nagajisの日不定記。
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の橋脚の古写真がほしい。
もともとはこの写真が発端。
『日本鉄道史 上編』(M20頃) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2127152/313
橋脚は楕円形あるいは小判型で、両端は石積みだったとみられる。長良川橋梁もこうだったな。壁体はどうだったか。てなことを考えていたら妙に丈が低い気がしてきた。一度嵩上げされてるんじゃないか。
ネットでみつけた古写真ではもっと高い気がする。そのへんを高画質の画像で確認したい。
『地理写真帖. 内國之部第4帙』(M33) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761461/28
初代の200ftトラス。構門構のアップはあるんだ・・・
『写真集明治大正昭和浜松 : ふるさとの想い出7』(T2頃) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9537739/52
大正2年複線化時の工事中の写真。橋脚は端が石積みなのは間違いない。壁体はどうやねん。影の付き方からして北側から撮ってるはずで、だとすればやはり上流側に拡幅したことになる。
『静岡県磐田郡誌』(T10) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965680/37
やっとあったけど…やっぱりわかりづらいな。見る限り別に嵩上げはされてないみたいだ。
というわけで解決したが、しかし肝心の煉瓦瓦礫の件が解決しない。ビー3個横並びにAらしいものがくっついた瓦礫とか、明らかに水切りっぽい尖った積み方をした瓦礫とかあって、どうも楕円形井筒と結びつかない。何やったんやろうと思うけれども、たぶん今頃は増水で流されている。
これは大丈夫だろうな…。旧橋脚の天辺に乗っていたはずの切石。なかなかでかい一枚岩で、ひどくもったいない。こういう石が潤沢に切り出せるエリアだったから石を多用したんだろう。
『日本鉄道史』上編p.495に東海道線沼津天龍川間を南清が担任したとある。それで省線の肉厚煉瓦が南清経由で山陽鉄道に!とか早とちりした。南清の山陽鉄道就任はM23。線路測量は日本土木会社、当初の土木技師(長?)はヒュー・オルター・ベルチャー(英)でM20.10.12より3年間の契約。南はその後を継いだ。(『山陽鉄道物語』)
なのでベルチャーが目地込み3吋で設計したから山陽型がああなったわけだ。