nagajisの日不定記。
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ふとした思いつきで残しておいた一冊。岩波新書が、右傾化していく世情に疑義をつきつけるものとして発行されたことを知り、感慨を深くする。この頃の本は明確な矜持をもっていて、世の中も本を通しての知識を求めていた。なんとかして生き残ろうと下衆化していくばかりの今日とは大違い。
読んだことのあるもので最も古いのは宮城音弥の「心理学入門」だったと思う。自分のものの考え方・その考えを行動に移すとき、どうもうまくいかないことが多くなって、自分自身のことがよくわからなくなっていた時期に、吹田図書館の4階書庫の片隅で出会った。読んですっかり解決できたわけではないのだけれども、ヒントみたようなものは得られて、これこそ本を読むということの効能なのだろうと思った記憶がある。以来その4階に入り浸りになって宮城氏の新書を読み尽くした。それが昭和27年発行だったとは知らなかった。それより古いのは、確か14年の赤版を一冊出したことがある気がする。あれは何だったか。まだ売れてないはずだ。
本の知識だけで反射炉を作ってみたり、それを実現するために試行錯誤で耐火煉瓦を作ってみたり(白煉瓦だったか白瓦だったか、そういう訳語が書かれてあるだけという情報量から実現にこぎつけたのだからとんでもないことだと思う)、昔の人の書物から得た情報の処理技術のすごさに唖然とする。工部大学校を卒業してすぐさま建築をなしたりプラントを作ったり、よくできたものだなあと。磁気学の教科書を読んだだけで加速器を作り上げるようなものだ。昔の人はそうするほかなかったのだから必死さも違っただろうと思う。伊藤博文の留学時の一言なんて気障でもジョークでもなく本当の本心から出た言葉のはずだ。
その気分がまだ残っていた頃(昭和20年代〜30年代)には新書のような入門書・解説書が大きな価値を持っていた。翻って今日は、奇抜なタイトルで人の気を引くだけの新書で溢れ返って値崩れしてる。ブログかツイッターで垂れ流してればいいのにと思うような中身の新書ばかり飛ぶように売れる。人が本に求めるものがすっかり変わったのだろう。新書で人生が変わったという人も(某水増し出版社の広告に出てくる実在臭のしない人物はおいといて)いないに違いない。あまりそれを考えるといろいろ虚しくなるのでやめておいたほうがいいな。という切り捨ても宮城氏の新書に教わった気がする。
そうそう、本が「絶対的に偉いもの」じゃなくなったのだ。上から与えられる良情報ではなくて、自分の欲望願望を満たしてくれたり自説(笑)が正しいことを示してくれたり読んで安心したりするための情報が書かれている本が求められているのだった。同じ考えの人間がいることを本の形で知ることで安堵するためだけに買われる本。避けたくなるのはそこに媚び阿る風を感じるからだろう。ふむ。なるほど。