nagajisの日不定記。
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書庫から発掘したので記念読書(やらなきゃいけないことがあるのはわかっとるのだ.逃避行動なのだ).何度読んでも素晴らしい作品だと思う.不朽の名作という感を新たにする(これは福島正美氏の名訳に負うところ大と思い).以前とは違うところで涙している自分を発見して「変わったな」と思った.大切にしよう.
昭和60年第17刷,p.276に余計な閉じカッコが一つある.あと「こういう時に調法する」は間違いじゃなかった.調法も重宝も同じ意味.あとページに経年のヤケ・カバー背表紙天角の破れをテープで補修してあるうえに劣化が始まっている.
最後の区間を歩いた.足掛け7年でようやくコンプリート.ここを後回しにしていたのは,ほぼ全線が改修済み、特に後半は長々と市街地歩きが続くとわかっていたからだったのだが、そうして事実その通りだったのだが、むしろそういう状況である道を取り上げることに意味があると思うようになっているいまの自分である。7年間の鍛錬の成果だろう。人の目を引くような遺構なんて放っておいても誰かが行って、幾らでも写真撮ってupして鼻高々される。写して残せないものだからこそ手段を講じなければならぬ。「ただ道が写ってるだけじゃん」とかぬかす野郎にはこちとら用がない(誰がそういったのか名前すら忘れてしまった。あはは)。
朝霧へ降りていくところで思いっきり道を間違えてしまい、1時間ほどロスしたが、そのお陰で神戸線の人身事故に巻き込まれずに済んだ。予定通り神戸市立図書館に行っていたらモロだったろうと思う。ウメチカも少し撮り足せた。最後のシーンを撮り間違えていたのや、三番街の螺旋階段とかを回収。阪神構内はせっかくのチャンスだったのに間違えて北側を行ってしまった。
開いたのは10番出口だ。作中には出てこないが、あの直線的に登っていく階段は いかにも地上への脱出という感じがするし、ゴツい扉と柵とがあって、閉じ込められる可能性を圧力してくる。地上に出た時にスパッと切り替わる感じ(地上にまろび出たという感じ)も、そうなっていることを想像しながらーーーもし出ていたらを想像しつつ読んだらさらに迫真だろうと思った。
プチシャンを通らずにB1にあがるのも実に意味がある。堀さんどこまでリアルなんだ。
適当なカテがないので看板にする。大蔵八幡町の旧西国街道筋で見かけた鏝絵。月に兎の風流に加えてこの立体感がすてき。すでに絵のレベルを超えている。欧米のビルにガーゴイルが座ってるのと根は一緒なんだと思う。日本ではそこまでアピールしない。様式に取り込まれて「あって当たり前」の存在となり目に入っても意識されないようなモノになったものと、もとからさりげなくて、そのくせ作り込んであって、気づいた人が「フフッ」となれるものとでは、後者のほうが日本的だろう。東照宮の眠り猫とか。