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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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1941-05-12 この日を編集

[陸幼日記]五月十二日 月曜日 曇

入校以来、四十二日径〔経〕過したれども、今日まではあまり朝の動作はすばやくなかりしが、今日は一番速かりき。三時限目の独逸語なりしが野本教官殿欠勤なる為自習なりき。十四時より行われたる体操の際、三訓と騎馬戦を行いしが、残念にも敗れたり。十五時大講堂に集合し憲兵分隊長殿の防諜に関する話あり。以降直ちに自習室にて生徒監殿の話並注意あり。夕食後、運動班の軍歌演習あり。


1942-05-12 この日を編集

[陸幼日記]五月十二日 水曜日 雨後曇

朝食前は掃除・検査等にて目の廻るが如く忙しく、又暇もなし。
博物は変更して修身あり。横川省三・沖禎介の話→日露の役にて暗中に活動せし志士なり。靖国神社に祀らる。六時限七又大講堂に於て、一・二年合迸〔併〕にて、義農作兵衛(伊予松山の百姓)の話を承り、修養になり意義深かりき。
百武・梅井両先生が佐賀中学より見学に来られた〔り〕。嘗て予は両先生より教を受けたり。昼食の際梅井先生は剣術の事に付き話されたり。先生は、柚木崎生徒監殿三年の時、下川生徒監殿一年の時、一年の下士官殿であられた。故に、両生徒監殿は大部鍛えられたならん。先生からの土産は佐中の陸幼受験人数なりき。一年のみ八十九名。
自習時間今日に限り賢〔緊〕張し得ずして遊び過したり。中だるみになるな。賢〔朱傍線〕張せよ。頑張りが勝つ。


1943-05-12 この日を編集

[陸幼日記]五月十二日 水 晴

ドルさんの会話が相当にむずかしくなりたり。軍刀の操法は特に戦陣に必要なれば己の物にするを要す。体操にて三十分持久駈歩ありて本道より白川学園の下に出で山室を経て走りたり。二ヶ月ぶりに走ることとてよこ腹痛む。要練習。後は手入なりき。酒保へ行かず。修養(意思)そして腹(胃)を鍛錬せんが為なり。良好。食慾不振。


2008-05-12 実質的に開店休業状態 この日を編集

[ORJ] あうあうあ〜

戦後処理に手間取ってなかなか進まない。全く何もやってないのではなく必死こいて書いたり描いたり掻いたりしているのだが進んだ気がしない。いまだにOFFの余韻に浸っているような感じ。それでもようやく2日目分までテキスト化し次号掲載分を荒仕上げした。ヨッキ氏すまぬ、まだプチ濃表紙のアイデアが浮かばんのだ。出掛けなければムラムラするし、出たら出たで遅延するしでロクな人間じゃないな>nagajis。

今回のOFFは、OFF報告にするとむちゃむちゃ長くなる。いろいろあり過ぎ。かえってそのせいで原稿着手が遅くなり、記憶が薄れてしまいそうなのが恐くて、いまのうちから書き溜めている。そうすると今度はデザイン、というか誌面配置のアイデアが出て来なくて困る。次号用の音水第一弾・第二弾をpdfにしたら特濃のバッタモンみたくなった。原稿の書き方も、構成もまずい。するならする、しないならするで徹底的にやらないとだめだ。何事も。半ば言い訳だが、今回はまだヌルい。次からもっといいものにする。

せっかく、大市図に大阪営林局の統計書が昭和4年からあるのだから、これを活用してみたく思うものの、用語や仕組みが微妙にわかりづらくて、断念した。もっと細かな、例えば山崎営林署だとか鳥取営林署だとかの年報みたいなものはないんだろうか。贅沢なのだろうな。

[独言] 共食いキャラ

画像の説明一宮町の辺りだったか、山崎のどこかだったか。噂の共食いキャラを発見した。ついに猪界にも侵出を果たした共食いキャラ、そのフロンティア精神にも瞠目するが、それより先に目についたのは妙に生々しいその肉部であった。今にも血が滴りそうな自らの肉をあどけない瞳が見つめる構図。それを見て自分の未来を悟ったか、がっくりと肩を落とす牛。なんとなく賢治風のちぐはぐな会話をさせてみたくなる。

「切られちゃったね」「少し寒いね」「今年は山の木の実が少なかった」「春なのにね」


2009-05-12 終わらない この日を編集

[独言] 整理段階

32000W。やっと、ひとつながりになった・・・。繋ぎ目がバレバレだ。

残りは版下上でつくる。

[ORJ] 特濃!/旧橋

ざっくりとpdf化を済ませ、写真の使用許可を取る。お手数おかけしますm(_ _°)m

旧橋も修正しなきゃ、なんだけど自分のと特濃で精一杯。12日中に片付けてしまおう。


2010-05-12 この日を編集

[独言] 早く寝る@PM6:00

移転先を確保する。といってもお試しでセレクトしただけ。

作業用pdf置き場、tdb、pdb、余計な糞コンテンツ(ここ)を移動させる。ここはドメイン的に分離する必要があるな。もしくはあれだ、今度の鯖のほうが高性能っぽいからthe-orjを移してもいいかも知れない。tdbの移動は面倒だし。とするとあれか、月末とかにしたほうがいいな。とか今更気づいた。

coreserver間だから負荷分散みたいなことができないだろうか。どちらかに読者のテーブルを置いて、過去号はこっち、新しい号はこっち、みたいな(むしろ最新号-1-2-3くらいのほうが効果があるが・・・1カ月ごとに移動さすのは面倒やし)。サーバ間はhttprequestとか何とかいうのを使ってやればよい。dbのポートは開いてないから。

503の原因は転送量というより同時接続数の問題のような気もする。とすると新サーバに移っても根本解決にはならない。

[独言] ほら、な

12時間待てば良かった

Macdiffで差分取りながらとか

これは使えるか。一字差し換えとかあったとしても行まるごと差し換えたほうが間違いが減るし。でもnewとoldの見分け方が見分け慣れない。


2011-05-12 この日を編集

[独言][] あじk(ry

誰得度が0.1%さがった.

[ORJ][廃道本] 廃道をゆく3広告

いつも中四九州の方々が白黒になってしまうのが申し訳ないこともあってカラー写真で広告しようという魂胆である.

[独言][] あj(ry

円型スロープも作図したので誰得度が5%あがった!


2016-05-12 この日を編集

[] いやおわらねえ

長くて困ってるのではない。ことばがかれてこまっている。かかなきゃいけないことは七面山ほども高く積もって聳え立っているのに。聳え立つ糞。

[煉瓦刻印] 大阪窯業「改」@岡町

画像の説明

「巳」に見えるおのれがミームポイント。何を伝えているのは定かでない。


2018-05-12 この日を編集

[古レール][] Darlington Iron Co 略歴

出典:特記なき限り https://gracesguide.co.uk/Darlington_Iron_Co

Darlington Iron Works。William BarninghamがAlbert Hillに興す。Darlington最初の可鍛鉄(鍛鉄)を製造。

1858
もともとマンチェスター郊外にPendleton Iron Worksを有していたW. Barminghamが、ダーリントンAlbert Hillに新工場を建設。ロンドン-ダーリントン間の鉄道や北港・東北港に近いので外国からの注文に応えるのに便利な場所としてこの地を選んだ。またSouth Durham Iron Coの高炉(blast furnaces)から輸送料無料で銑鉄(pig-iron)を入手できることも利点。
工場の機器はPendleton工場で製造。製錬プラント(pudding plant)や圧延プラント(rolling plant)の屋根はマンチェスターから輸入。←Manchester Art Treasures Exhibition of 1852の会場の建物。付近を通る列車からの眺めが印象的だった。
1859
Albert hillの工場が完成する前にSpringfield farmも購入。
1859
5月に工場稼働。東インド鉄道(Eastern Bengal Railway)から受注したレールを製造。
1862年時点で45の溶銑反射炉(puddling furnaces)(当時Darlingtonには646の溶銑反射炉が所在していた)、6つのスチームハンマー、2つのレール圧延機(rail mills)を備え、500~600トン/週を製造。これは1864年までに800トン/週まで増加した。
Springfield Ironworksはメインラインの西・Skerneの北方にあって'Five Arch Bridge'を経由して鉄道でつながっていた。この工場は後にOld farmと呼ばれる。メイン工場(Albert Hill Ironworks)でレールに圧延する棒鉄(bar iron)を製造。
1860
Albert Hill工場はロンドン初の市街電車のレールを受注。WestminsterのVictoria-streetに敷設された。マンチェスターでも実験的な短い市電が建設されPendelton工場がレールを供給している(https://www.gracesguide.co.uk/William_Barningham)。
1864
Darlington Iron Company設立。800トン/週の錬鉄製品を製造(推計によれば73の炉と300のpuddlers,全体で1000人の従業員)。
1869
この頃レールチェア、切替器、クロッシングも製造。
1872
二つのサイトで1,600の従業員。1875年には約2000人まで増加。
1872
隔週の支払い(fortnightly wages bill)は5,000ポンドに達し、毎年80,000トンの鉄製品を製造。短期間に大儲けする。
1872
Pendleton工場でベッセマー鋼の製造を開始Darlington Iron Company Ltdを設立。BarminghamはOld farmから275,000ポンドの分け前を支払われる。新会社は1株20ポンドで350,000ポンドの調達を目論み、またTees valleyの大きな製鉄家を取締役に迎えた。198の溶銑反射炉を備え1873の終わりまで13ヶ月の間に80,000ポンドの収益を上げ、31.5%の配当を支払い、かなりの金額を積み立てた。が、直後の貿易不振がたたって二度と配当を支払うことはなかった。
1875
この頃メイン工場に105のパドル、40の溶銑炉、Springfield工場に92の炉を備えていた。自社所有の蒸気機関車でAlbert Hill工場に錬鉄バー(注:レールの原材となる棒状の錬鉄)を運び、実質的に唯一の商品たるレールを製造。当時イギリスで最大規模のレール製造会社と考えられる。(注:Barninghamは、とあるのでPendletonも含むかも知れぬ)インドのほとんどすべての鉄道のレール、Pacific Railroadを含む多くのアメリカの鉄道、ロシアにもレールを供給した。
1878
全従業員を解雇。
1879
1879年の終わり頃までに20,000ポンドの損失。ベッセマー炉の建設を開始。
1880
(which had collapsedな iron railsのtradeをやめ)ベッセマー鋼を使ったレールの製造を開始。当初は上々な商いだったがHematite鉱の購入のために多額の費用を費やす(注:当時のベッセマー炉は燐・硫黄分の含有量が少ないHematite鋼を使わなければならなかった)。社債を募るも金は集まらず、また工場購入費用に35,000ポンドの債務を負う(注:と訳すべきはず・・・)。
1881
会社再建、Darlington Steel and Iron Company Ltd.設立(この年William Barningham死去)。1878年にBarninghamが発注したベッセマー転炉は1884年にしか稼働されず(were delivered only in 1884、直訳すると「この年にだけ配達された」になるがあまりにあんまりだ)、Springfield工場を冗長なものにした。
1885
Albert Hill工場に新動力を導入するなどして再建が進められた一方、この年Springfield工場が放棄される。
1888
鉄道や炭鉱などのさまざまな製品を作っていたPendleton工場が閉鎖される。
1894
ヒュー・ベル卿(Sir Hugh Bell)に工場が売却され、翌年ミドルスブラに移された。敷地はDarlington Forge Coが継承(清算のため。事業は引き継がず)。
1902
Albert Hill工場(跡)がDarlington Forge Coのプレスショップに取って代わられる。
1919
Thomas Summerson and SonsがBarringhamの工場敷地(おそらくSpringfield工場の敷地も)に拡張。

ええい要するにだ、1972にベッセマー鋼を作り始めたのはBarlinghamが所有していたマンチェスターにあったPendleton Iron Worksのほうで、Darlington Iron Co(Albert Hill工場+Springfield製錬所)にベッセマー転炉が導入されたのは1878年、鋼レールの製造は1880年から数年間だけだったっちゅうこと! やっぱ機械翻訳はあてにならんわー、適当ゆうたらあかんわー。


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