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2018-10-29 [長年日記]

[独言][煉瓦刻印] 丸丹マークと筋の関係

画像の説明

創作イタリアン丹治さんはずいぶん繁盛してはるようで、予約なしで行ってしまった私はいつ空くともわからない空き席を待つ羽目になった(そりゃそうだ、ジャストお昼時に飛び込みで行くほうが悪いのだよ)。その待ち時間の間に例の透かし積みを眺めていて面白いことを思いついた。刻印の向きと筋との位置関係をこの壁で確認できるんじゃないかと。

関西地方の手成形煉瓦には平の一方に顕著な傷がついている。一方の長手の縁から平内側に向かって数ミリ~1cmほど入ったところに長手に沿う傷がある。煉瓦を製造する際の作業痕と考えられていて、その成因にはいろんな説があるけれども、決定的なものがない。高々100年前の人の仕業であるのにどうやって作っていたかも不明になっているわけで、どうにかしてこの傷のつく理由を知りたいと常々考えている。

ありがたいことに?丸丹マークは天地がある。「丹」の字が正しく読める向きが、このマークを打刻した際に煉瓦が置かれていた向きであるはず。マークの向きが作業配置を記録しているともいえる。好き好んで逆さまに押したり横向きに押したりすることはまああるまい(よほど退屈して「違うことやったろ」とか思わん限り)。

このマークと筋の位置関係を確認したら、筋の成因についてなんかわかるんやないかと、そう思ったわけである。ついでに丸丹は裏表に押されるタイプなので必ず筋の側に刻印があるという利点もある。

丸丹マークが小口前(縦長配置で正しく読める向き)で押される場合は、マークの右側か左側かに筋がくることになる。左側を「|丹」、右側を「丹|」としよう(写真の煉瓦の場合は「|丹」)。長手前配置の場合は上か下かなので「 ̄丹」「_丹」とでもしとく。それで表の透かし積み煉瓦を端々まで確認した結果、明らかに筋が確認できたものだけで、

|丹:21個
丹|:19個
 ̄丹:4個
_丹:0個

という結果になった。まず「_丹」が全くなく長手前で押される場合は必ず筋が上になっている(筋が上になった配置の煉瓦に打刻されている)のが興味深い。そうして「 ̄丹」よりも「|丹」「丹|」のほうが多く、右左はほとんど同じくらいの数だというのも意外。どっちか一方しかなくても良さそうなのだけれど。煉瓦造りは流れ作業だったはずだから工場内で固定のやり方があったはずだし……。これはおそらく右利き左利きの反映ではないだろう。どちらも同じくらいの数だから。

煉瓦の表裏でマークの向きがどうなっているかも確認してみた。「|丹」や「丹|」の場合は裏表で刻印の向きが同じだった。「 ̄丹」は必ず逆になっている。長手軸にくるっと回すと刻印が正対するように押されている。長手を軸にしてひっくり返して打刻したことの証左だ。確かにそのほうがひっくり返しやすかろう、なにしろ2kgくらいある生乾きの煉瓦なのだから、必要最小限の移動回転で済む向きにひっくり返す方向に作業は洗練されていくはずだ。他社の刻印も長手前の場合は長手軸で回転させて打刻したものが多いような印象がある。五稜星なんかは長手前で、しかし筋側の刻印は筋を下にして置いた時に正対する向きだった。

以上の結果から勝手な想像をしてみた。播煉で伺った話では、前に粘土を詰めるための作業台、左手に台に直角に取り板を置いていたそうだ。作業台の上で型枠に詰めた粘土を型枠ごと持ち上げて回れ左して取り板に取った。幅約30cm、長さ約1mの取り板に4個から5個おナマをとって、それを取り板ごと一次乾燥場へ運んだ(天日干しする前に室内で乾燥させる場所があって、そこで一度ひっくり返して乾かしていた。取り板に取った際に下になっていた面も乾燥させ、天日干しで積み上げても型崩れしない程度に乾かしたわけである)。播煉では一次乾燥場でひっくり返す際に打刻したそうだが、丹治ではどうだったろう。

ふむ。「|丹」「丹|」「 ̄丹」が混在しているということは、成形時に押したものとは考えにくいちうことになる。成形者が型枠に詰めた直後に押していたら---粘土詰めてその場で打刻してという流れであったら例の筋との位置関係が単一になるだろう。刻印が押されるタイミングと筋がつくタイミングが同じ工程内であれば、丸丹マークが縦だったり横だったりはしないのではないか。(←は木枠の向きに好みがあったといことで説明できんこともないだろうけど。木枠を長手前に置いて粘土を詰めるのか小口前で粘土を詰めるのか二通りはあり得るが、播煉の方は長手前にしないと土を投げ込むのがうまくいかないといっていたし、確かにそうだと思うので、基本的にはみな同じようにやってたんじゃないかとは思う。少なくとも同じ工場内ではどちらか一方、流儀があったんじゃなかろうか)

筋が成形の時につくものだとして、ここで取り板が「左もしくは右」にあって、取り板の上で打刻したのだとしたら、「|丹」「丹|」が同じ程度の数できるかも知れない。例えば取り板を置く台が隣の作業者と供用になっていて、作業者の位置によっては回れ左だったり回れ右だったりすると。あ、そうすると粘土の山とか取り砂とかも共用できるな。こんなかんじで。

┌───────────────────────┐○:作業者
│  粘土    粘土    粘土    粘土  │
│  粘土    粘土    粘土    粘土  │
├┬───┬┬┬───┬┬┬───┬┬┬───┬┤
││○水○│││○水○│││○水○│││○水○││←取り板
└┘ ・ └┴┘ ・ └┴┘ ・ └┴┘ ・ └┘
   砂     砂     砂     砂

じゃあ「 ̄丹」が存在するのは何でなんだぜ? と考えた時に「|丹」または「|丹」と「 ̄丹」の比率がだいたい4:1だということに気づいた。取り板には5個くらい取ったというから、そのうちの1つだけ長手前で打刻した(その向きでの作業のほうが楽だった)としたら辻褄が合いやしないか。

┌───────────────────────┐○:作業者
│  粘土    粘土    粘土    粘土  │
│  粘土    粘土    粘土    粘土  │
├┬───┬┬┬───┬┬┬───┬┬┬───┬┤
││ 水○│││○水○│││○水○│││○水○││←取り板
└┘ ・ └┴┘ ・ └┴┘ ・ └┴┘ ・ └┘
○← 砂     砂     砂     砂

のいちばんひだりの作業者みたく。その向きでの打刻が次の作業に繋がりやすい向きだったのでこの側から打刻したと。

以上は成形担当が刻印を押すことを想定した場合だけれども、丹治煉瓦でも播煉同様一次乾燥のときに打刻したのだとすればどうだろう。最後の一個だけ長手前に押す向きで作業するのが楽だというひっくり返し方=長手軸でひっくり返す作業をしたのだとすれば、最後の一個は自然その向きから作業するほうが楽なんではないか。下図白丸の位置から長手軸に回転させようとするとかなり身を乗り出して作業せねばならない。そうでなくてもどちらかの手を長く差し出して作業せにゃならんのでそのうち疲れる。●の位置からだと同じ程度に手を伸ばして同じような力の入れ方で作業できるだろう。

 ┌──────────┐
 │┌┐┌┐┌┐┌┐┌┐│
           │ ●→│││││││││││
 │└┘└┘└┘└┘└┘│
   └───↑─↑─↑─↑┘
    ○ ○ ○ ○ 

ただこういう位置に立って作業できたかどうかは謎。棚から取り板ごと取り出して作業台か何かの上に移さないとこの立ち位置には立てないだろう。

取り板に取ったおナマの筋は、この時点ではすべて向きが揃っているはずで、それに対してどの位置から打刻するかによって小口前だったり長手前だったりするんではなかろうか。そうでなくて傷も一次乾燥場でつくんだったとしたら? それだと「|丹」「丹|」が同じ程度あること&「_丹」がないことを説明できないか。板のどちらがわから作業しても、その作業の手順が同じである限り同じものができあがりそうだ。

てなことを調べ、考え終えてもまだ空き席が生じなかったくらいに丹治さんは賑わっている。行くんだったら予め予約しとくべき。うん。

[独言] 御礼

てなことを書こうと考えながら仕事をしていると電話がかかってきた。丹治煉瓦の建物をリノベーションされた設計事務所の方からだった(泉大津越智嗣夫建築研究室さん)。レストランのシェフさんに厚かましくもお願いしていたワタリがこうも早く繋がろうとは思っていなかったのでビックリした。越智さんによればやはり建築年代は厳密にはわかっていないとのこと。堺市の教育委員会さんもずいぶん調べはったそうなので、それでもわからないということは本当にわからないのに違いない。先に住まわれていた方が住居として使用する際に手が加えられていたけれども、基本的な構造はほぼ当時のものと思われ(建具とかレリーフとか)、現在の形に改装するにあたってもできるだけ手をつけないよう&原型を保つよう苦心されたそうである。確かに内部の壁はわずかな鉄骨で効率的に補強してはる。考えてみればあの建物は煉瓦製の四角い箱でしかない(内部に間仕切りになるような構造がないのだ)からなあ。そうそう、リノベの際には遊離煉瓦は全く出てこなかったし、補強も最小限な加工でとどめたので、外面から確認できる刻印以外は見つかっていないとのことだった。そんなこんなの重要情報を賜ったのであった。

黄色矢印で示した位置には以前は別の建屋がくっついていたという(確かに壁にその屋根の形が残っている)。該煉瓦の辺りもその時に入替えられた可能性もないわけではない。ただその上の壁の煉瓦と本体建屋の壁の煉瓦は同じなので同時に作られたようでもあるし、ここだけ整形でないのは表から見えない部分だからかも知れぬ(建物本体も内壁側は通常仕上げの煉瓦だった)。このへんはもう一度よく観察してみないといかんな。

むしろ「丸丹」マークを使用し始めたのが「〓」マークより後だったとしたらどうだろう? 丸丹マークを明治時代の社章だと考えていたのはあの建物が明治30年頃建設されたという通説?に従ってそう考えていただけで、私自身は他の明治時代の建造物に丸丹マークを検出したことはないのだった(「〓」マークも年代が確定している構造物で見たことがないな、そういえば。箕面の桜井住宅地(M44分譲開始)で「〓」を見ているけれども溝だから確証は持てない) 。

↑の心配は杞憂。神戸臨港線の橋台(M40竣工)で丸丹が見つかっておる(神戸臨港線南本町架道橋範囲確認調査報告書)。

画像の説明「〓」マークは京阪神商工録(T7刊)に丹治煉瓦合資会社の社章として掲げられている。だとすると株式会社~合資会社の端境期、明治末から大正初期にかけてということになるのかも知れぬ。あるいは該当部分のみ大正期の後補と。そう考えるほうが精神衛生上よろしいのかも知れぬ。

ともあれ、お忙しい中手を止めて解説をしてくださったうえ、越智さんへご連絡してくださった上野シェフ、どこの馬の骨ともわからない私にご連絡下さった越智さんには、多大なる感謝を申し上げたい。(ここを見て下さったと言われてしまったのでビクビクしながら書いている私。なんとも小心者である)


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