nagajisの日不定記。
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久しぶりにアルコールを摂取したので中途半端な時間に目覚めて小痛い頭を持て余している。アルコールを摂取するとすぐに眠くなるので寝るためにしか飲まない自分には適量オーバーのアルコールはちっともうれしくないものである。
アルコールを摂取すると頭が働かなくなるのもいやだ。飲んでる最中とか帰宅中とかに何かいろいろ考えていた気がするのだが寝起きのいま思い出せることはどうでもいい韜晦ばかりである。アルコールで幸せになれる人は幸せだと思う。
覚えきれないくらいに峠に登って心を寄せてきたけれども、その峠が生きていた頃ーーー実際に使われていた頃に人々が峠に対して抱いていた思いを正確に思い描くことができない。ある程度の想像はできても実感としてそれを追体験することができない。障壁として立ちはだかる邪魔者なのか。外界と通じ生活物資を入手するためのライフラインなのか。可能ならどこまでも低したい無くしたいと思われていたものなのか、それとも「越える」という行為に何か特別な感情を抱かされるものだったのか。うちからコンビニに行く道のような日常生活の当たり前のシーンだったのか。どれも当たっていそうだし100%のすべてでないことはわかりきっている。峠によっても違うだろうし。近寄れば近寄ろうとするほど見定めが利かなくなるのはハイゼンベルクの不確定性原理みたいなものかも知れぬ。
峠を利用して生きていた人々の峠に対する感情がもし一人ひとり異なるものであったとしたら、どれか一つをわざわざ書いて抽き出してみても詮ないことに違いなく、だったら全く無関係な自分の個人的な感想を述べたって何ら差し障りはなさそうである。自分だってその峠を利用した一人である以上それくらいの発言権は与えられて良い。けれども頭はそれじゃあダメだと言っている。たった一度の峠越えのイメージと生活のために毎日越えねばならなかった人とでは思いの丈が異なろう。上っ面をなでただけで、表面観察だけでさも本質を突いたような発言をする愚を免れない。諸外国の風習を見慣れないものだからというただその一点によって嘲笑したり誤解したりするのと同じで、無知蒙昧の無自覚無責任な感想と呼ぶのすら憚られるようなのを垂れ流すだけになるのではないかと恐れる。だからといって本質を見抜けたかどうかなんて、誰にも判断できないのだ。例えばの話、深田久弥が書き残した山の話が100%正しいとは思えないし思いたくもない。s/深田久弥/誰か別の人/でも同様。むろんそこには自分自身も入っている。自分のカンソーほど当てにならないものはない。
それが日記とかだったら自分のカンソーで構わないんだろうけれど、そのつもりでは書いていないのだから、多少は芯に迫ったものにしなければならない。そうは思う。しかしそれが一個人に可能なことなのかどうか? 昔はそんへんに目をつぶってそれっぽく書くことにばかりあくせくしていたが、経験を重ねれば重ねるほど、齢を重ねるほどに、それが姑息でしかないことを思い知らされ、謙虚にならざるを得ない。その態度が正しいかどうかもわからないほど。わかるのはその方向へ進んだら必ず道に迷うだろうということだけだ。結局のところ世の中は耳障りのいいことばとか上手い説明だとか発言者の社会的権威だとかに影響されて納得するかしないかする。深田久弥だからその言葉を信じるという人が一定数以上いる。信じる他無い、というべきか。よほどその道に精通しているかその道で暮らした人でないと反駁はできなかろう。
だとすると「私が」書くことには何らの価値もない。
そう気づいてからはかえって気が楽になった。行き交った多くの人生の総体が峠であり道であるなら、そこにもう一個の個人の思いを付け足したところで、道の本質には影響しないはずだ。或る物好きの感想がひとつ加わるだけだ。10^6に1を加えるような誤差である。而してそんな個人の思いの積み重ねの総体が道なんだろうと思う。人口地形とか土木構造物とかと把握するべきものではなく思想の総体として。形を伴った集合的無意識として。
可能なら加える1が不純な夾雑物とならないよう、心がけたい。
>アルコールで幸せになれる人は幸せだと思う。 <br><br>呼ばれた気がした・w・<br>幸せになるっていうか習慣ですね。肝硬変まっしぐらな勢いで。
お、ちょうどよい、新住所おしえてけろ~<br>バックナンバーCD送ったら宛先不明で返送されてきたようです。