nagajisの日不定記。
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サンデルせんせの「これからの正義の話をしよう」を読んでいる。完全に理解できてるとは思えないし今更感たっぷりなので[読]タグつけまいとしたのだが読んでる事実は確かだしなと思い直して[読]に入れた。
世の中には様々な主張があり其々の立場から物事の正否を論じている。どれが絶対的に正しいということは言えない。主張の正否があるわけではない。そこに正否とか優劣とかを見出そうとしてしまうのが(絶対的な正しい事があると思ってしまうことが)間違い。主張と主張が小競り合って、優勢になったり劣勢になったりして、そこからまた新しい、より多くに受け入れられる主張が生まれたりする。それを果てしなく繰り返している世界。そこで生き残る?ために必要なことは結局のところ自分自身の確固たる意見、揺るがない信念、あの人はああ言っているが自分はそうは思わないと打算なく言えること、なんだろうなと思った。だからよその国では自己を主張することというか旗色を鮮明ならしめること立場を主張することが確立してるんだろう。単に主張するのではくてその相剋に意味があることを知っているんだろう。
私たちはそこが弱い。例えばテレビの言っていることを鵜呑みにすること。テレビでやってたから正しいのだと思い、こぞってバナナを買ったりキムチに走ったりすること。メディアで取り上げられたからといって有難がること。本に書かれていることを毫も誤りのないことと信じて疑わないこと。そういう傾向を感じる。優劣だけで判断したり、断じた発言・文章に付和雷同する傾向。そういう意見・ものの見方があると知って自分の考えと擦り合わせてみたり一致する点や相違する点を考えてみたり論を戦わせたりすることが真に必要なのではないか、というのを今更のように考えている。国会の論戦を見て、不毛な茶番劇をやっていると感じるのではなく、そうやっていることの意味というか、何故不毛と思うのか、だったらどうすればよいかを考えてみる、そんなふうな習慣になっていない。だからますます茶番に見える悪循環。メディアは答えを提示しているのではくあくまで事象の一側面を伝えているに過ぎず、それをどう吟味して摂取するのか、情報は素材として与えられているのだということをもっと若い頃から知っておくべきだったと思う。小学校で教えたら……と書きそうになってそれはさすがに責任逃れだなと思ったのでやめる。
もし自分が本当に廃道を流行らそうと思うのなら、本当に大事なものなのだと思っているのなら、そういう論を張ればよいわけなのだが、それが結局優劣判断されるだけに終わるから(終わるだろうという予想があるから)虚しくなってできないのだろうな。やってないうちから言うばかりでただの負け犬の遠吠えなのだが。
そもそも流行らそうという気はないのだった。自分が正しいと思うことを・よいと思うことをし続けていたい、追求してみたいと思ってやっている。大事だとは思うがそれを人に押し付けてまで主張したくはない。同意を得るためにやってはいけない。そう考えることが間違っているのかも知れないし自己正当化でもあるのかも知れぬがそこはどうしても譲れない。譲り方を知らない。
てな感じに内容とはまったく関係のないことが読後感(読中感か)としてある。あと何年かしてここを読み返した時どう感じるだろう。