nagajisの日不定記。
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初代のものと推定される煉瓦は厚2-1/4インチ。これだけの量剝いて測ったのだから間違いない。下流側の増築部@複線化時は面白いように2インチに収まる。これが並形の標準形のはず。桂川橋梁の橋脚も増築部のほうが薄かった。
関西の煉瓦製造業は鉄道建設をきっかけに始まったので(造幣寮の製造もあるけれどもそちらは後が続かなかった。鉄道寮工場→原口煉瓦のほうが後へ影響を与えているはず)、最初期は2-1/4インチが基本形だった。その厚さに焼き上げると焼き過ぎて小さくなるやつも多かったはずで、そういう規格落ちの煉瓦が勿体無く(しかしよく火が通ってるわけだから質は悪くない)市場に流したのが後の並形になったのではないだろうかか。M24に作業局が煉瓦厚を2-1/4として以降特にその規格落ち煉瓦を呼ぶ呼称が必要になり、規格落ちしたものだが質は良いという意味で並形と命名した。M20代初頭にできた建築学講義録でも並形という呼び方はしていない。ここでいう大阪型はたぶん2-1/4inのほう。而して大阪商工会議所の価格調査もM25に並形を対象として始まってる。
並形が普及し、消費者も敢えて並形を買い求めるようになれば、作る方も並形を狙って作るようになり、寸法規格も固まっていく。その頃に大高が5種類と言い出したのだろう。
作業局形よりもわずかに薄いというのは増築する時に役に立つ。下駄齒にはめ込みやすい。端を打ち欠いて嵌め込むにしても。
老ヶ辻のは継ぎ目?がカバーされていて確認できない。七反田の第4径間にはカバーがないがここは見事にてれこに組まれていた。本来はどこもそのように施工されていたのだろうが、どうしても隙間ができやすく、そこから漏水するためにカバーを取り付けたものとみえる。ただし最初から増築を考えて作っていたようには見えない。石積みのところは特にそう。きれいな凹凸にはなっていない。(しかし増築部もオリジナルも石の質感はたいへんよく似ている。そのせいで一続きの石積みに見えるほど。)
興味深いことに、増築部の煉瓦のほうが白斑は顕著。初代の煉瓦はここまでまだらではなく、いかにもふつーな感じだが(上写真)、某12ftウエルの胎土もその傾向があった。
あとになるほど原材料の混練が甘くなるわけだ。 115 233 58 112 231 57 115 234 57 116 236 57 115 230-234 56 114 232 57 110 227-224 55-57 111 230 56 112 232 56