nagajisの日不定記。
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金閣寺。金閣寺を焼かねばならぬ。金策に焼かねばならぬ。柱一本残してはならぬ。焼かねば自分の人生が生きられぬ。そういうお話である。
ふと手にしたこの本を読んでしまっていろいろと後悔している。吃りであることに負い目を感じ空気のような存在でありたいと願う主人公と自分とが重なったりとか破滅の甘美に舌なめずりに思い当たる節があるとか。やがて大事なものに火を放って台無しにするんじゃないかと思ったが案の定だ。いまのご時世、マッチなしでも金閣寺に放火することはできるのだ。
しかし解せなかったのは、主人公にとっての人生とは何だったのか、ということ。女を抱こうとした途端に金閣寺が現れるということは、女=人生、あるいは女ー>結婚ー>子供ー>往生というスキームをば人生だというのだろうか。私はそれが理解できない。よい女性を娶って子を残して孫に囲まれて死ななければ人生でないのか。それ以外の人生は人生として認めてもらえないのか。金閣寺に火を放ってまでして勝ち取らねばならなかったことなのか。「それ以外も人生だ」、と言い切ってしまえばただの自己肯定にしかならないとも思うが、あんまりにステレオタイプでつまらない。そういう愚かな、つまらない人物として三島は描いて見せてくれたのだろうか。
現実がどうあれ、またそれが実現可能かどうかはさておき、いま自分には心からやりたいことがある。外因誘発的アラウンドドリブンな 「やらねばならないこと」ではなく、自分の中から発露した「やりたいこと」がある。それは幸せなことじゃなかろうか。それを可能な限り追求し、あわよくば全うすることが、私にとっての人生であり金閣寺から庇うべき抽象物なのだと思ってみる。
今回こそは14日中に完成させるッ!と息巻いてみたものの案の定な進み具合で呆れている。「梅田地下オデッセイを歩く」は写真不足が次々明るみになりこれで3度目となる梅田徘徊を余儀なくされた。23時になっても人混みの途絶えないミズノ前を撮影するのに苦労したうえラストシーンの最適な構図を見誤ってイマイチなclimb max。あそこはどうやっても無理なんじゃないか。柱が邪魔すぎる。西梅田駅構内から狙っても同じような写真にしかならないだろう。
定点観測は地図を乗せようかどうか思案の段階で置いてある。これも早く片付けとかないと知らないぞ。んで西熊野は全くの手つかずだ。大記事2つは無理かなあと弱音が漏れる午前三時。
学生時代に単行本で読んでいたが引っ越しに際して手放してしまい内容もうろ覚えになってしまったため文庫本を再取得したわけだがちと丈が長い特殊サイズゆえ100均カバーが使えないのはどうでもいい悩みとして脇に置いておくとしてもいやはやこういう面白い本はあまり読むべきじゃねえなあと認識を新たにした。影響されないわけがないじゃないか。
読み直して気づいた。そうか自分は唯野教授に憧れていたのだなと。文学や批評理論の構築がしたかったわけでは決してない。処世の立ち回りを汲々しつつもこなしつつ自分の真にやりたいことを追求している教授のような生き方を是と思っている節がある。とはいえその実生活を支えるにも至らないORJで自涜を続けているにすぎないわけだからなあ。
ふいに
nagajisダメ、ゼッタイ。
などというフレーズが湧いてきて壺に入った。常習性がどうとかいう巫山戯たことをいうつもりはない。あるのは自堕落な義務感とだらしのない習慣だけだ。