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2017-07-25 [長年日記]

[独言] かいい

かいいとものをかくきがおこらない。しつれい。かけば障るしかかなければ障るしとかくこの世はいきづらい。

昨日より抗ヒスタミン剤を投与され痒みは和らいだが朽ちた椿の花びらのような発疹はまだつづいている。しかしこのカタチの発疹になると終わりはちかいはずだ。

[煉瓦][煉瓦工場][] 鹿峰社、和歌山煉化石、その他

和歌山県の統計書にあたっていないことに気づき古いのをめくってみたら明治21年から24年頃まで和歌山市街に和歌山煉化製造所なるものが存在していたことを知った。2つのことにつながっていく。一つは池田隧道の煉瓦が「和歌山から職人を招いて」焼いたということに。池田隧道はM19なのでそれ以前から和歌山に煉瓦製造者がいたはず、あるいは爾後煉瓦製造が行なわれていてもおかしくなかったのだが、工場通覧商工銘鑑から確認することができなかった。もう一つは由良要塞の建設に。M21-24というと工事が始まって生石山の初期砲台ができたころ。そして菱Wの存在。

同様に、奈良県のも見てないなと思い出して当たってみると、こちらにも鹿峰社という工場を発見した。しかも三条通の喫近に。M21-25という操業年も示唆的。大阪鉄道が関西本線奈良~天王寺間を建設した時期に一致する。そして奈良駅の初代転車台、亀の瀬隧道、芝山隧道に特異的な煉瓦刻印「アルファベット」が見つかっている。M28に開通?した高田方面の線には堺煉瓦カナ入りが見つかっていて、それは亀の瀬辺りが完成しないことには持ち込めなかった(峠越えでない限りは)。しかしそうすると桜ノ宮の干潟や大坂城本丸でアルファベット刻印煉瓦が採取されていることに矛盾する。こいつらはどう考えても大阪鉄道の大阪東縁の線ができた頃=M28の話になる。なので鹿峰社の詳細を知らねばと思い奈良県立図書情報館にレファレンスをしたが返事はない。

東雲新聞の明治21年代を読み始めて宮崎商会から成った堺煉化石会社(以下堺煉化石)の営業成績広告等をみつける。明治21年3月頃に何度か収支広告が載っていて、それに加えて本社?を大阪市西区堀江橋だったかに移すという広告もあった。それ以外には関西煉化石が舞子に移った記事と高崎砲台の災害復旧に和歌山から職人を招く云々の話。東雲新聞を完読すればいろいろわかる気がする。あと読むべきは大阪日日ではなく大阪日報<毎索。

宮崎商会→堺煉化石の後続会社を同じ社章を掲げていた三栄社と見ていたのだが、M21に収支広告があるということはこの頃まだ堺に在ったということであり、そのルートは消去せざるを得ない。かわりに浮上してきたのが堺附洲煉瓦。堺附洲のM28頃の取締役代表野田吉兵衛が日本煉瓦代表取締役→後に社長、そして明治45年頃日本煉瓦の取締役宮崎弥三郎→大正6年より社長、この宮崎弥三郎が昭和7年頃も宮崎商会を経営(http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10086961&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA)。宮崎家はもともと江戸時代から鋳物製造・鉱物業を営む旧家。昭和の代の弥三郎は先代の弥三郎から名を継いだ。明治5年生まれ、M39家督継承。この昭和の宮崎商会と堺煉化石の前身の宮崎商会が同じで(宮崎商会が煉瓦を取り扱っていて煉瓦製造部だけ独立したのが堺煉化石)、それが堺附洲煉瓦となり日本煉瓦となったという流れが成立しないでもない。

しかし堺附洲煉瓦と日本煉瓦の渡し船たる野田吉兵衛が逆にあやうくなってきた。野田吉兵衛は当時関西地方に軸を置いて活躍した実業家で30近い会社の役員になっているような人物であった(鈴木恒夫、小早川洋一「明治期におけるネットワーク型企業家グループの研究」(『学習院大学 経済論集』第43巻第2号(2006年7月))。だから野田が代表取締役だからといって堺附洲煉瓦から日本煉瓦と移転改名した証拠にはならない。単に堺附洲煉瓦解散→新しく興った日本煉瓦に乗り換えただけ、と取れなくもないからだ。堺附洲煉瓦の役員と日本煉瓦の初期の役員の間にはほとんど関連が見えない。因む、野田吉兵衛は大阪鉄道の役員であり関西鉄道の株主であり河陽鉄道の専務取締役であり第三十四国立銀行、大阪電灯、天満紡績、大東セメント、日本綿花会社、大阪土木会社、大阪石油、大阪時計製造、日本貯蓄銀行、日本製陶、東華紡績、大阪再綿会社、明治炭鉱、日本煉瓦会社等の設立に関わっている。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777608/117

そんなだから、社長とか取締役が誰かということに拘泥すると無駄足になるかも知れない。実業家にとっては別に煉瓦会社でなくても良かっただろうとは思うけれども、煉瓦会社を有していると他の会社の工場の建設とか線路敷設とかに便だったろうとは思う。試みに明治半ばの工場の工場主の名で検索すると

和田半兵衛(関西煉化石)大阪鉄道常議員・株主、爾後どっかの紡績会社(『日本煉瓦史』)

太田貞雄(堺煉瓦)浪速紡績頭取、南海鉄道株主

磯野良吉(大阪窯業)大阪窯業大阪舎密梅津製紙各社長にして浪速紡績監査役、井笠鉄道取締役たる外に伊豆縄地金山福井竹田銅山、日立諏訪銅山等諸鉱山を有し又曾て大阪株式取引所及堂島米穀取引所重役たりし事あり(from 神戸大学新聞記事アーカイブ)

金納源十郎(岸和田煉瓦)関西鉄道株主

浮田桂造(日本煉瓦監査役)大阪鉄道役員(解散時)

てなもんで別にその会社だけを有していたわけではなく要するに煉瓦工場も投機対象みたいなものでしかなかった。鉄道会社が多いのは気のせい。それを中心に見ているだけだから。

(今城光英「私設鉄道経営者・技術者一覧」(『経営論集』2, 2001年8月)

ここで和田半兵衛と関西鉄道のつながりがあったら面白かろうが第三回・第四回の株主表には出てこない。そのくせ岸和田煉瓦の金納とか堺附洲の野田吉兵衛とか出資があんのよな。鹿峰社の関係者として唯一判明している平松甚平も大阪鉄道との関わりを見つけられていない。平松はM10頃下三条町の副区長で鹿峰社も下三条町(角振新屋町)にあった。

勢陽組関連は鈴鹿市のみ返事を頂く。空振り。市史はチェックしているが勢陽組の勢の字も出てこなかった。四日市の発信社は耐火煉瓦を製造していたらしい(「四日市史」だったっけ。発信社所在の地方村史)。「汐留遺跡IV」は原文にあたることができて要するに用途不明建設年不明の土穴のひとつが煉瓦捨場のごとくになっていてその中に紛れていたのが発掘されたのだった。一応新橋駅の構内であることは確かだが最初期の遺構ではない。明治19年以降のもの。汐留遺跡からは愛知三重の煉瓦工場の赤煉瓦も見つかっている。西はそれが限りなようである(除く耐火煉瓦)。


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