nagajisの日不定記。
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岐阜は数日前に終わった。今は愛知にかかっている。断続的に5日ほど消費。愛知を半分ほど終えたところでA3を1枚半消費しそうな勢いなので、完成の暁には愛知だけで3枚超えしそうである。1度顔を出すだけの工場とか4、5年操業して消えていく工場が多く、その殆どが耐火煉瓦工場という状態で、果たしてこの表が役に立つんだろうかという疑念に苛まれる。やる前からわかってたことではあるんだけどな。
普段は?陶器製造業で、ちょっと耐火煉瓦も作ってみた、的な工場が散見されるのも疑念を強くする。兼業耐火煉瓦業が多いのは中部特有の傾向のようで、数年で廃業した工場と副業的製造工場を区別することは不可能だ。後方には外挿できるーーー過去から現在に向かって工場通覧をめくっていったため、別のもの作り始めたなと気づくことはできるが、出現するより前の製造品を知ることはできない。煉瓦以外の全工場の名称を頭に入れておかなければならず、それはまずもって無理・無駄・無策だ。
中小の耐火煉瓦工場が多いのは原料粘土が近場で入手できたからであることは疑う余地がない。瀬戸や多治見の陶土が利用できたからに違いない。大阪だと遠くから原料を取り寄せねばならず(岡山とか島ヶ原とか大陸とか)それだけでも大きな不利であった。資本があって輸送費にカネをかけることができ、大量に作り大量に売るルートを確立しているような大会社じゃないとやっていけない。原料が安くで手に入れば焼成は陶器焼き窯で充分間に合った。名古屋その他の大量消費地も近い。
数年で消えていく工場の刻印が判明することはまずないだろうが、在ったという事実は消せないのだし、そういう工場にも通覧に現れることのないドラマがあるに違いないと思う。社会の一構成員として矜を正して始めた仕事、明るい未来を描いて始めた一世一代の大事業であったかも知れないし、暖簾分けでもしたのだろうか、同じ番地で同じ苗字の人物が異なる名称の工場を営んでいた例もある。線の数だけ人生があったのだと思うと蔑ろにすることができない。
似たような名称の工場、工場主があちこちに出現して困る。大和耐火煉瓦とか加藤氏とか。関連があるのかそうでないのか、いまの時点では判断材料を持ち合わせない。同じ番地で違う名称の工場を電話番号一致を根拠につなぎ合わせたりもしている。
この表が完璧なものになる日は来るのだろうか。多分来ない。後世に託すしかない。と序破急で書くことが染み付くほどに最近の作業は単調だ。うむ遺憾なことだ。
NHKラジオで「意識高い系と呼ばないで」というテーマをやっている。そう呼ばれると傷つくのだそうだ。3つのことを思う。
意識高い系と言われて傷つく側は別枠扱いされること・壁をつくられることが嫌だという。なぜそれが嫌なのか。自分がそれが正しいと思うのだったら貫き通せばいい。そういうのが受け入れられる世界へゆけばいい。アメーバの触手、尖った先端がなければ、文化文明は広がらない。日本人的同族意識を誤った方向に向けている愚者である。
意識高い系といって足を引っ張る側は要するに日本人的陰湿さがある。まるで自分が意識標準であるかのような物言い。「一般的には」とか「普通は」とかいう言葉を乱発して、その基準が自分だからタチが悪い。そんな人間が日本の基準だから社会水準が下がるのだ。
昔は意識高いというのが褒め言葉であったという。それが違うように使われるようになった。それが悪と。本当だろうか。言葉は変わるのが普通じゃないのか。敗戦を信じなかった「勝ち組」が人生における成功者の意に使われるようになった、のような例はいくつもあるだろう。
意識ニアイコール自分の理想像・目標に高いも低いもありゃしない。そうありたいという願い、理想像に対する自信確信、が強いか弱いか。「いいね」で裏付けされなければ崩壊するような脆い意識なら捨ててしまえ。