nagajisの日不定記。
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一昨日は大日本商工録を入れ込んだところで力尽きた。昨日は北海道と東北、越三件を形にしたところで地震がきた。半トカトントンとなって関東甲信は進まず。かわりに既知刻印の図を書いて茶を濁す。これ作るのも結構手間なんだ。
結局余白を多くする方向で進めている。そのほうがあとで困らないだろうと思う。もし全国諸会社役員録とか帝国商工信用録とかも手えつけるんだったら増える方向にしか向かわないものな。関東も栃木・群、埼玉、東京×5、千葉・茨木、神奈川、といった構成になりそう。静岡も独立1枚か。
はよ片付けてらくになりてえなあ。
出掛けに赤白帽が落ちているのを発見し、庇を縦にして赤白半分にかぶるやつを思い出したのだけれども、小学生あるあるというよりもむしろあの行為のクリエイティビティについて思いを馳せた私であった。赤を被るあるいは白を被るという目的で作られたものを工夫によってそれ以外の使用法を編み出したあの頃の私たちにはお仕着せに満足しない発想力があった。発想の飛翔があった。そういう別用途の発見は実は人類叡智の発展の礎にあるものと同じなのではないか。木の棒は在るだけではただの木の棒だ。それを振り回して武器にするとか足を痛めた時の杖にするとか、組み立てて住まいをつくるとかいった創意工夫があったればこその今日の文明社会ではないのか。帽子をただ被るのに飽き足らないでウルトラマンにしてしまう工夫はそれに準じるあるいはその端緒となる行為なのではないか。そんなことを思った。
翻っていまはどうだ。用を用とするばかりで新しい発想をしていないのではないか。与えられた仕事のルーチンワーキングから外れるようなことを避けていないか。ナイフをナイフとして使うほうが(ナイフ用途に特化したナイフのほうが)かえって色々便利だというようなことには気づいても、ナイフでもって新しい何かを創り出そうとかより便利に作り変えてやろうとかいう気概がなくなってないか。缶切りの代替品としてナイフを使って不便だ不便だと言っているような毎日のような気がしてならぬ。せいぜいそこで缶切りを買ってくるくらいしかしてなくないか。結局は既存の便利に依存している。
発想が足りぬ。工夫を怠っている。柔軟な思考で現状を、打破するんじゃなくすり抜け躱してゆく軽快さがほしい。