nagajisの日不定記。
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まる二日間煉瓦のことしか考えなかったので頭が熱暴走気味である。一度は見てみたいと思っていたあの煉瓦この煉瓦の実物を見ることができただけでなく調査に関わられた先生方のナマの声を聞け直に質問をすることができたりもして、いやはやなんというかこうあれがそれしてニンニンである。知見の蓄積とその整理だけでお腹いっぱいである。困ったことである。あとnagajisはもうちょっと内容を整理したうえで空気読んでから喋ったほうがいいぞと思ったことだった。
ネカフェの床に寝転びながら考えた。短歌俳句と煉瓦は似ている。17文字あるいは31文字という字数制限、加えて季語だの何だのという制約が課せられていて、定型の最たるもの、極端に言えばいろは48文字の順列組み合わせであり詰め込める文字は有限であるはずなのに、にもかかわらず私たちはその短い詩のなかに無限大の世界を読み取って共感したり感嘆したりする。短歌俳句のリズム感が日本文化の根底をなしていたりもする。煉瓦も要は1:2:4の直方体で、ぱっと見どれも同じようなのだけれども、そこからわかることは数限りなくあり、声無き声に耳を傾け何かを聴こうという人がそんな態度で接すれば無限大の情報を与えてくれる。
「定まった形」に興味を持ち、そこに形以上の何かを詰め込もうとしたり容積以上のものを引き出そうとしたりする態度、「定まった形」の枠の中で自由を謳歌するような態度は、案外日本人の根源的な特性なんかも知れない。切手やマッチ箱を集めてみたりとか、レールを分類してみたりとか、マンホールの蓋とか。「規格化」形にはめ込むというか規格を作るとかいうところはひどく苦手だ。もし上手だったら戦前からJES規格が流行していたはずだし戦後になってネジに互換性があることに驚いたりするようなことはなかった。
んで俳句だ。575や57577という定形に無限の情報を詰め込み引き出す能力を涵養してきた私たち。7.5寸×3.6寸×2.0寸の焼き物の塊にさえ魅力を感じ雁首揃えてあーだこーだと議論したりする根っこにはそんな間隔が根ざしてるんじゃないかと思ったわけだった。
それで、57577を……まるで煉瓦のように連ね、重ねた結果「連歌」になる。構造物となった煉瓦には単体以上の含蓄がある。叙情さえ感じられる。一個一個はただの煉瓦でも、同じ構造物の他の煉瓦と協和したり不協和したりするさまが面白く思われる。煉瓦師は実は連歌師であったのだ。とうまいこと言ったつもりになった辺りで寝たと思う。