だこの全身蚊に刺されまくり野郎は。みたいな。それほど蕁麻疹がひどかった。

コインランドリーで洗った服に着替えても、結局はまた晩に発症して。寝るための酒を求めて夜の八日市市を彷徨った。

[奇妙なポテンシャル] #10

記念すべき10回目である。「車輪の再発明」という言葉がある。Wikipediaによれば「広く受け入れられ確立した技術や解決法を無視して、同様のものを再び一から作ってしまう事」の慣用句だという。

いくらでもアプロダがあるというのに一から作ってしまいながら「ああこれは車輪の再発明だな」と思いつつその手を止められない。道路遺構の探索だってすでに誰かが作り廃止した道を好き好んで行くのだからある意味車輪の再発明と言えるかも知れない(この場合は「再発見」のほうが相応しいか)。nagajisはそんな車輪の再発明が好きだしそこから得られることは多々あると思っている。要は自分のためなのだ。事実Wikipediaでも「教育の現場では、ある技術の意味を理解させるために、意図的に車輪の再発明を行わせる場合がある」と言っている。

そんな独り善がりな車輪の再発明だが、その結果、まかり間違って人類共通普遍的価値を有する物凄い発見をしたりしたとしたら。誰もが気づいていないエレガントな/エクセレントな解法を見つけたりしたら。それは決して可能性ゼロの事象ではない。そんな場合に備えて、それを何と呼んだらいいのだろうと思って

車輪の大発明

という言葉を考えて、そこに奇妙なポテンシャルを見出した。

単に「再」と「大」を置き換えただけだというのに、そこから湧き上がって来るこの奇妙なイメージは何だ。驚嘆すべき、世界を揺るがす、人類の未来を左右するような発明が大車輪の勢いで次々と生み出されていく。号外。号外。駆け回る新聞売り。そんなイメージが湧いて来ないだろうか。エジソンもかくや、アインシュタイン も及ばない、あまつさえ全ての自然数を友としたラマヌジャンなど。や、ラマヌジャンは別格かも知れん。

とどのつまり、目的語的な扱いだった車輪が形容詞的に作用してこのような錯覚を感じるのだろうと思う。それに気づくと今度は「車輪の再発明」がいかにも不毛なデスマーチっぽい何かを連想させてさらに忌避すべきもののように思えてくる。みなさんにおかれましてはくれぐれも車輪の大発明などなさらぬよう、予め諌言させていただく。


2011-07-04 この日を編集

[橋梁] 淀川水道管改め本庄水道管

画像の説明

(昭和49年撮影航空写真に加筆)

以前に長柄運河の橋巡りをしたときに書いてたはずなんだが自分でも忘れてた。正しくは本庄水道管という。明治44年に柴島浄水場から市街に水を引く水道管として架けられたもの。当時の淀川(新淀川)の川筋は上の航空写真に追記したように左岸にひどく寄っていて、右岸は河原(高水敷)が広がってた。なので水管を渡す橋はこれだけの長さでよかった。淀川を渡った水管は北端の橋脚の内部を通って地下に潜り、東北東のほうへ伸びてた。行き先はいわずもがなの柴島浄水場。(この頃大阪市の浄水場が移転最中で、橋はそれに先駆けて完成した。柴島浄水場は大正3年に稼働開始のはず)

で、昭和8年から新淀川大橋(当時は新淀川新橋といった)の建設が始まったときもこの川幅。低水敷のみ3径間の自碇式吊橋にする計画だった。ついでに水道管もこちらへ移してしまおうということで7号橋脚のところで水道管を拾い上げる設計になってたらしい<−よっと見ないといけないが。7号橋脚は3径間吊橋の北端で吊橋のアンカーを兼ねるもの。ただし自碇式なんで他とそんなに変わらない大きさ。

戦争で新淀川新橋の建設が凍結され、昭和30年代になってようやく解凍されたときには橋脚だけ流用して桁は新設計の箱桁+ランガー桁for北大阪急行になった。下写真はその新淀川大橋を、本庄水管橋の橋脚を正面から見た位置から。本庄水管橋は淀川を斜めに渡るのでスキュートラスが載ってる。いちばん端の格子だけ分格になってるのはあとで補修した結果だったっけ?

画像の説明

で、新淀川大橋の箱桁のなかを水道管が通ってる…と思っていたらそうじゃないらしい。2001年頃から柴島浄水場起点でシールドトンネル掘って市街へ渡すようにしたとある。それが完成して水の線が変わったから本庄水管橋は不要物となり不要な河川占用物ちゅうことで撤去しなければならなくなったようだ。

中央径間115mはたんに道路橋として見ても当時最長となる設計。市は昭和5年の桜宮橋(3ヒンジアーチ)でS=109mを達成していたけれども、それを新淀川新橋で再用しなかったところに滋味がある。しかも鉄道通るしな。ようやるわ>大阪市

[独言] 「号線」モンダイ

KINIAS-eNLで五条線高架の一部が撤去される話を書くにあたり、不用意に「国道24号線の…」と書いたところ、「線はつかないのが正しい」と指摘されてしまつた。Readers' VoiceがReader's Voiceだった頃に同じ指摘を受けている。一時期気をつけていたはずなんだがすっかり忘れてた。

いまは「線」をつけないのが正式ということになっているけれども、「線」をつけたほうが個人的にはしっくり来る。道路は線で繋がっているからこそ価値があるのだし、そのへん矢釜敷くなかった戦前の文章ばかり読み慣れてるからだと思う。県道を路線名で呼ぶときは線つけるしな。

という言い訳を考えていて、結局はKINIASのような公式の場?では守らんといかんよなという結論に至った。しかしそういう規定が例えば法令とか土木局長通達とかにあるんだろうかor何かに則ったものなんだろうか?と考えたときにすぐわからなかった。根拠は那辺にあるのだろう? 

ということで調べてみた。


要するに現行の法令では国道の路線名を「○号」と定義している。例えば松波さんのところの一般国道の路線を指定する政令(昭和40年3月29日政令第58号、最終改正平成4年4月3日政令第104号)なんか。なので「線」をつけると馬から落馬みたいなことになるという説。

しかしそうすると昭和28年政令第96号で二級国道を定めた時にはどうだったのかと思わないでもない。このときは路線名を「青森能代」とか「八戸弘前」といった感じに始点終点の地名で定めてる。しかも一級国道は「○号」だ。上の道理でいくと「青森能代」と言ってはいけなかったことになる。まあ現在廃止されてる政令なんだから気にするなと言われればそれまでだけど、「別に線付けて呼んでも良くね?」と考えてた→あとで一般国道にまとめただけなんじゃないかしらん。

戦前の法令(T9道路法のとき)は明示的に路線名を定めてない。国道の路線左の通認定す、といって

一號 東京市ヨリ神宮ニ達スル路線
 經過地
横濱市 神奈川縣足柄下郡箱根町 靜岡縣田方郡三島町 靜岡市 濱松市 豐橋市 岡崎市(八丁橋經由) 名古屋市 四日市市 三重縣三重郡日永村 津市(宇治山田市宮川町通經由)

のような感じで<thead>つけずに列挙しているだけだ(引用は松波さんhttp://japan.road.jp/Law/T9_NaimuK28.htmより)。路線の名称が「一号」なのか「東京市より神宮に達する路線」なのか定めてない。そのへんは常識的に判断しろってことだろう。あるいは機械的にナンバリングした「○号」のエイリアスとして「○○ヨリ××二達スル路」という名称があったと考えるべきなのか。そうだとより混同?混合?しやすかっただろうと思う。いちいち「○○ヨリ××二達スル〜」とか言ってるより「○号線」と呼んだほうが早いし。

明治18年の国道表も同じようなスタイル。ただし冒頭の凡例に使用例が入ってて、その表記が表と違ったりする。

一 路線中前号路線ト相通用スヘキ者(例ヘハ第二号---東京ヨリ大阪港二達スル路線---中其神奈川駅迄ハ第一号---東京ヨリ横浜港二達スル路線---ト同線ナル如キ類)ハ之ヲ路シ其番号ヲ記ス)

(日本道路史 P.1295をみながら)

と「第」つけて呼んでる(表のほうでは「壱号」「弐号」なんだけど、漢数字の壱と一を混ぜるのはまあよくあることなので無視。表に書いた通りを墨守してたわけじゃないということだけ)。

戦前の表記が揺れている例。工事画報第7巻第9号(昭和6年9月)の 内務省大阪土木出張所長坂本助太郎(←安治トンの検討委員長)による「失業救済国道改修工事概要」では国道路線名は全部「号線」になっている。同じ号の「大阪府京阪国道改良工事概況」も中身のタイトルは「国道2号線改良工事概要/大阪府施工の京阪国道」になってて本文も同だ。

一方、第8巻第5号(昭和7年5月)の内務技師・牧野雅楽之丞「昭和六年度に於ける失業救済事業としての国道改良工事付属の記事では「線」ついてない。ここでは工事箇所を写した写真のタイトルとして「国道一号」とか「国道六号」とかなってる。前二つは関西に限った記事で、こっちのほうが全国版だから、『「線」付けは大阪ルールなんや!』とか言ってしまいそうになるが、同じ号に神奈川県土木部長の田辺良忠が書いた「「国道一号線足柄下郡湯本町地内に築造せる開腹隧道に就て」があったりね。

あるいは建築画報だから……と思って道改見てみたけどやっぱり「号」と「号線」が混じってるな。http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/dokai/pdf/05-01-0117.pdfなんかは一記事のなかで「三十一号國道」と「國道第三十一号線」と「國道三十一号線」がマゼコゼだ(杉山鏡介?見覚えがあると思ったら愛宕山の人だ)。「道路法の田中か、田中の道路法か」と言われた道路法の権化・田中好は「前者は神奈川縣管内に属する一號國道及三十一號國道竝に」云々と言ってるのしか見つけられんかった(主に根気の理由から)。丹波浪人のほうで調べたら出てくるかも知れないし、出てこないかも知れない。

そもそも出てきたところでそれが今とつながってないことは既出だしなぁ。

道路の改良だったか土木学会誌だったか……道路を番号で呼ぶことのわかりづらさ味気なさをかこった記事があったはずだが、どこだっけか。リーボで指摘された時にリンク貼ったんだっけ。

[橋梁] 新淀川新橋 会席料

ぽちぽちやってたらいつのまにか終わった。分厚い簿冊ばかりだったので腰が引けていたが、何のことはない図面多数で水増しされていただけだった。

工事の名称を整理する必要がある。基礎用特許混凝土杭甲類(=南岸1号〜4号橋台橋脚)、乙類(=北岸7号〜21号橋台橋脚基礎)、下部構造工(コンクリート打設で筺体を作る)、第二期工(5、6号橋脚の構築)のはず。それぞれの請負者の確認。第二期下部工は白石基礎工業に見積もらせてるが錢高組受注。白石基礎工業はちょうどこの頃安治トンやってたのでそちらに傾注してもらう意味もあったのだろう。んで5,6号は当初pneumatic caissonが予定されていた。最初の設計書ではそうなっている。あと、細かな設計変更が多数ある。全部拾ってたらきりがない多分。

[ToDo][近代デジタルライブラリー] 大正六年陸軍大演習地図、陸地測量部沿革史

貼ったことすら忘れている。

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936896

http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965769/65

本日のツッコミ(全4件) [ツッコミを入れる]

Before...

_ nagajis [テレビや新聞では「線」をつけると決めているところ、つけないと決めているところが区々のようです。つける理由は「それが一般的だから」。 http://www.ytv.co.jp/announce/k..]

_ えも [私は四号、六号で呼び慣れてますね。けど、「路線」なのですから「線」つけても良い気がします。ところで、JIS様のお膝元の地震大丈夫でしたか?]

_ nagajis [揺れはしましたが、3.11.の時ほどではなかったようです。 緊急地震速報の音に続いて身近の地名が流れると緊張しますね……]


2013-07-04 この日を編集

[煉瓦][近代デジタルライブラリー] 戦後

近デジにS22版とS24版が含まれているのを発見し,まあそんなに大きな発見はないだろう泉南市年報でもチェックしてはるのだしと思ってへろへろ見ていたらそんなことはなかった.やはり戦後もきっちりチェックしないとだめだ.

  • 日本煉瓦はS22版まで載っている
  • 関野煉瓦は戦前で消滅,阿弥陀村南池の工場は伊藤窯業が,曽根のは播州煉瓦合同が使用?
  • 弘栄煉瓦が西神吉村岸に分工場(播州煉瓦合同の岸工場もある)
  • 昭和16年以降に成立した会社もいくつか.堺窯業とか.

[独言] ほっほー

http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?&topLat=34.783435460314&bottomLat=34.775936324399&leftLon=134.76543748797&rightLon=134.77566206873¢erLat=34.779685977564¢erLon=134.77054977835&zoomLevel=17&selectedYearEraFrom=1111&selectedYearEraTo=9999&selectedEndScale=99999999&selectedStartScale=0&dataTypeArrStr=4_2_3_1_5&colorTypeArrStr=2_1&dataTypeId=0

大正煉瓦曽根工場のホフマン窯は昭和50年頃まで残ってたらしい.

http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/74/ckk-74-11/c6/ckk-74-11_c6_46.jpg

そうして乗り遅れたので新システムの件には触れない.

[煉瓦刻印] 三石耐火煉瓦「ニドヤキ」耐火煉瓦

三石耐火煉瓦「ニドヤキ」煉瓦刻印

いまさらこんなカテ作って、はいはい煉瓦刻印煉瓦刻印。

「ニドヤキ」って二度焼きのことだろうか? と思いつつ撮影.検索すると三石耐火煉瓦のこのページがヒットした.鋳造用耐火れんがのグレードの一つだそうだ.確かに蝋石っぽい白い耐火煉瓦だった.

[煉瓦刻印] 大阪窯業耐火煉瓦株式会社耐火煉瓦

大阪窯業耐火煉瓦「OYT」

昭和11年に耐火物部門を独立させた,大阪窯業の子会社.現ヨータイの直接の先祖.SK番号の入ったやつは「OYK」だったが,あれは「耐火」を省略した結果なのだろうな.SK番号の入っていないこちらのほうが古いように思われる。そうすると大阪窯業時代に作っていた耐火煉瓦には何て書かれてあったのだろう.そうじゃないかも.戦後の『工場通覧』には大阪窯業耐火煉瓦株式会社はなく大阪窯業株式会社貝塚工場が耐火煉瓦を作り続けていた.なので「OYT」=大阪窯業耐火煉瓦株式会社,「OYK」は大阪窯業株式会社貝塚工場が作ったやつということだと思う.

大阪窯業耐火煉瓦「OYK」

ああ,これだこれだ.これは貝塚工場の近くで撮影したもの.「OYK」でゼーゲルグレード32が表記されてる。

耐火煉瓦の社名表記ってなんで3文字なんだろうか...わかりにくいったらありゃしない(が、大阪の煉瓦会社が幾何学模様を社章にしたのと同じような「倣え右」が見えて面白くも思う)。戦前は特にそのような拘りはなかったらしいので、いつ頃からそうなったのか考えると面白いかも。

[煉瓦刻印] 伊藤窯業株式会社耐火煉瓦

伊藤窯業耐火煉瓦「ITO」

のはず.大正煉瓦曽根工場跡地にて.伊藤窯業はここから直線距離で200mも離れていないところにあった.昭和22年『全国工場通覧』にも製造種に耐火煉瓦が含まれてる.何で三文字(ry

[煉瓦刻印] 三石耐火煉瓦耐火煉瓦

MITSUISHI耐火煉瓦刻印

同じ場所で.「MITSUISHI」とだけ刻印された耐火煉瓦.赤い色をしているが赤色の耐火性粘土というものも存在したのだそうだ(『日本窯業史』耐火煉瓦編).その土を何て言ったんだっけか。俗に「赤」といった.純白のものに比べれば若干劣るが充分耐火煉瓦の素材たり得た.なお蝋石は粘土に包まれた状態で産出し,その粘土の色によって蝋石の色も変わるらしい.p.71

三石の耐火煉瓦の刻印には様々なバリエーションがある.三石に限ったことじゃないかも知れないが,缶コーヒーが毎年のように新作が出るような感じで新製品をじゃんじゃん開発したんだろうなあと思う>耐火煉瓦業界.それゆえ耐火煉瓦を建造物の製造年推定に使うのは難しい.メーカーできっちり記録を残してくれていれば別だが,そんな僥倖は多分ないだろう.

追記:『旧大阪府庁舎跡』発掘調査書ではMituisihiと三石耐火を直結していない.他にも「三石」を冠した耐火煉瓦会社はあったから.慎重だなー.

[煉瓦刻印] 三和煉瓦耐火煉瓦

三和煉瓦耐火煉瓦刻印

泉南市鳴滝の三和煉瓦跡地にて.Sanwa Taikaの略か,会社名が三和耐火煉瓦になっていたか,どっちだっけ.「STR」もあったのだから三和耐火煉瓦なのかもしれず.

三和煉瓦耐火煉瓦刻印

その「STR」.泉南市年報によると乾式製造もやってたみたいで,そういうのはバリが残るから区別できるのだそうだ.これと上のはバリがないし,ずいぶん歪んでいるので,手成形なのかも.

画像の説明

井桁で囲まれたバージョン.伊丹市大鹿にて.これにはバリがある。別の会社だったりする可能性もなきにしもあらず……佐藤耐火煉瓦とか佐野耐火煉瓦とかありそうだものな.

耐火煉瓦は赤煉瓦よりも遠くに運ばれやすかった。同じ工業製品でありマスプロダクツであるはずなのに、赤煉瓦は局地的に流通する傾向があり、耐火煉瓦はそれよりも広範囲に運ばれたという印象がある。工場数でいえば赤煉瓦<耐火煉瓦で、結構万遍なくあちこちにあったようなんだけどな。ちょっと不思議だ。

品川白煉瓦の大阪支社は月ヶ瀬だったか伊賀だったかの白土を使って製造するために作られた。難波に。現地ではないのな。耐火煉瓦は工場で使うものだったから、工場が集中していて需用があるような場所で作ったほうが輸送費が節約できたのだろう。

本日のツッコミ(全5件) [ツッコミを入れる]

Before...

_ nagajis [わざわざお越しくださってありがとうございます>kousenさん.ここは自分に宛てたメモ書きのつもりで書いていますから,わかりやすい説明がなくてゴメンナサイです.三和煉瓦の跡地は今年の5月に行ってみ..]

_ kousen [今日、通りがかったので行って来ました。三和煉瓦の耐火煉瓦はS.TとSTRのみで赤煉瓦には刻印は打たなかったようです。おっしゃる通り工場跡は更地になってました^^;もう一つ○にS.Tのバージョンがあ..]

_ nagajis [情報ありがとうございます! 赤煉瓦に打たなかったということは、近辺で見られる三重丸+バッテンの刻印はよその会社のものということですね。納入先がわかっているということは会社から直接納入したということ..]


2014-07-04 この日を編集

[煉瓦刻印] 大十字刻印@琵琶湖疏水

大十字煉瓦刻印@琵琶湖疏水

画像の説明「蹴」の断片や「ソ二九」を採取した場所でこの煉瓦も見つけている。 やや焼過気味な茶色い煉瓦で、非常に大きな十字の刻印が入っている。小口幅の1/2くらいはあるだろうか。似たような十字刻印の断片もあって、それには全形が入っていたから、これも十字とみてよいだろう 。&、焼き色と煉瓦の厚さは第三隧道呑口に使われているものと瓜二つだった。このポータルに使うための特製の焼過煉瓦だったと思われ、その欠片が散っていたからここが作業場だったのではないかと思うのである。

十字の刻印というと岸和田煉瓦のSt.Andrew's crossが連想されるが、ここまで大きなものは見たことがない。それに疎水工事には蹴上の専属工場で作られた煉瓦が供給されていて、民間から購入したという記録もないらしい。とはいえ第一疏水に蹴上事務所以外の煉瓦も使われていることは傍証がある(後述)。これもそのひとつに成り得るかも知れない。第三隧道呑口ポータルと写真の煉瓦はかなりの高確率でイコールで、写真の刻印とキシレンがイコールになるかどうかが断定できない。

まず時間軸を整理してみる。琵琶湖疏水の工事は明治18年に始まり23年4月9日に竣工式を行なった〔Wikip.〕。第三隧道の工事が全終了したのは明治22年3月26日〔琵琶湖疏水要誌p.319〕。ちなみに東口坑門費は1723円11銭8厘。洞内アーチと側壁の煉瓦は別計上で、そちらは19470円16銭4厘だ。

琵琶湖疏水工事事務所の煉瓦工場は明治19年7月21日から稼働し23年10月で終了した〔続・そすいのさんぽみち〕。疏水要誌には明治22年(度?)の生産記録までしか載ってないので実際には20年3月頃には終了していたと思われる。で、第一隧道が明治23年2月13日に完成。これが第一疎水で最後に煉瓦を使った構造物のはずだ。竣工式のあと鴨東運河が作られているがとりあえずこれは置いておく。

第一隧道:M23.2.13〔p.307)〕

第二隧道:M20.12.30〔p317

第三隧道:M22.3.36

第四隧道:不明

第五隧道:M23.1.〔p.368

第六隧道:M21.8.20〔p.368

水路閣:M21.8.30〔p.369〕

ねじりまんぽ:M21.6.

滋賀県庁の小原と相談したのは明治19年9月28日〔琵琶湖疏水 楽百年之夢〕。これ以降に隧道閘門の意匠設計を始めたとされる。

第三隧道が建設されていた頃、岸煉はまだ第一煉瓦会社を名乗っていた(M20~M26)。代表の山岡尹方は士族授産施設の頃から関わっていて、明治15年に新島襄の仲介で洗礼を受け、以降St.Andrew's crossを使っていたという話がある〔岸和田市ホームページ他〕。第一煉瓦会社も十字刻印を用いていた可能性があるわけだ。ただし商標取得は明治36年〔商標大全〕。

第一疎水に蹴上事務所以外の煉瓦が使われていた証拠。安朱川橋にある「カ二」刻印。(安朱川水路橋の竣工年は不明だが該当区間は明治22年12月25日に竣工したことになっている。p.356)

カ二煉瓦刻印 JR和歌山線の脇で見かけた細十字の刻印が岸和田煉瓦のものである可能性は高い。兵庫県の湊川隧道工事に岸和田煉瓦が供給した記録があり〔土木史研究講演集〕、実際に湊川隧道から細十字の刻印が見つかっている〔K先生談&神戸市サイト〕。湊川隧道は明治34年竣工、JR和歌山線(南和鉄道)該当区間は明治29年建設。同じ細刻印の見られる秣倉庫は明治42年以降。

土木研究講演集では煉瓦の納入先に琵琶湖疏水はない。とはいえ坑門費1000円ちょいなら煉瓦代もそれ以下のはずで、そうなると確実にtop30以下だから載ってないはず。

すっごいうろ覚えなのだが、岸和田煉瓦が記した資料で「琵琶湖疏水に煉瓦を供給した」ってのが書かれてあったような気がする……。土木史研究講演集かと思ったが違うようだ。自分の記憶違いで、大阪府庁の間違いだろうか? うんそのような気がしてきた。岸和田煉瓦経歴書だ。

余談:かつて鴨東運河の脇には煉瓦敷の舗道があって、ここには大阪窯業と岸和田煉瓦の煉瓦が使われていたが、明治末の拡張時のものである可能性が高い。第二疏水の時には民間から普通・焼過煉瓦を購入している。


2016-07-04 この日を編集

[煉瓦工場] K=弘栄

弘栄煉瓦刻印

弘栄煉瓦刻印?

ふらっと出かけた先で積年の謎が解けた。岸の社宅はやはり弘栄煉瓦のものだった。K刻印は弘栄のものだとも。Amida Brick Companyはどこいった。

機械成形をやってたというからおそらく戦後の話であるはず。となると社宅周辺に転がっている釘KもしくはKのみが弘栄煉瓦のものと思わる(社宅の基礎にも釘Kが使われとる)。数字がついているという話にはあまり反応されなかったが「煉瓦によって値段が違うからねー」と仰っていたのが気になるぞ。

そのへんもっと突っ込んで聞かねばならぬ。こんど手土産をもって再訪するよろし。今日は何の準備もしていなかったし、何より暑くて死にそうだった。

[煉瓦刻印] K4@宝殿

K4刻印@宝殿

宝殿駅前の交差点の近くにある煉瓦壁はK4。位置的には弘栄と播煉岸工場が近い。最初にK4を見つけたのも岸だった。しかし弘栄=Kだとすると数字付きは何やねん。戦前は現想定のようで、弘栄煉瓦が興った頃か戦後くらいにはKオンリーを使ったか。S7 弘栄煉瓦 → S22 弘栄煉瓦(株) →S28頃廃業。間違えた、岸工場はS16.12. 弘栄煉瓦(株)岸工場 → S38頃廃業だ。

せやねんなー。釘Kは機械成形のに押されてるんだ。

[煉瓦刻印] 三線播煉+ワ+㋩

画像の説明

三線播煉と「ワ」刻印の共使い ㋩

加古川大橋の東のたもと、ニッケ社宅の辺りで上記の共使いを見る。播煉は線描のような細いやつ小さいやつ。ワはポップ体のごとくな丸っこいやつ。㋩(おやこんな機種依存文字があるんか)は以前加古川交通の前あたりで見たやつ。

遺構は国道2号に面した建物の跡。道路に面した一辺は播煉とワ、垂直な辺は㋩ばかりという妙な偏分布をしている。全部を共使いと見て可いなら遅くてもS3以降ということになり㋩=原田商会の可能性が生じてくる。あるいは播陽→播煉別所工場の切り替わりの頃とも考えられなくもないが、あ、そうすると「ヲ」はどないなんねん。播陽の工場主が小田千代蔵だったでしょ。そもそも播陽のあたりでは㋩は見てないんだよ。やっぱ原田煉瓦工場かしらね。

国道2号の加古川橋は1924(大正13)年8月11日開通。その取付き道路の縁にあたる建物なのでそれ以降の建設なのは間違いない。とするとS3以降でも間違いじゃない。


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