nagajisの日不定記。
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ぼくは人参となってただただ業務をこなすだけである。
ある程度形になったのでpdf化にかかる。かなりたくさん書いたつもりの導入が20ページくらいに収まりそうな塩梅で、あれ、たったこれだけかよ、と思ってしまう。そりゃそうか……写真がほとんどないんだものな。あれとかこれとか入れておこうか。どうせ後半で出すことになるのだろうけど、そのために秘蔵しておくほどのものでもないだろう。何なら図書館に行ってゲフンゲフンしたっていいんだぜ。
なんでだろうね。他府県のは黄色のが多いんだけど。
そういやキロポストの設置とか形状とかを定めた告示ってあるんだろうか。国道だとシールを貼った三角柱をよく見る。何故か国道42号には多い印象がある。皇居の二重橋の広場にもなんかあった気がするなあ。
明治44年頃に郡上や白鳥や大野の辺りを歩いてはるのだった。向小駄良の子牛を見やれ、は覚えていたけれども道筋が思い出せぬで諦めていたが「美濃越前往来」だったか「越前美濃往来」だったかというタイトル。文庫版全集第3巻に収録。
残念ながら油坂峠は越えていない。郡上から白鳥に入って桧峠で石徹白に入っている。そうして大野に出て。その次も谷汲から蝿帽子峠越えて今庄へ行っている。そうか、製糸工場に出た若い娘が肺病を患って帰郷して青白い生活をしているという話が奥越前の辺りなんだ。
残念ながらその辺のことを書く隙がなかった。無理に入れ込んでも無理が目立つだけ。翁が尾崎弥右衛門のことを知りたがっていたという話も同上。いまは適当な評伝があって手軽に?見られてありがたいことだ。精錬社と面谷鉱山は今一度行って調べてみたいくらいに話題が豊富。モノは残ってないっぽいけど。面谷鉱山では早くから鉱滓煉瓦を作っていたから集落跡のアレがそうなんだろうと思う。再履修兼ねていつかまた行ってみるかな。
うーん、やっぱり畢竟は自身の経験のための旅なのであって、食った飯をインスタに上げるのとか、写真をtweetするための旅と、如何程も変わらなんだ。人の旅にケチつける分、ヨリ下衆いだけではないか>nagajis。人はなんで旅をするんだろう。旅に出たくなるんだろう。その思い出を語ったり写したりしたくなるのはなんでなんだろう。いずれ消えてなくなる我が身のために研鑽を積んでも無意味じゃないのかね。遺して何になるのだね。そういうのはもっと適任な人に任せたほうがいいんじゃないのか。素人が関わったって食い散らかしてわけわかんなくするだけじゃないのかね>おれ。すでに随分食い散らかしているので今は反省の気分のほうが強い。
近いうちにリストをアップデートしてそれをお渡ししたほうがはええんじゃねえかと思ったりもしたが、そうだった、集成2018を加除したほうがわかりやすいだろう。ものの写真がないと判断つかないだろう。関西だけにするのかな、それとも全国集められるだけ集めるのだろうか。会場が関西だから関西だけでも十分だと思うけれど。
東京行った時にT,Bとか日本煉瓦とか回収しとけばなあ……と一瞬だけ思った。これ以上煉瓦を増やすなと。他エリアに手を出すとほんとに収拾つかなくなるし第一ただのコレクターに堕ちてしまうではないか。明日死んでも人様にあまり迷惑がかからないようにしておかねばならぬ。
集成2018から何か増えたっけ?桂川一式?入れた気がするな。湯浅に行った時あたりから?丸亀から? むしろ記述の訂正が多くて大変そうだ。
続きをやろうと張り切って帰宅するがまずは腹ごしらえだ腹が減っては戦はできぬというわけで晩飯を食えば途端に眠くなってしまいふあふあと生欠伸をしながら書く破目に陥ってちっとも進まない。同じことをもう1000回以上もやっている。お前馬鹿だろ。
そういう時は風呂に入るとか[禁則事項です]とかでリセットすることができる場合がある。両方共試してみたら多少は眠気を減じることができた。そうして頑張って進めた。残り2/5といったところ。うんやっぱり短くなりそうだ。苦労とページ数は比例しない。
この期に及んで隧道の竣工年を探り当てた。鷹を括って当たっていなかった県史のほうにちゃっかり載っていたのだ。見つかってよかった。M26からの五か年継続土木事業の時ではなくM30に単独でと知り、それでああなるほどと納得した。最初は桟橋かなんかで迂回していたのがM28の大雨で破損し同じ時に流失した琴洞橋の復旧工事と合わせて施行されてそれで琴洞橋の開通記念式が美濃道の完成記念式典っぽく実施されたんだろう。といった具合に短くするほうにはいくらでも短く書ける。これで必要十分に思える。必要以上に引き伸ばし引き伸ばし書くのは永久にできまい。そうして上の気付きはもうすでに入れ込むスペースがない。
道路の改修史はまこと不思議なものである。改修が行なわれた結果生まれた道は眼前の事実として存在しているにも関わらず、いざその改修の年月を調べようとすると五里霧中の向こうにあってはっきり認識することができない。その霧の中を探り探りしていけば多少記録が出てくるけれども甲の記録と乙の記録が一致しないなんていうことがザラで大枠すら合ってないことさえある。第○条道路とかいう専門用語がさも一般常識のような扱いで使われていたりする。それをそういうものとして併列記するとか知ったつもりで丸投げ転記してもいいんだろうけどそれじゃあ俺の役目がない。甲乙丙丁天地人の資料をすり合わせて用語を解読して背景まで迫らないと甲斐がない。そこまでして初めて道が経験してきた歴史が明らかにできたと言えるだろうし自分自身の理解も深まるというものだ。そういうのをしてきたお陰で今回も随分突っ込んだ改修史が回収できたと思う。但し今回はそれで力を使い果たした感がある。県議会史まで踏み込んでいたらもっと面白い歴史に出会えただろう。美濃街道はそこまでできる格好のケースであったのだということにpdf作成段階になって気づいてしまったのは愚かである。