nagajisの日不定記。
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2日めはいいことまるでなし。1日めで運を使い果たしたのだろう。
雲母の有無で判断するのは少し待ったほうがよさそうである。刈谷も西尾も雲母を含むことがわかったので。土地自体も雲母だらけ。境川では遊水地として造成されたところだけでなく今の護岸の上に溜まった砂にも大量の雲母を検出した(川底のものが大水の時に閖上られたものと思う)。
むしろそんな偏在する雲母が後年の製品ではとんと見られなくなることにむしろ注意しなければならないのかも知れない。大野工場の煉瓦も士族生産所煉瓦もよく焼けた赤煉瓦で雲母を見ない。これは赤煉瓦になるような高温で焼いたことで雲母が溶けるなり変性するなりして目立たなくなってしまった結果なのではないか。土を変えたとしても砂まで変えたとは思いにくい。そもそも胎土に含まれる雲母からして砂由来なんじゃないか。
人工的に製造した雲母は融点が1350度前後という研究があった。白雲母だったか金雲母だったかも1100~1300くらいとあったはず。当時の登り窯でその温度まで上がるかどうかのギリギリのラインなので融解はしていないかも知れないが、300~800度くらいで結晶中の水酸基が脱水反応を起こしアモルファス化(非結晶化)するらしい。となると東洋組製品は低温で焼かれたためにあんなキラキラした輝きのまま残っているだけで、それ以上の高温で焼くようになった後年の煉瓦では変性してしまって雲母と気づけなくなっているだけだという可能性がある。そうして猿島の煉瓦はたかだか800度台の焼成温度だったことがわかっちょる。とすれば東洋組煉瓦の雲母は脱水すらされていない。このへんのことをもうちょっと勉強しなければならぬ。
新川辺の土もそうなのだろうか。もろに境川下流なので砂は間違いなく含んでいるだろうが。岡田煉瓦もそういえばほぼ同じ、というか西尾の対岸だものな。それでいて含雲母だった記憶がない。
緩やかに傾斜したヴォールトを小口積みで作ろうとする時、煉瓦を鉛直方向に向けて積むなら「ああするしかない」。このたった50文字を説明するために100倍の文字を必要とするnagajis哀れ。
問題は「なぜ垂直に向ける必要があったのか」なんだ。後年そうならなくなる前の、思考錯誤の一枝葉なんだ。