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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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1941-08-14 この日を編集

[陸幼日記] 八月十四日 木曜日 晴

柚木崎・下川両生徒監殿陸士乙委員として試験される事となる。今年の一月の十八日を思い出して已まざりき。術科は午前中体操なりき。


1942-08-14 この日を編集

[陸幼日記]自 八月十四日 至 九月十日

夏季休暇の為帰省


2009-08-14 この日を編集

[] ルリコガネ

画像の説明波津越え道にて。せっかくきれいに撮れたんだが使う場面がない。

食べものは鹿のフン。画像の説明

[] もういっちょ

画像の説明川上村東川にて。吊り橋の主塔だけ残っているというのはよくありがちだが・・・異様に装飾的だ。こんなハデなのは見たことがない。

[ハチ] 退去

2、3日前からハチを見なくなった。巣を放棄して新しい世界に旅立ったようだ。もう少し前から異変があって、巣に蜘蛛の巣が張っているというか、中途半端に蓋された状態というか、ともかくそんな感じで巣作りが止まっていたのだが。アディオス。

nagajisがじろじろ観察したからだろうか・・・

[ORJ] やっぱり変化にならん

旧橋を入れてみたが新奇性に劣るかなあ。名橋列伝のような変化がないとダメだな。東熊野にいっしょうけんめいになりすぎた。

[ORJ] 15日発行の方向で

意外と充分余裕で間に合いそう。記事数は少なめだが。ここから何かを増やしても2部構成にはならんだろうな・・・サイズ調整がうまくいきすぎたかも知れぬ。

本日のツッコミ(全1件) [ツッコミを入れる]

_ imola [ルリコガネ・・ 美しき物は、真逆の所より生まれる物なのであろうか?]


2010-08-14 この日を編集

[D] 三○○と神谷の間の明治初期県道>林業軌道探索継続中(夢で)

画像の説明夢の続きをしつこく続きを見ている。こんどは実際に現地(旧県道=ある時期から併用軌道)を歩いた。木が育つ程度に廃道で歩き甲斐があったが、現車道に接続する辺りで不明瞭になり、線形がわからなくなる。現車道はやや高いところにあって、地形からするとずいぶん回って下流で接続していたように見受けられたがはっきりしなかった(図はてきとうだ。接続点は現車道のほうがやや高い)。

どうつながってた?を考えているうちに夢のことを思い出す。そうか!このことを夢は言ってたんだ!!スゲー!!!どっかに廃隧道あるぞ!!!!とか!を沢山飛ばしながら思った。夢だった。

コナン志望で一息つくかと思ったらこのざまだ。場面を事細かに覚えていないのは廃慣れし過ぎてしまったせいか。「行った!」は覚えているが場面の詳細を思い出せなくなりつつある。おもんない。

[独言][] ムズい

えんしゅうこうきにも書いたが記事をいつ載せるか難しい。せっかく川端線追加で調べに行ったので載せたいけれども既にチェック出し済みな記事が溜まっている。そっちを出すと載せられん。おおこれは読みにくい。

明日もう一度統計を読みに行く。川端線はそれ入れてからにしよう。でないとあんな離散データじゃ何の役にも立たない。恐らく欠けている部分にピークがある。

天神津川はおまけで入手した情報なので早く片付けてしまいたい。グレー画像の処理が不味かったらしく写真差し替えたら2.9MB/9pになったしな。常識的に考えてこんくらいだろjk。

本丸は山家橋。しかも実際に現地へ行かずに書くと言う非道。

コロッケ5個食って寝る。油が使い回しだな、これは。口がむわむわする。


2011-08-14 この日を編集

[独言] まちがいさがし

画像の説明
たぶん使う場面がないので放出。線つけたらドヤされるねんで。

[独言] やっちまったー

寝ている間に、枕元に置いていたノートパソコンにコーヒーを零してしまった。まだ壊れていないがそのうちヤバくなる可能性大。早く分解掃除したい。。

[独言] おどろきのきしめん

賞味期限が1週間も過ぎてしまったきしめん(ゆで)を頂いた※。常温保存であったにも関わらず微塵も痛んでいない。黴の一つも生えてない。若干固くなったところがあったが茹でれば一緒だ。

これってすごいことだと思う。よほど清潔な環境で密封梱包されたということである。賞味期限≠消費期限だと知っている私でも驚く。

※もっと早くにいただいていた頂き物なのだがうっかり見逃していた一袋があったのである

本日のツッコミ(全3件) [ツッコミを入れる]

_ nyo [1秒でわかった〜w]

_ ocoze@三重 [看板に線引いてくるのが国民の務めだったのに...それともそこだけ買い上げで本当にそうなのかも知れないw ]

_ nagajis [だったらすごい〜!]


2012-08-14 この日を編集

[独言] ピザトースト

時おり無性にピザトーストが食いたくなる。マーガリンをたっぷり塗ったパンに取レッドチーズを山盛り乗せてHEINTZの逆さケチャップをちゅるちゅるかけて焼いたやつが食いたくなる。そこに輪切りのウィンナーとか刻み玉葱とか載ってたら贅沢の極みだ。マヨネーズをしゃしゃっとかけてもいい。それをゲホゲホ咳き込みながら貪るのだ。手についたチーズともマーガリンともマヨネーズ由来ともわからない油分をケチャップの滴りとともにネロネロねぶるのだ。嗚呼。

最近ピザトーストが食いたくなるタイミングがわかってきた。ポストに投函されたピザ屋の広告を見たときだ。「旨そうだ」と思って手に取って見るけれども値段が高くて手がでない。Mサイズでも一度に食い切れないだろうと思う(食い切れたとしても勿体ない)。それで行き着く先が、もっと安上がりにピザの感じを楽しめるピザもどきトーストなのだった。ピザトーストなら安くできるうえに好きなだけチーズを載せられる。300g398円だろうがなんだろうが一枚1000えん以上に比べたら屁のようなものだ。そうして量も適宜調整可だ。食べたい時に食べたい枚数を焼いてアツアツをいただくことができる。これを合理的と言わずして何と言おうか。

ピザトーストの旨さ利便さ合理性を、世のお金持ちたちは知るまい。ちょちょっとTELしてバイクに持って来させて何とも思わないに違いない。食った割に持たない腹持ちを抱えて不満足を感じているに違いない。ざまあみろとは思わない。そういう滑稽を演じずに済む自分の安っぽさと、その安っぽさをひけらかして恥じる気もない自分の精神を有り難いと思うばかりだ。ブラボー赤貧。ブラボーピザもどきトースト。


2013-08-14 この日を編集

[煉瓦工場] 竹村煉瓦製造所→中島窯業㈱@京都市伏見区深草フチ町

京都市中で最も長く操業していたのは深草フチ町の煉瓦工場。大正7年から「竹村煉瓦石製造所」の名で載るようになり、その名で終戦まで続いている。休止間際の「工場通覧」では「深草フチ町19」に所在し、経営者は山田重三郎となっている。丹後の竹村煉瓦工場(今もホフマン窯が残っているあの煉瓦工場だ)も山田重三郎の名で登録されているから、同じ人物が京都府の南北で煉瓦工場を営み、府下の煉瓦を供給していたようだ。

そうして戦後に同じ住所で「中島窯業㈱」が載るようになる。この工場はS34頃まで存在した。京都の煉瓦というと琵琶湖疏水事務所のものばかりを連想してしまうが、他にもちゃんと?煉瓦工場は存在したのだ。そうしてどんな刻印を使っていたのかわかっていない。


画像の説明地下鉄竹田駅から深草フチ町を目指して歩いた。道すがらは全面的典型的な郊外住宅地。一戸建て住宅が軒を連ね、幹線道には大型チェーン店が切れ間なく続いている。そんな街だということは航空写真やストビューで確認できることだが、行ってみなければわからないことは多い(行ったからといってわからないことも、同じくらいに多いのだが)。

[煉瓦刻印] 「セ」刻印

西播煉瓦刻印
西播煉瓦刻印

例えばそう、こんなところで「セ」煉瓦に遭遇するなんて、出かけてみなければわからないし、想像すらしていなかった。姫路の西播煉瓦のそばで見かけた「セ」刻印と寸分違わぬ「セ」刻印だ。一画目の最後を明瞭に描き、二画目の縦棒との間でループを作ってるところなんかはそっくり。イロハニホヘトのセでないことは明らかだ。

この煉瓦は深草フチ町に到達する前に発見した。名神高速道の高架下を通っている下道の脇だ。さっそく刻印が見つかったのはいいが……「セ」=西播煉瓦の仮説を揺るがす発見で、幸先のいいスタートとは言い難い。

[煉瓦工場] 続・竹村煉瓦/中島窯業

画像の説明 現在の深草フチ町の区域は徹頭徹尾な住宅街。どの住宅もここ30年内外に建てられたものに見え、軒先に煉瓦が転がっていることも稀だった。あったとしても、こんな機械成形煉瓦だ……。縁が歪んでいたり長手に凹凸があったりして、それなりに古そうななりをしていたが、刻印が押されているようなことはなかった。

むしろ……これが戦後の中島窯業㈱の製品なのかも知れない。そう思わせるほどに数多くの似た質の歪んだ機械成形煉瓦を見た。

[煉瓦刻印] 「□レ」刻印・「□へ」刻印

「□レ」煉瓦刻印「□レ」煉瓦刻印そんな深草フチ町ではあったが、手成形煉瓦が全くなかったわけでもなかった。とある住宅の脇、用水路に面した石垣の上にこんな刻印煉瓦を発見。1cm四方くらいの小さな四角に「レ」の文字が刻まれている。
「□へ」煉瓦刻印「□へ」煉瓦刻印国道側の隣町の畑でも似たパターンの刻印を発見した。地衣類に覆われてわかりづらいが□にへである。大阪市外では見かけないものだが……実は豊中市で「□イ」を見つけていたりする。この世のどこかにこのパターンを使っていた煉瓦工場が存在していたことは確かなのだ。

それが即ち竹村煉瓦だと有難いのだが、そう断定するにはサンプル数が少なすぎる。無刻印手成形の煉瓦もなかったわけではないし(刻印煉瓦よりも数は多い)、何より京都はほとんど歩いていない。他の工場の煉瓦が流れ込んでいた可能性は十二分に高いのである。

[煉瓦刻印] 江州煉瓦@深草フチ町

江州煉瓦刻印

何しろ京都は大阪と滋賀の間だ。どちらからも煉瓦が流入しているはず。その証拠に江州煉瓦の見本のような刻印煉瓦を発見した。滋賀県守山市に本社があった江州煉瓦、○にGの刻印だ。

[煉瓦刻印] 「セ」刻印再び×2

西播煉瓦刻印西播煉瓦刻印

西播煉瓦刻印そうして「セ」刻印も一つだけじゃない。深草フチ町の真ん中で一つ、西隣の町の畑でも一つ。都合3個の「セ」がこの付近に分布している。「セ」分布の重心が一気に東へ寄った格好だ。

少なくとも京都に「セ」のつく煉瓦工場はなかったから、他所から流入してきたもののはずだが、従前説の=西播煉瓦は再考の余地がある。西播跡地では1つしか見つかっていないし、西播くんだりから京都洛外まで運ばれたとも思いにくい。せめて考えるなら鉄道輸送の実績がある関野だろう。

[煉瓦刻印] 「・一」刻印@深草フチ町

他にも一つ出所不明な刻印煉瓦を見つけた。薄くてわかりづらいが漢数字の1に小さな点が添えられている。打刻に失敗して二度打ちしているものの、拓本でそうだと判断される(それはまた今度掲げる)。こういう家紋があったような気もするのだが。。。これは転石で1つだけだった。

画像の説明その拓本。横線はもうちょっと太いようにも思うのだが、うまく再現できなかった。漢数字の一のようでもあるし、上のチョボと合わせて「∴」のような記号を(楷書で)書いたような感じもする。

[煉瓦刻印] 三ツ矢刻印@深草フチ町

三ツ矢煉瓦刻印

三ツ矢煉瓦刻印ついでに三ツ矢刻印も発見。数多の機械成形煉瓦に混じっていた。金網で見えづらい所にあったんだが、よく見つけたものだと思う。


[煉瓦刻印] 中村窯工株式会社「NYK」

中村窯工株式会社「NYK」耐火煉瓦

以前掲げたNKR耐火煉瓦の次世代版。昭和52年から中村窯工株式会社を名乗った頃の製品。

[煉瓦刻印] ATR刻印耐火煉瓦

ATR耐火煉瓦刻印

あちこちで見かける「ATR」刻印の耐火煉瓦。深草フチ町でも目撃した。この煉瓦の製造者はわかるようでわからない。福岡の荒木窯業株式会社であるように思うのだが確証なし。「TAR」とかもあるもんな。

[煉瓦刻印] 大阪窯業@岡町住宅地

大阪窯業煉瓦刻印

何の変哲もない大阪窯業刻印。そう言えばまだ挙げてなかったな、と思い掲げてみた。とか言いながら以前「改」つきのをupした気もするな。

大阪窯業や岸和田煉瓦のような大工場の刻印は、ぞんないな押され方をしたものが多いように思う。きれいな拓本が取れそうなやつは案外見かけない。マスプロダクションの精神?が浸透していて、そこまで丁寧な仕事をしようと思わなかったのかも知れない。あるいは単に、数が多くてよく見かける(上手いのも下手なのも)だけで、母数が多いせいでぞんざいと感じるだけなのか。


2017-08-14 この日を編集

[近代デジタルライブラリー] 発禁本

なんかふらふらと迷い込んでしまった。共産主義系の本はわかるとして時おり「?」な本が混じっている。「靖國神社記念寫眞寳典」とか「觀光の防府」とか。でもパラパラめくってみると問題点を書いていたり赤鉛筆引かれていたりする。前者は近くの連隊のことに触れているから? 後者は遊郭とか芸妓の玉代とかを細かく解説してあるところ。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10298872/23

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10298002/75

ロレンスの恋愛詩集も発禁。「じらす」が風紀紊乱に相当するとて。(紊乱とまでは書いてないか)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10297741/60

じらす

あげませう、すべての鍵を、
  あなたは私の女城守。
はいりたいときは お入り、
  出かけたいときは お出かけ。

私の魂の部屋々々を
  あなたがちゃらちゃら通るとき、
私はどんなに笑ふでせう、坐つたままで、
  あなたのつまらない家政の役目を。

一ばん小さい食器をば大事にしたり
  一番飾りつ氣のない扉をば嫌つたり、
ああ物好きで、熱心な戀人よ、
  中にあるものに御満足ですか。

私のあらゆる寶に手をつけました、
  不思議でたまらないといふ風に、あなたは。
私のあらゆる道具や四十八手や
  男の機械をいぢりました、あなたは。

ありとあらゆる單獨の美に
  ささやかな狂氣を味ひました、あなたは。
あらゆる罪の鼠をば
  目に入るかぎり 義務として殺しました、あなたは。

それでも、あなたは不足でした。
  それでも、あなたは震へてゐました、かすかな怒りに、
挑んで下さい、あらゆる秘密を、
  あなたのお手のとどかぬ所へ 私はしまつてありますから。

「否」かも知れぬ、「應」かも知れぬ、
  秘密の場所があるかも知れぬ、
下の方にはいとも野蠻の場所があるかも知れぬ、
  あらゆるところに きはみない 恥辱の居間があらうかも知れぬ。

「否」かも知れぬ、「應」かも知れぬ、
  氣に召す方をおとり下さい。
そうしたあなたに 居てもらひたいばつかりに
  私は あなたの 奇妙な膝に嘆願する。

近デジ所収の本には「私のあらゆる寶に」~「義務として殺しました、あなたは。」に線を引いてある。

原文。なる、巻頭のこの詩か。

Tease

I WILL give you all my keys,
You shall be my châtelaine,
You shall enter as you please,
As you please shall go again.

When I hear you jingling through
All the chambers of my soul,
How I sit and laugh at you
In your vain housekeeping rôle.

Jealous of the smallest cover,
Angry at the simpler door;
Well, you anxious, inquisitive lover,
Are you pleased with what’s in store?

You have fingered all my treasures,
Have you not, most curiously,
Handled all my tools and measures
And masculine machinery?

Over every single beauty
You have had your little rapture;
You have slain, as was your duty,
Every sin-mouse you could capture.

Still you are not satisfied,
Still you tremble faint reproach;
Challenge me I keep aside
Secrets that you may not broach.

Maybe yes, and maybe no,
Maybe there are secret places,
Altars barbarous below,
Elsewhere halls of high disgraces.

Maybe yes, and maybe no,
You may have it as you please,
Since I choose to keep you so,
Suppliant on your curious knees.

「masculine machinery」=男らしい 機械。直訳。measureの訳がまずいきがする。

野郎のこころ、あけっぴろげなつもりでも、なかにあるのはがらくたばかりで、興味を持っちゃくれやしないのさ。宝物たる道具とかものさしとかマシーンとかお気に召さないのよ。


2022-08-14 この日を編集

[][煉瓦][煉瓦工場] 東洋組関連情報

東洋組刈谷分局→大野就産所→大野煉瓦工場

刈谷市誌 p.224

明治4年4月 刈谷藩知事土井利教らが中心となって「刈谷士卒生産義社」を起業。農工業を中心とし、後に金銭貸付・質取りも行う(刈谷商社)。一時は横浜、平坂、刈谷に支店をおいていたが明治9年~12年にかけ各支店は解散。

「刈谷士族会」が生産義社の事業を引き継ぐ。明治12年に大野介蔵らによって「東洋組刈谷士族就産所」設立(発展史)。

レファレンス協同データベースに大の煉瓦工場についてのレファレンス事例がある。

刈谷市史年表 P280,284,291,295,310,313,329に"大野介蔵"。
・明治10年内国勧業博覧会に煉化石と瓦を出品。P280 ・明治12年東洋組刈谷士族就産所を設立し、鎮台建築用煉瓦の製造を始める。P284
・明治20年旧刈谷士族授産所は鉄道用煉瓦の製造を開始する。P295

『刈谷が市になるまでの発展史』1955
・p58「四八、刈谷町綜合運動場設置(現公認刈谷球場)」刈谷町に大運動場を設ける為、刈谷旧城跡の隣接地で、元は刈谷授産所であった大野一造所有の 大野煉瓦工場敷地を提供したことについての記載あり

刈谷町誌 p.221~ に大野煉瓦工場の項目あり。

町誌編纂時点(S7前後)の規模
敷地坪数6000坪
建物坪数800坪
一箇年生産額300万個
工場主 大野一造

明治初年全国に六鎮台を設ける計画、この工事に使う煉瓦の製造を企て、明治13年大村某が資本金15万円にてこれが製造に当たらんと福島藩士齋藤實高(ママ)をして各地方を物色せしめ、西参の土質が最も適当とわかり、これを大野定に交渉。定は元士族救済の意味にてこの事業に賛成し旧士族授産所なるものを起こし煉瓦製造を始めた。

斎藤氏は同様の意味で西尾、岡崎、田原の有志にも勧め、結果刈谷と西尾に煉瓦工場、岡崎に土管工場、田原に石灰工場。

 事業開始後鎮台建築が木造に変更され、陸軍に交渉して瓦製造工場に変更、一時は隆盛したが暫時経営困難。知事国貞廉平「大器晩成」の額送る。東海道鉄道創設により再び煉瓦製造を復活。後に大野煉瓦工場となる。

同書には刈谷町窯業生産額一覧あり。M40~の瓦、煉瓦、土管の生産額数。

人物 地方自治功労者の項目に大野定、弟介蔵の記載。煉瓦見本を抱えて町に売りに出たが一本も売れず川に投げ込んで帰ったという逸話などあり。

大野介蔵は松本奎堂の顕彰会などにも参加。lab.ndl.go.jpで検索のこと。

東洋組西尾分局→天工会社→精成組→西尾士族生産所

西尾市史 第4巻 p.108~に詳細あり。

(四)士族生産所の煉化石製造

齋藤実堯:師匠・宇都宮三郎 旧尾張藩士、蘭学系の化学・窯業の大家。新政府の工部権大技長としてセメント、耐火レンガ、人造石の製造にあたってきたが、M16からこれらの事業を民間に移すことになり、愛知県で育成しようと考えた。東京府の士族、旧盛岡藩南部家の家臣、斎藤三平の子

M14頃名古屋に。

三河の土が最適とみて、碧海郡大浜村や知多郡の瓦職人を説得し試作品を作成、上京して陸軍省の砲台築造にあてようと運動した。買い上げが決まったので名古屋に帰り起業に着手。しかし無資力の大山師・虚喝の売名者などと猜疑の声も多かった(大浜村での生産も軌道に乗らず)。

県令や碧海郡長市川一貫、幡豆郡長所重礼らの賛同をとりつける。

旧西尾藩 旧藩主の相続人松平乗承(のりつぐ)が金2000円、粟生重寔(しげただ)以下600人、 旧刈谷藩では大野定以下一藩全て 旧岡崎藩では玉置政治はじめ372人 旧吉田藩(豊橋)松井譲以下390人、 旧田原藩佐藤信邦ほか74人が参加 旧犬山藩にも参加の動き。

設立趣意書に「煉化石の需要は今は三砲台築造用だが、将来は四八砲台が築造されるので需要は無限である」。灯台でも鎮台でもなく砲台を意図してたはず。

東京→西尾の役員への書簡

製造の煉瓦は土質並びに焼き上り頗るよろしく陸軍省の品位検査で第一等に位する由→斎藤某に御用命ぜられたる由

斎藤氏資本金5000円にて製造所建築に着手決定の由 曩きに大浜村天王で製造失敗している(幡豆郡長所重礼談)ので、万一事業失敗したらと心配しているが、探偵を雇って調べさせたら国貞県令より岩倉具視に上申あり、岩倉公も大いに賛成し300円のご加入相成る(政府より応分の就産金貸渡し相成るべし)
※天王 新川町史では新川町鶴ケ崎

開業時期は明らかでないが、明治15年12月8日に設立という手紙の文言、明治16年3月15日の日付のある株券などあり。M15末~16年初め頃か

工場は碧海郡米津村荒子(米津町川向)22~47蕃、1町5反5畝16歩と、その地続きの幡豆郡上町村北大山5、6、7、12、13蕃、4反9畝2歩 土地名義は副社長粟生重寔

p.115

西尾分局 M16下半期の営業収支あり。薪代が粘土代の二倍以上。

M16.10.二度にわたって暴風雨、工場四棟倒壊、煉瓦の損害も大。この頃工員 士族347人、内男子283人、女子64人

p.117

「皇居御造営御用煉瓦及び水筒(道)管製造費概算」
M17 煉瓦一日16598個、土管105個、瓦500枚
月並み定費 2591円

この頃には砲台建築が休止となり皇居用に土管や瓦を製造して凌ぐ。また陸軍省兵営建築用の煉瓦製造に転換。

M17以降資金繰りが悪化、役員からも不満が出る。工費渡しも遅れ気味。よってM18.7より東洋組を離れ西尾工場として独立(『愛知県史』第三巻)。

はじめ天工会社(M18.2.10付定款、M18.4.14付営業規則)。名称変更して精成社となり、上町から塩町に移転と同時に休業(塩町の士族会所・松月堂に本社所在地を移したものとみられる)。

工場敷地や諸機械一式を東京深川亀住町在の笠原光雄に売却。笠原は旧西尾藩主松平家の家令なので、実際の買主は旧藩主相続人松平乗承と考えられる。これを西尾士族に再び貸与する形で同年三月「西尾士族生産所」を設立。 改名で済まさなかったのはいったん解散して債務を帳消しにする意図があった。

「西尾士族生産所」としての操業はM19.3.5より開始。「この節は鉄道局御用の大形煉瓦を製造中」で、10日までに30000個あまりができたが、11日に寒波があり未乾燥のもの1万個が凍てて崩れてしまう その余波で工場一箇所も倒壊。現在の就業人員は男女100人余り、その中で鉄道御用煉瓦の製造能力のあるものはわずかに17、8人に過ぎないので募集に努めている(書簡2 南→笠原書簡)

※鉄道省煉瓦は精成社時代に受注

書簡4 鉄道局御用煉瓦も色合いや焼成方法に種々苦しんだが、漸く色合いも十分なものができるようになり、先般注文の50万個のほかの10萬あるいは20万個の至急の注文分は悉皆上納済み、、50萬個のほうも15、6万は上納済み 先月上納済みの分代金763円を領収した。「右は東洋組創立以来品物を差し出し該代金領収候は全く初めての趣にて今井初め一同雀踊致し候」

刈谷士族生産所その他の煉瓦製造業者はみな鉄道局めあてであるが、規格そのほかで合格せず、どこも瓦解の姿、ひとり西尾工場の発展を「怨望」している さりながら今般郡内楠村において煉瓦製造所出来鉄道省に売り込みの計画をなす赴風聞 金主は大阪のもの 太田庄造は組合目論見候由なり」(太田は地元の著名な鋳物屋

p.126[88K] 精成社→西尾士族時の建物・地所・施設等明細 

p.138 「職工人名」表あり。錦城町矢島貞一蔵。144名

開業2か年目、明治20年の生産状況「御貸下金実況取調書」←生産所操業開始から20年3月までの1カ年の成績。

一ヶ月50万個製造の計画だったが、明治用水の開鑿が始まり出稼ぎ人員が減少して不可能に

期間中に使用した粘土の買入量 1820立坪5合余、薪買入高は86万9365貫目、焼き上げた煉瓦はA、B、C厚型、並形合わせて253万1187個、売上個数は228万5352個。計画の半分以下。

明治20年10月11月中棚揚げの表あり。鉄道省納入分は主に豊橋へ送った。ほかに愛知県師範学校へも。

棚揚げ表より
下等交り煉化石 138831枚 1銭につき7枚
上等イー形 37882本 1000枚につき8.15円
同 デー形 5,381本 1000枚につき7.00円
同 ABC形 52607 1000枚につき6.00円
同 厚形 64672 1000枚につき8.15円
同 並形 1,889 1000枚につき4.00円
同 イロハ印形 1395 8370 1000枚につき6.00円
下等交り形 33,070 1銭につき8枚
エー形白地 7,168 1000枚に付き 1.10円
デー形白地 6947 1000枚につき 1.17

M21下半期「計算書」あり。煉化石売却代は前資料の約三分の一まで低下。末尾にM22.3.27の日付あり。

明治25年頃には廃絶したとされる。ただし明治23年地所を売却したという記録もあり(西尾市史6 年表

→明治23年「8月11日、 士族生産所の煉瓦工場跡地三町二反を一三七〇円で、煉瓦屑一万六〇〇〇本を一車三銭ずつで、下町の荒川仁太郎が買って、西域用水から水を引いて耕地化した。(士族生産所の廃絶の時機が明確でないので、この年月には疑問がある)。」

明治工業史 第9編 化学工業編 pp.547~548

小菅集治監の登り窯=三河からの技術輸入。

M15、6年の交、陸軍省で富津・観音崎灯台の建設に際し東京産煉瓦の品質に不安があると聞いて旧南部藩士にして大学南校で応用化学を収めた齋藤實堯が碧海郡大浜村字新川で煉瓦製造工場を開設し見本を陸軍省に供す→直ちに採用され更に幡豆郡西尾町、額田郡岡崎町等に製造所を起こし、当時東京集治監の技師たりし小倉常祐、高木忠五郎を聘して盛んにその事業を拡張。一面には士族授産の目的にもそわしめる。愛知県知事国貞県令もこれを大いに支援。ついで皇居御造営に際してもその煉瓦の大半を調達すべき命を受けそんなこんなで三河の煉瓦業は一時に大発達。ただしその製法は、普通手抜天日乾燥で、英国式の野焼釜を築き燃料には専ら紀州熊野産の松薪を用いた。経済上において失敗。のち明治19年東海道線の建設が始まり需要激増し、登り窯を築いてその供給力を増進。関東各地の製造所に三河人多し。

関東からの技術指導があったとすれば製法は関東風になっているはずだが、上記指導は刈谷分局に対してなのか、西尾分局なのか、あるいは両方か。

齋藤實堯

開校廿周年記念東三河産業功労者伝に詳細あり。明治11年頃三重県で紡績業を指導、染色法の著作もあり。この本では田原でのセメント製造への関与を中心に書かれている。


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