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2022-09-16 [長年日記]

[煉瓦] 井上勝彦

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2518150

東海道線浜名湖付近を仕上げた後湖東線を一工区担当し、而して忽然とこの業界を去った。井上組の下請け人藤田夘吉がその後を継ぐ形に

現業社→副業として煉瓦製造(p.99)現業社南一郎平、橋梁小川・隧道南の南。

矢作川橋梁。堤防工事のみ鉄道局長井上勝の甥井上勝彦へ特命。このとき井上組と尾張屋の間に人夫争奪の悶着。 M23の国会開設に間に合わせるため←p.98

大府~天竜川間に井上組(これが浜名湖辺か)。ほとんどは日本土木会社。

関ヶ原~揖斐川まで佐藤組。「目で見る~」では岐阜~名古屋間井上勝彦になっている。

なるほど、中央線のところに書かれてあるわけか。

加納~名古屋間の中一、二工区は井上勝彦(井上局長の甥)の請負に附された。井上は曾て敦賀線の金ヶ崎埠頭工事を請負い藤田夘吉に下請せしめたが、爾来敦賀にて木材業を営み、暫く鉄道土木に遠ざかってゐたが、此所に至り藤田組に資金の後援を仰ぎ、鹿島組より一時星野鏡三郎を借り受け代人たらしめ返り新参として再登場したのである。(鉄道建設協会版『日本鉄道請負業史 明治篇』p.81)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2518150/52

その直前に大垣~加納間は吉田組の請負・浅田政之が代人として現場監督とある。浅田政之は浅田政三の関係者らしく「浅田は京阪線大津線時代煉瓦供給を請負い大に活躍したが、今や吉田組の一員として実際土木工事の経験を積み後年独立して浅田組を創立した」。

同書敦賀線の件。

金ヶ崎埠頭工事と井上武の施工
 疋田より敦賀に至る約五哩間の主要工事は絹掛川、木ノ芽川の橋梁工事、並に金ヶ崎埠頭工事であった。
 金ヶ崎埠頭は直営名義の下に井上武が特命された。是より先き、鉄道局は局用汽船金ヶ崎丸を神戸キルビー造船所に注文したが、明治十四年五月六日竣工し、敦賀線建築用諸材料を満載して敦賀に回漕して来たので、貨物陸揚後は之を金ヶ崎埠頭築造の用に使用し、工程頓に増進するに至った。(鉄道建設協会版『日本鉄道請負業史 明治篇』pp.37-38)
(次段に「井上配下に藤田卯吉と云う者があった」とある。井上武=井上勝彦とみられる。あとこのページに「本工事に使用した煉瓦は堺煉瓦工場の製品である」とある。この頃堺煉化石も堺煉瓦もなく、単に堺の煉瓦工場の製品という意味とみられる)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2518150/31

敦賀港駅は明治15年3月10日開業。突堤もこの頃にはできていたはず。そうして金ヶ崎港で木材を扱っていたが、M18.9.着工の加納~名古屋間工事(含む木曽川橋梁)に土木請負業者として参加。而して敦賀港駅ランプ小屋と揖斐川橋梁には同じ手になる煉瓦がつかわれている。その作り手を西尾士族生産所と考えていたが、ここへきて井上勝彦(井上組)も浮上してきたわけである。

大垣~加納M17.5.、加納~名古屋間M18.9.起工。揖斐・長良橋梁はM20.1.に、木曽川橋梁はM20.6.竣工。

宮崎商会はM18.11.創業となっていて、堺煉化石になる前は海軍省と取引があり「呉港鎮守府其他諸官衙の御用をも命ぜられ」ていた。堺煉化石会社=井上勝彦社長はM20.9.頃。

浅田が揖斐川橋梁の監督をした。もし材料持ちだったら桂川の時のようにアルファベットであったのではないか。中山道線も東海道線も基本的に素材は官給であったらしく読める。西尾士族生産所も鉄道庁納入用の煉瓦といっている(M19.3.時点)。

仮に井上(宮崎商会)が煉瓦を持っていってたとすれば関西でも□+漢数字が多く見つかってよいが、どうもそんな漢字ではない、もとい感じではない。あるのはM22、23頃の大型の□+漢字。M18~20頃に中山道線用に作った煉瓦の余りを金ヶ崎敦賀港駅へ回送してランプ小屋作ったとみたほうが楽なのよ。堺から木曽三川に運ぶ。鉄道でもいけるし金ヶ崎丸再利用してもいいが、現地近くに工場があるならそっちを使ったほうがはるかに早かろう。


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