トップ «前の日記(2022-08-13) 最新 次の日記(2022-08-15)» 編集
1941|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
1942|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
1943|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|
2005|09|10|11|12|
2006|01|02|03|04|05|06|10|11|12|
2007|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2008|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2009|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2010|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2011|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2012|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2013|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2014|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2015|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2016|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2017|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2018|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2019|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2020|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2021|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2022|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2023|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2024|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2025|01|02|03|04|05|

旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
本日のアクセス数:0|昨日のアクセス数:0
ad

独言 | bdb | C60 | D | KINIAS | NDL | OFF-uploader | ORJ | pdb | pdf | ph | ph. | tdb | ToDo | ToRead | Web | web | きたく | | なぞ | ふむ | アジ歴 | キノコ | コアダンプ | | ネタ | ハチ | バックナンバーCD | メモ | 乞御教示 | 企画 | 偽補完 | 力尽きた | 南天 | 危機 | 原稿 | 古レール | 土木デジタルアーカイブス | 土木構造物 | 大日本窯業協会雑誌 | 奇妙なポテンシャル | 奈良近遺調 | 宣伝 | 帰宅 | 廃道とは | 廃道巡 | 廃道本 | 懐古 | 戦前特許 | 挾物 | 文芸 | 料理 | 新聞読 | 既出 | 未消化 | 標識 | 橋梁 | | 滋賀県道元標 | 煉瓦 | 煉瓦刻印 | 煉瓦展 | 煉瓦工場 | 物欲 | 独言 | 現代本邦築城史 | 産業遺産 | 由良要塞 | 発行 | 看板 | 石垣 | | 竹筋 | 納得がいかない | 索道 | 絵葉書 | | | 資料 | 近世以前土木 | 近代デジタルライブラリー | 近代化遺産 | 近遺調 | 道路元標 | 道路考古学 | 道路遺産 | 都計 | 醤油 | 陸幼日記 | | | 鯖復旧 | 鳴門要塞

2022-08-14 [長年日記]

[][煉瓦][煉瓦工場] 東洋組関連情報

東洋組刈谷分局→大野就産所→大野煉瓦工場

刈谷市誌 p.224

明治4年4月 刈谷藩知事土井利教らが中心となって「刈谷士卒生産義社」を起業。農工業を中心とし、後に金銭貸付・質取りも行う(刈谷商社)。一時は横浜、平坂、刈谷に支店をおいていたが明治9年~12年にかけ各支店は解散。

「刈谷士族会」が生産義社の事業を引き継ぐ。明治12年に大野介蔵らによって「東洋組刈谷士族就産所」設立(発展史)。

レファレンス協同データベースに大の煉瓦工場についてのレファレンス事例がある。

刈谷市史年表 P280,284,291,295,310,313,329に"大野介蔵"。
・明治10年内国勧業博覧会に煉化石と瓦を出品。P280 ・明治12年東洋組刈谷士族就産所を設立し、鎮台建築用煉瓦の製造を始める。P284
・明治20年旧刈谷士族授産所は鉄道用煉瓦の製造を開始する。P295

『刈谷が市になるまでの発展史』1955
・p58「四八、刈谷町綜合運動場設置(現公認刈谷球場)」刈谷町に大運動場を設ける為、刈谷旧城跡の隣接地で、元は刈谷授産所であった大野一造所有の 大野煉瓦工場敷地を提供したことについての記載あり

刈谷町誌 p.221~ に大野煉瓦工場の項目あり。

町誌編纂時点(S7前後)の規模
敷地坪数6000坪
建物坪数800坪
一箇年生産額300万個
工場主 大野一造

明治初年全国に六鎮台を設ける計画、この工事に使う煉瓦の製造を企て、明治13年大村某が資本金15万円にてこれが製造に当たらんと福島藩士齋藤實高(ママ)をして各地方を物色せしめ、西参の土質が最も適当とわかり、これを大野定に交渉。定は元士族救済の意味にてこの事業に賛成し旧士族授産所なるものを起こし煉瓦製造を始めた。

斎藤氏は同様の意味で西尾、岡崎、田原の有志にも勧め、結果刈谷と西尾に煉瓦工場、岡崎に土管工場、田原に石灰工場。

 事業開始後鎮台建築が木造に変更され、陸軍に交渉して瓦製造工場に変更、一時は隆盛したが暫時経営困難。知事国貞廉平「大器晩成」の額送る。東海道鉄道創設により再び煉瓦製造を復活。後に大野煉瓦工場となる。

同書には刈谷町窯業生産額一覧あり。M40~の瓦、煉瓦、土管の生産額数。

人物 地方自治功労者の項目に大野定、弟介蔵の記載。煉瓦見本を抱えて町に売りに出たが一本も売れず川に投げ込んで帰ったという逸話などあり。

大野介蔵は松本奎堂の顕彰会などにも参加。lab.ndl.go.jpで検索のこと。

東洋組西尾分局→天工会社→精成組→西尾士族生産所

西尾市史 第4巻 p.108~に詳細あり。

(四)士族生産所の煉化石製造

齋藤実堯:師匠・宇都宮三郎 旧尾張藩士、蘭学系の化学・窯業の大家。新政府の工部権大技長としてセメント、耐火レンガ、人造石の製造にあたってきたが、M16からこれらの事業を民間に移すことになり、愛知県で育成しようと考えた。東京府の士族、旧盛岡藩南部家の家臣、斎藤三平の子

M14頃名古屋に。

三河の土が最適とみて、碧海郡大浜村や知多郡の瓦職人を説得し試作品を作成、上京して陸軍省の砲台築造にあてようと運動した。買い上げが決まったので名古屋に帰り起業に着手。しかし無資力の大山師・虚喝の売名者などと猜疑の声も多かった(大浜村での生産も軌道に乗らず)。

県令や碧海郡長市川一貫、幡豆郡長所重礼らの賛同をとりつける。

旧西尾藩 旧藩主の相続人松平乗承(のりつぐ)が金2000円、粟生重寔(しげただ)以下600人、 旧刈谷藩では大野定以下一藩全て 旧岡崎藩では玉置政治はじめ372人 旧吉田藩(豊橋)松井譲以下390人、 旧田原藩佐藤信邦ほか74人が参加 旧犬山藩にも参加の動き。

設立趣意書に「煉化石の需要は今は三砲台築造用だが、将来は四八砲台が築造されるので需要は無限である」。灯台でも鎮台でもなく砲台を意図してたはず。

東京→西尾の役員への書簡

製造の煉瓦は土質並びに焼き上り頗るよろしく陸軍省の品位検査で第一等に位する由→斎藤某に御用命ぜられたる由

斎藤氏資本金5000円にて製造所建築に着手決定の由 曩きに大浜村天王で製造失敗している(幡豆郡長所重礼談)ので、万一事業失敗したらと心配しているが、探偵を雇って調べさせたら国貞県令より岩倉具視に上申あり、岩倉公も大いに賛成し300円のご加入相成る(政府より応分の就産金貸渡し相成るべし)
※天王 新川町史では新川町鶴ケ崎

開業時期は明らかでないが、明治15年12月8日に設立という手紙の文言、明治16年3月15日の日付のある株券などあり。M15末~16年初め頃か

工場は碧海郡米津村荒子(米津町川向)22~47蕃、1町5反5畝16歩と、その地続きの幡豆郡上町村北大山5、6、7、12、13蕃、4反9畝2歩 土地名義は副社長粟生重寔

p.115

西尾分局 M16下半期の営業収支あり。薪代が粘土代の二倍以上。

M16.10.二度にわたって暴風雨、工場四棟倒壊、煉瓦の損害も大。この頃工員 士族347人、内男子283人、女子64人

p.117

「皇居御造営御用煉瓦及び水筒(道)管製造費概算」
M17 煉瓦一日16598個、土管105個、瓦500枚
月並み定費 2591円

この頃には砲台建築が休止となり皇居用に土管や瓦を製造して凌ぐ。また陸軍省兵営建築用の煉瓦製造に転換。

M17以降資金繰りが悪化、役員からも不満が出る。工費渡しも遅れ気味。よってM18.7より東洋組を離れ西尾工場として独立(『愛知県史』第三巻)。

はじめ天工会社(M18.2.10付定款、M18.4.14付営業規則)。名称変更して精成社となり、上町から塩町に移転と同時に休業(塩町の士族会所・松月堂に本社所在地を移したものとみられる)。

工場敷地や諸機械一式を東京深川亀住町在の笠原光雄に売却。笠原は旧西尾藩主松平家の家令なので、実際の買主は旧藩主相続人松平乗承と考えられる。これを西尾士族に再び貸与する形で同年三月「西尾士族生産所」を設立。 改名で済まさなかったのはいったん解散して債務を帳消しにする意図があった。

「西尾士族生産所」としての操業はM19.3.5より開始。「この節は鉄道局御用の大形煉瓦を製造中」で、10日までに30000個あまりができたが、11日に寒波があり未乾燥のもの1万個が凍てて崩れてしまう その余波で工場一箇所も倒壊。現在の就業人員は男女100人余り、その中で鉄道御用煉瓦の製造能力のあるものはわずかに17、8人に過ぎないので募集に努めている(書簡2 南→笠原書簡)

※鉄道省煉瓦は精成社時代に受注

書簡4 鉄道局御用煉瓦も色合いや焼成方法に種々苦しんだが、漸く色合いも十分なものができるようになり、先般注文の50万個のほかの10萬あるいは20万個の至急の注文分は悉皆上納済み、、50萬個のほうも15、6万は上納済み 先月上納済みの分代金763円を領収した。「右は東洋組創立以来品物を差し出し該代金領収候は全く初めての趣にて今井初め一同雀踊致し候」

刈谷士族生産所その他の煉瓦製造業者はみな鉄道局めあてであるが、規格そのほかで合格せず、どこも瓦解の姿、ひとり西尾工場の発展を「怨望」している さりながら今般郡内楠村において煉瓦製造所出来鉄道省に売り込みの計画をなす赴風聞 金主は大阪のもの 太田庄造は組合目論見候由なり」(太田は地元の著名な鋳物屋

p.126[88K] 精成社→西尾士族時の建物・地所・施設等明細 

p.138 「職工人名」表あり。錦城町矢島貞一蔵。144名

開業2か年目、明治20年の生産状況「御貸下金実況取調書」←生産所操業開始から20年3月までの1カ年の成績。

一ヶ月50万個製造の計画だったが、明治用水の開鑿が始まり出稼ぎ人員が減少して不可能に

期間中に使用した粘土の買入量 1820立坪5合余、薪買入高は86万9365貫目、焼き上げた煉瓦はA、B、C厚型、並形合わせて253万1187個、売上個数は228万5352個。計画の半分以下。

明治20年10月11月中棚揚げの表あり。鉄道省納入分は主に豊橋へ送った。ほかに愛知県師範学校へも。

棚揚げ表より
下等交り煉化石 138831枚 1銭につき7枚
上等イー形 37882本 1000枚につき8.15円
同 デー形 5,381本 1000枚につき7.00円
同 ABC形 52607 1000枚につき6.00円
同 厚形 64672 1000枚につき8.15円
同 並形 1,889 1000枚につき4.00円
同 イロハ印形 1395 8370 1000枚につき6.00円
下等交り形 33,070 1銭につき8枚
エー形白地 7,168 1000枚に付き 1.10円
デー形白地 6947 1000枚につき 1.17

M21下半期「計算書」あり。煉化石売却代は前資料の約三分の一まで低下。末尾にM22.3.27の日付あり。

明治25年頃には廃絶したとされる。ただし明治23年地所を売却したという記録もあり(西尾市史6 年表

→明治23年「8月11日、 士族生産所の煉瓦工場跡地三町二反を一三七〇円で、煉瓦屑一万六〇〇〇本を一車三銭ずつで、下町の荒川仁太郎が買って、西域用水から水を引いて耕地化した。(士族生産所の廃絶の時機が明確でないので、この年月には疑問がある)。」

明治工業史 第9編 化学工業編 pp.547~548

小菅集治監の登り窯=三河からの技術輸入。

M15、6年の交、陸軍省で富津・観音崎灯台の建設に際し東京産煉瓦の品質に不安があると聞いて旧南部藩士にして大学南校で応用化学を収めた齋藤實堯が碧海郡大浜村字新川で煉瓦製造工場を開設し見本を陸軍省に供す→直ちに採用され更に幡豆郡西尾町、額田郡岡崎町等に製造所を起こし、当時東京集治監の技師たりし小倉常祐、高木忠五郎を聘して盛んにその事業を拡張。一面には士族授産の目的にもそわしめる。愛知県知事国貞県令もこれを大いに支援。ついで皇居御造営に際してもその煉瓦の大半を調達すべき命を受けそんなこんなで三河の煉瓦業は一時に大発達。ただしその製法は、普通手抜天日乾燥で、英国式の野焼釜を築き燃料には専ら紀州熊野産の松薪を用いた。経済上において失敗。のち明治19年東海道線の建設が始まり需要激増し、登り窯を築いてその供給力を増進。関東各地の製造所に三河人多し。

関東からの技術指導があったとすれば製法は関東風になっているはずだが、上記指導は刈谷分局に対してなのか、西尾分局なのか、あるいは両方か。

齋藤實堯

開校廿周年記念東三河産業功労者伝に詳細あり。明治11年頃三重県で紡績業を指導、染色法の著作もあり。この本では田原でのセメント製造への関与を中心に書かれている。


トップ «前の日記(2022-08-13) 最新 次の日記(2022-08-15)» 編集