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2016-11-17 [長年日記]

[独言] カントを誤飲する

廃道や廃墟、産業遺産を弄び物にすることに(されることに)反感を感じているのは、自分が良いものと信じているものがないがしろにされることに対する感覚敵な反感嫌悪感であり「生理的に受け付けない」というのと同類の無根拠だと思っていたのだが、その行為が道徳的でないからそう感じるのかも知れないと、サンデルせんせのカント解説を読んでいて思ったことだった。

「ある行動が道徳的かどうかは、その行動がもたらす結果ではなく、その行動を起こす意図で決まるという。(略)重要なのは、何らかの不純な動機のためではなく、そうすることが正しいからという理由で正しい行動をとることだ。」(p.146)

カントは人と物との違いを自律性の有無で捉えた(そうだ。以下すべて伝聞形省略)。ビリヤードの球が落下する。これは重力に作用されての落下でありビリヤードの球自身がそう望んだわけではない(他律)。人は自分が定めた法則に従って自律的に行動することができる。自分の意思で行為できる。そこに人の人たる所以があり人を尊敬すべき理由である。

この自律といもの、喉が渇いたので水を飲む、とか、小便したくなったからする、というようなものではない。生理的欲求だとかその時々の思いつきだとか、「自然の命令や社会的な因習ではなく、自分が定めた法則に従って行動すること」(p.143)。してその法則(原則)に基づく行動だけが、その行動に道徳的な価値を与える。子供に対して高い値段をふっかけていたパン屋が悪評が広まるのを恐れてふっかけるのをやめたとする。やめたことは正しいが、その動機は「悪事がバレたらまずい」という私利に基づいていて、道徳的な価値はない。それが間違ったことだという認識のもとふっかけるのをやめることは道徳的に正しい(そもそもふっかけるなちう話やけど)。

てな解説を読んでいて思ったわけだ。廃道だとか遺産だとかを私利私欲のために用いよう−−−その行為で金儲けをしようとか、自分の地位名声を高めようとか−−−という姿を見て取って道徳性の欠如を感じているらしいことを。好奇心の充足、だって本当は傾向性であって人のことは全くもって言えないのであるが。ORJ売っているならなおさらだが、金儲けのためにやってるわけではないことはもう何年も前から言明しているしー(逃げ)。

廃道も道。道は歩かれることによって道たり得るのだから、そのために歩いているのだ、という思いから廃道を歩くこととか、どうだろうな。道を訪ねて道を知りたいから。道を通して過去を見たいから。体感したいから。その体感が思索を深めてくれるので人にも勧めてみたい。そんなところに拠って行動しているつもりでは来た。理性をもって。それがcategolicalに通用する、道徳的に価値のあることだと思うので。

哲人の威厳を借りるつもりもないしそもそも曲解していると思うので誤飲だと明記しておくが、それよりも私のようなヌルポな人間が感じるモヤモヤとしたことを300年も前にもっと的確な言葉で叙してくられているというのは人間誰しもに共通する不変の真理を言い当てているからであってだからこそカントが偉大な哲学者なのだとされる所以なのに違いない。


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