nagajisの日不定記。
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午後は教練・剣術あり。予は剣術終了後二十五分間剣術なしあとは柔道をなす。当に教練の必要を知る。
土曜の夕食後は切磋〔石偏抜け朱訂正〕会あり。伊東さん曰く、試験も近づきたれば正々堂々一心に勉強すべしと。而に然り。
〔nagajis:「而に」は不分明〕
昨夜零時まで田代生徒監殿の下に行き、長く、「米国に関する作戦」「ソ満国境」「現在の国情」「予科」に関して話を承る。実に有益なりと信ずる点なり。午前学習午後集会所・午睡二時間等休養、夕食後十分愛校作業なす。予定通り行かざる日。良好
の話を書こうとして間違いに気づく。ぐふっ
絹路さんから参加希望のご連絡。ありがとうございます。参加者がとうとう2ケタになりました。3ケタになったら頂上でおにぎりをぱっくんぱっくんぱっくんと食べることにします。
只今の天気予報
31日 曇 降水確率40%
1日 曇 降水確率40%
2日 曇時々雨 降水確率50% ←
嫌らしい位置につけやがったな・・・
昨日は酔わない勢いで恥ずかしいことを書いたような気がする。後で消すからな。くそ。
実は廃道を読む(16)はほぼ完成している。添付原稿が。今回は168kBのテキストがつきます。
そうして旧橋紀行を懲りずに書いている。今回は京都のRC橋について。意外と面白い京都のRC橋。ちゃんと廃橋もあります。と書いた時点でバレバレだけど。
その裏で江浪峠を進めたり。完成するのか、これ。。。
秋元橋もそうなんだけど、今PGが(勝手に)アツい。
PGの構造は基本の基本だし物理感覚的に解りやすいのだけれど、ネットにまとまった情報がなくて難儀する。鉄の廃路さんの所やフカダソフトさん、弥生の森の散歩径さんの所などをぐるぐる回って教わる教わる。でも阪堺の大和川橋梁だって英製なくせに明治44年だしなあ、このへんどうなってるんだろうなあと思いつつ、最後に歴鋼集覧を見て・・・うおっ!キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!!!!
マジで、グラインダーテストお願いします。後生ですから>叡電様。きっと裂けない火花が散りますから。
その頃5年前のnagajisは廃村茨川のテントの中でウンウンうなっていた。下腹部に激痛。例えばこれは腹を下したとかゆうレベルの痛みでないことは自明。肝臓が痛い。そんな局所的な痛み。
ふっと99年の夏に北海道で3度ほど生水を飲んだ記憶が甦る。一度目は静狩川の上流で。一度は十石峠の麓で。勝北峠の西側で氏に水として汲んだやつは飲まなかったけれど、あれ、ちゃんと洗ったっけか? 尊敬するFe氏、あなたを患ってしまったのでせうか。それはそれで悔いがないけれども。
身動き取れない状況なだけに、今までの旅が走馬灯のように・・・とまでは行かないものの、そんなことを考えて気を粉わすことしかできず。信州の峠はもっと見ておきたかった。眺めのいい峠、なんてずっと後回しにしていたから、ほとんど手つかずといってよかった。何よりこの旅が1ヶ月も続いていないことが悔しかった。このままでは「今夜が峠です」と言われて永遠に登り続けることになるだろう(というフレーズは確かにこの時思ったはず)。
1時間近く肩で息をして、ようやく動けるようになった午後。初めて茨川の中を散策した。文字通りの夢遊病者の体で。
集落に渡る直前の橋から、茨川。あらゆるものが緑に飲まれている。自分の自転車がどこにあるか、わかるかい?>nagajis
自分にとってはこの景色のほうが印象深い。茨川の傍らを流れる茶屋川はかくのごとくの浅い河原でどこまでも続いている。まるで歴とした道路(だったか)のようだ。実際この奥100mほどの左岸、この河原を辿らないことにはとうてい辿り着けないような場所に、民家の残骸が眠っている。
集落対岸にはこの集落で最も新しいもの・神社の鳥居。苔蒸した石段を登って行けば小さな祠がましまして。振り返った茨川の谷の険しさに、いつもの兼好法師の言葉を思い出す。「人はいかなる所にも住まるもの」。そうしてかつては信仰が、その原動力となりかすがいとなっていた。信じられる人はそれだけで幸せだと思う。
元公民館の脇から山腹に向けて登って行く道。石垣には可憐な花が群れ咲いていた。それが「ユキノシタ」であることを後に買ったポケット図鑑で知ったほど、自分は植物の名に疎い。だから自分にとってのユキノシタは今でも茨川の象徴である。
その道が行き着く先は、すでに更地になった民家跡。ここには柱の一つも残されていなかった(他所にはいくぶん残骸があったのだけど。中には屋根が形を保ったままごっそり落ちていて、それがどこかの登山倶楽部の基地になっていた)。
以上で茨川は全て。本当はもう少し民家があったようだが、それを辿ることさえ忍び無くなって、テントに戻った。
丸3日も動けないとは思っていなかったからそこまでの食糧は仕込んで来なかった。最後に残された口にできる固形食糧が、この「非常食」だった。
もともとは会社で貰った義理ばれんたいんチョコ。いろいろあってこの状態で会社の机に4ヶ月放置されていた。何かのギャグにと思って持ってきたこいつが本当に非常食になるとは...。「備えよつねに」は真なりと独り納得しつつ、自分の先見の明を褒め称えつつ、開封すると
包みによれば子豚の形をしたチョコレートだったらしい。一部が溶け、さらにそれが粉々になった姿は猟奇的でもありデュシャンばりの芸術作品でもあった。ピントが合わなかったのはつくづく残念だ。おいしく頂いた。
ここのところパソコンに向かって原稿ばかり書いている。廢毒ほぼ了、旧橋バカ長くなったがひとまず了。TRDBも熟成済。戸倉を引張り出してきて歴史部分を補完した。さらにサンプル原稿を書いたりなどして。音水3回は終らせているがそれ以外のpdf化は一向に進んでない。
唐突だが明日から出ることにする。本番は1日からだが飛騨高山周辺で目撃されるかも知れない。天気予報は雨のようだがまあ何とかなるだろう。久しぶりに、本当に久しぶりにそんな呑気なことを考えて出発する。
今回は携帯を携帯する。nagajisあてのメールを読めるよう&旅先から入金操作をできるよう細工しておいたので入金関連は対応可。ただし「必ず報告フォームからご連絡ください」。でないと見落とす可能性大です(特にebankご利用のみなさま)。
先乗り込みして有巣峠に行こうと思っている。1996年に泊まって以来。小学校に入学して卒業して中学高校を通過するのと同じ時間が過ぎているわけか。にわかには信じ難いが、これも現実。
pdbのアイデアをtdbへバックポート。
表に出る分
出ない分
keywordには検索結果の峠名をずらずら放り込んだが、あんまりいれ過ぎたら怒られるだろうか。descriptionはかえってつけないほうが親切のような気がする。検索ワードの周辺が表示されたほうがいいでしょ。そのかわり(?)検索のタイトルにqueryを入れておいた。検索サマリで何の検索結果なんかわかっていいからな。で、index.phpとview.php以外はnofollow,noindexにしておく。&editのspam対策を強化。あとtdbからpdbにstatus.phpをもってきた。どちらも「統計」とかなんとか適当な名前をつけた。
ついでにtdbもpdbと同じようにトップメニューから県別検索結果へ飛べるようにした。おもにGoogleさん対策。
トップペ−ジだけで1MBというのはさすがにひどいと思い、画像の圧縮率を上げた。半分以下になった。総体としてはpdfで決まるようなものだから503対策にはならないだろうけれども。しかしhistory系はどうしようもなく、1アクセス1.5MB以上取られてしまう。
だいたい全号ずらずら並べるからいかんのだ。一枚画像にしたったらそれでええねん>トップページ。あるいはテキストリンクのみにするか。
Yahoo!はページの質を見ない。Googleは被リンク数で公正に判断してくれる。
上記を終えてから、記事で買うしすてむ
http://www.the-orj.org/resist/cdr_order_test_1st.php
を作っていたはずが、なぜかこうなった。
http://www.the-orj.org/history/history_p.php
流れ
とりあえずチェックボックスで選択するのをあきらめてぼたんで選んでTABLEにしてname属性にORJ_XXXXつけて選択したやつに.style.backgroundColorで色つけたらいいんじゃね?>とりあえずうまくいった>企画別著者別で選ぶときはタグ使ったらええやろ>history_pにつけたやつをもってくるのが面倒>その前に背景色どうしよう>号ごとに変えたらいいな>HSBでH変えたらよかろ>変換方法がわからない>泥沼>逃避>history_p.php
IEとかで見れるかどうかは未確認。em指定でふっとぶようなきもする。その前に360°/号数でH出しているので出せば出すほど隣接号の区別がつかなくなるという真綿首仕様。あ。testはtestなんで最後まで行ったときの動作は保証しません。
history_p.phpはアナウンスはしていないがタグで過去記事を捜せるようにしている。ぽちぽちクリックして「さがす」。要Javascript。
検索にかかるようにとAbst.入れているのにわざわざタグをつけているのは愚の骨頂だが「検索する語を思いつく」ことさえしないnagajisのような人のためにはタグのほうが便利。Abst.をmecabかなにかにかけてタグにしようかとも思ったが愚の真骨頂なのでやめておいた。
拝復。気取った苦悩ですね。僕は、あまり同情してはいないんですよ。十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。真の思想は、叡智(えいち)よりも勇気を必要とするものです。マタイ十章、二八、「身を殺して霊魂(たましい)をころし得ぬ者どもを懼(おそ)るな、身と霊魂(たましい)とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ」この場合の「懼る」は、「畏敬(いけい)」の意にちかいようです。このイエスの言に、霹靂(へきれき)を感ずる事が出来たら、君の幻聴は止む筈(はず)です。不尽(ふじん)。
行けなくなった。各種資料が無駄だ。
適当に書いている。
追記・だいたい了。「人に伝わるように書く」ことをハナから捨ててかかればこんなに楽なのだなあと思うことしきり。こういうののほうが書いていて楽しく、 また懐かしい感触だった。どーせどんなにどれだけの3Dで書いたって伝わらんものは伝わらんし理解しようとも思わない人に理解してもらったところで自分はちっとも嬉しくない。
適当に書いている。
耐火煉瓦と他府県のをしなきゃいけなかったのをすっかり忘れ、道路元標を書き始めてしまった。急ぐものではないから後回しにしてもいい。しかし続は兵庫の煉瓦工場がもう少し明らかになってから書いてもよいような気もする。
和歌山県の統計書はなかったよなあ。あったけど煉瓦工場の記載はなし。何でだろう何でだろう。全部大阪府から来たってことなのか。
埼玉県深谷市の日本煉瓦製造株式会社は明治20年創業で、渋沢栄一も関わった老舗中の老舗の煉瓦工場。こんな社章を使ってた。このマークよりも上敷免っていう刻印のほうが有名かも。
一方、大阪の日本煉瓦株式会社はに明治29年創業で、日本煉瓦製造とは無関係の会社だったはずなのだが非常に紛らわしい名前をしている。しかも大阪では大阪窯業岸和田煉瓦に次いでよく見られ、余計に紛らわしい。
日本煉瓦の本式の社章。花を意匠化したものだろうとずっと思っていたのだが、日本煉瓦製造の社章の外側を逆にしたらこれになるのだな(イラレでいえば膨張-パンクの関係)と、ついさっき気がついた。そのへんわざと狙っていたのかも知れん。
なお明治30年代には日本煉瓦製造合資会社とかいう煉瓦会社まであった>大阪。工場を持たず、すぐに解散してしまったようだが、紛らわしいったらありゃしない。
「日本煉瓦」で検索すると日本煉瓦製造ばかりヒットする。大阪の煉瓦史においても、規模が大きかった割に素性がよくわからない会社の一つであったりする。情報は堺市史類纂にある調書くらいか。
日本煉瓦製造の機械成形煉瓦は機械整形だけれども刻印がある。一方大阪の大工場で機械成形煉瓦に刻印を押した例は見たことがない。何でだろう。
言いたいことを言わずして何かはあるとばかりに詰め込んでみたり収拾がつかなくなることを怖れて諦めたりしつつたぶん9割くらいは入れ込んで想定の範囲内におさまつた。結論じみた結論がないのはご容赦いただく他無い。
ちょっと動かしたしただけで写真やキャプションがどっかへ言ってしまううんこWordと大格闘。久しぶりにあのイライラを味わった。いくら「文字といっしょに移動する」チェックを外してもいつのまにか元通りになってやがるうんこWordのうんこ仕様にうんこうんこと叫びつつうんこのイライラだと反芻しつつ調整する。編集のTさんがあとで苦労するのではないかと危惧するが悪いのはMicrosoftなのであると開き直って提出するつもりでいる。非道である。
画像は白黒で作ったほうがよいかも知れぬ。地図なんかはカラーだから判別できているだけで白黒にするとわけわかこになるかも知れぬし罅も見えないかも知れない。罅の方は半分諦めているが折角図をたくさん入れたんだから活かしたいものだ。もっと拡大したやつを入れるか。
とにかくあと一息。
地震のせいで呆れるほどの量を再出品せねばならない。 3歩進んで2歩下がるほうがまだ良かったかも知れぬ。 1万積んで5000崩されたようなものだから絶望感半端ないし物理的なダメージも大きい。
家にチリヌードルがあることがわかっていながら何故そこで袋ラーメン5in1パックを買ってくるのか>nagajis。お前オコだろ。漢字変換でけへんけどオコだろ。
Chromeで別アカウントログインしてログアウトして痕跡を消そうとしたら元の設定ごと全部消してしまったようである。ちょっと困ったことである。パスワードとか忘れてそうな気がするしブックマーク類も未だ使う奴があったような気がする。
Before...
_ iso [4色化されたjis男さんは味わいが格別です。]
_ iso [RGBなら3色か。いや、JIS男の白地部分はRGBともに255だからもともと3色か。どう表現すれば。]
_ TUKA [そのうちJIS男も3D化されるんだろうな。]