nagajisの日不定記。
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ネット情報を鵜呑みにし信じ切っていた人が、あることをきっかけにその真偽を気にするようになり、結果何が正しいことなのかわからなくなり、終いには「自分の考え」って何やねんと悩み始めたという話を読んだ。最初はザマアなんて思ってしまったのだけれども、我が身を振り返ってみた時に、そのようなケチをつけられるほど「自分の考え」を持っているだろうかと思わされたことだった。
自分の子供の頃は確か、親や大人に反駁する若者が、そうした反駁のひとつとして「自分の言葉で話せよ」っていうような決め台詞があった気がする。勉強しなさい、いい人間になりなさい、そういう内容のことを誰もが言うような・思いつくような言葉で話し説教する大人はそう言って嫌われた。わからんでもない。同じ言葉を耳にタコができるほど聞かされると飽きてくる。あんたもそうしか言わんのかと思ったことは何度もあった。けれども今、そう思われる可能性のある立場になったとき、「誰もが言わないようなこと」とか「その人独自の思想から発せられた言葉」だとかを使っているかと問われれは、ちょっと、いやとても、自信がない。何を喋っても、過去に誰かが言ったに違いないことであったり内容であったりするだろうと思う。書くことについても同じことが言える。こういう時に自分はこう書きがちだよなあと思うような言い回しが多いことを自覚している。流麗な文章なんて望むべくもない(といったような書き方もきっとどこかで読んだ文章の真似なのである)。
自分自身の芯って何だろう、と、学生の頃から常々考えていた気がするが、だからといってコレだというものが出来上がっている今ではない。むしろ逆を行っている気もする。考えれば考えるほど芯がわからなくなってきて、結局自分はなんなんだと思うことのほうがはるかに多い。
そういう「自分の芯」と「自分が好いて止まないもの」(嗜好とか性格とかいったほうがいいか)とは違うものだと思う。煉瓦について詳しくはなったが、それが自分の価値判断を左右することはないし、様々な先行研究に学び、真似てきた結果であって、自分自身で見出したものではない。そもそも煉瓦は誰かが作ったものであって、その痕跡を読み解いてみて(あるいは読み解いた気になって)あーだこーだと想像しているだけだ。数学者が公式を発見したり物理学者が自然現象を究明したりするのとは全然違う。誰かが作った煉瓦がなければ、自分のいまの興味は持続し得ない。以上の「煉瓦」を「橋」とか「隧道」とか「廃道」とかに置き換えても同じことが言える。
微かに言えることは、そういう過去のモノに対する興味と、過去に迫ることを快感に思う性格は、自分で鍛え養ってきたことではあるだろう。ものごとを深く追求する姿勢は自分の芯なのかも知れない。そうして得られたことだけを信じている。眼前の事実を鵜呑みにするんじゃなくて、咀嚼吟味したうえで採るか採らないかを決めている。それだけは自分。だと思っていたが、その採る採らないの判断基準はどこにある?どこから得た?と考え出すと泥沼だ。フォークより箸がいいと思うのは日本文化のなかに育ったからであって、環境に影響された結果だと言えなくはない。自分自身の選択で箸を使っているわけではない。外人さんがチョップスティックスを使っていれば「ああこの人の選択なのだな」と思えるが。日本語だってそうだろう。日本に住んでいるから自然と日本語を使っていて、それを怪しむこともない。
こういうのもひっくるめて、結局は、寺田センセのいうところの「負債」なんだろうと思う。ありがたい言葉だとつくづく思う。借りたものなら返せばいいのである。違う形であって構わないから、先達から賜った言葉たち、アイデア、発想、そういうものを借りまくってきた代償として、何かを還元することができればいい。その貸借の循環が社会というものなのだろうと思う。社会を驚かす大発見とか、世の中をより良くする画期的発明とかでなくても、何かを社会に還元できれば。
その時に「自分の考え」があるといい。自分が集めたいろいろを鸚鵡返しに返していては自分の介在する意味がない。必要がない。そうじゃなく「自分の考え」というフィルターで濾過して残ったもの、あるいは濾液でもいいだろうけど、そうやって別の何かを作り出すことができたら、それが何かの役に立つかも知れない。どういう成分が濾し取れたかを「自分の言葉」で説明すれば、若人が嫌っていたような大人にはならないだろうと思う。嫌われるのは構わないが、かつて嫌っていた責任を取って、そうはなってはいけないと思う。
まあどっちにしても、気負って何かを言おうとしたり、世を驚かそうとして焦ったりする必要はないのである。それは経験でよくわかった。焦れば焦るほど失敗するからnagajisは。成果を急いだり見返りを期待したり、とかく何かのレスポンスを恋い焦がれてもs世界は私じゃないのだから。そこはむしろ禅的に、世界も自分なのだ、自他不二なのだと理解して、自分に自分をアピールしても意味ないじゃんとか思っていたほうがよい。
生活環境が激変したうえにイベント続きで、こういうのを泣き面に蜂というのだろう(違。嬉しい悲鳴といっとけよ)。動けるうちに動いておかなければならない。ほんとあっという間に時間は過ぎていき、それにひっついていくのが精一杯な毎日である。そのうち「嬉しい」が抜け落ちて「悲鳴」だけにならないようにしたいものだ。