nagajisの日不定記。
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午后模範生徒殿に藤森さん松原さんがなられる旨わかりたり。いよヽ前期の深谷さん正木さんと分れなければならぬ事を感じさびしき感せり。寝台襲撃は会議の結果止められたり。
豚になるために魔法にかかる必要があったのだろう
TUKA氏の指摘を受けて改修中。間に合うのか・・・。
逃避気味にメモ。今年も宮滝で溺死者。毎年必ずここで人が亡くなると聞いたが本当らしい。確か遊泳禁止であったはずなんだが・・・。違ったッけか。
(こう見えても)死ぬ気で修正をしたんだ・・・暇な方、DLページ末尾の修正前版を読み比べてください。とはいえ今日はお盆だからアクセス少ないだろうな。
アンケートの自動生成がうまくいかず。要確認。ORJ_0907からコピーした。
@PM10:27
知り合いとともに河川敷の小高い堤の上にある斬新な意匠の筒井邸に招かれ初期のオーディオセット位ある馬鹿でかい東芝Rupoを貰ったりするイベントののち部屋にキノコガ生えて戦くという夢を見た。前段後段の間にもう少しあって脈絡が繋がっていたはずだが忘れた。
キノコは二種類ある。一つは半ば動物化したキノコであちこちへ歩き回って好き勝手に定着しやがる。大きさは4、5cmでシメジを稍大きくしたような色形をしている。裂いたブナシメジの石突側が2又に分かれてヘコヘコ歩く。毒はなさそうだが気持ち悪い。布団の上とかベットの影とかで繁殖されてしまう。
定着すると傘の頭がバンコランの口の如くに裂ける。そこから胞子(卵?)を蒔き散らすようだ。みなまで見る前にもぎ取って捨てた。捨てたとはいえ部屋の一隅へ(あとでまとめて捨てるつもりで)放っただけだ。布団をはがし荷をどけてしてキノコを探しては毟ってポイする。
そのうち別種のキノコが生え出す。ブルーベリーの蕾あるいはスズランの花の如き壷型をしている。ヒョロヒョロと伸びる茎?の先に壷型の笠。実際にあるキノコのようでもある。白い。どのみち布団の上に生えるなんて異常なのだからと思い、毟って放る。
そのうち障子の桟に白いサナギがついているのを発見した。ついでに片付けておこうと思い毟ろうとするが透けた中身が螢火のごとくにぼうっと光る。何だこれ?と思って弄んでいるうちに羽化した。中身は虻のような蛾のような虫。黒い身体の側面に四角い発光体が並んでいる。豊海橋フィーレンディールの格子の如し。ホウと思っているうちにブーンと飛んでいく。部屋の明かりを消すと確かに螢さながらの緑色の輝き。
「流木に括りつけられた姿で海岸に打ち上げられた、元警官の死体。事件の背後にはこんな…」的なナレーションで始まる。物陰から町中を映した映像。隠し撮りというほどではないがやや陰媚な感じがする。一人の男にフォーカスが当たっている。左奥から右手前に向かって伸びる橋詰道路に沿って歩くその男を追う。ナレーションのいう元警官とは彼のことであるようだ。それなりに着飾った姿でありイケメンである。
橋詰道路に停まったオープンカーの助手席に花束が置かれている。男はさもさりげなくその花束を拾い上げ(盗み)、包み紙をはがしながら歩いてゆく。すぐに橋。ちょうど戎橋のような感じで歩行者天国らしく橋一杯に人が闊歩している。
一連の動きを追っているカメラは滑らかに俯瞰へ移っていく。包み紙、花を束ねた輪ゴムを剥き取って捨てた男は花束をバラして道行く人に配り出す。橋の上から向こうの橋詰道路にかけて同様に花を配っている男が5、6人。こちらは葬儀に使った花らしくスーツ姿に菊が目立つ。献花を持って帰ってもらうと云々という風習の一環のようでもある。しかし男が花を配る理由はナンパだ。女性ばかりを狙って付きまとっている姿はひどく浮いている。
あまりにしつこくつきまとうので嫌がる女性が多数出てくる。いたたまれなくなって出ていく自分。「兄さん、やめとけや、嫌がっとるやん」。実体の自分はそんなお節介をすることなどないがやってみたい気分はあった。それを紛らそうというのだろう。幸いなことにここでは迷惑を被った女性陣が手助けしてくれた。「そうよそうよ」
途端にたじたじとなる男。追い討ちをかけてみる。「兄さんナンパしてどないしますのん」。男曰く「この先の2駅ほど行ったところでセールをやってて、ポイントが云々…」。どうも複数人でゆくとポイントが沢山溜まるらしく、その人手として道行く女性を引っ掛けようとしていたらしい。なんという弱ッな理由。仮にそのままどこかへ拉致するのだとして(その言い訳だとして)も鼻で笑ってしまうようなでっちあげだ。
「(笑)しかし兄さん、嫌がる人を無理矢理連れていくんは良くないと思うぜ」。そう言って次の語を継ごうとするが上手い警句が出て来ない。手助けしてくれている女性の手前だ。何かかっこいいこと言わんと場が持たんな。そう思いながらこんなことを言った。
「おれは自転車が好きで、一人であちこち行く。何でかってゆうたら人を連れていくんは大変やからな。寂しいことも多いが人連れてゆくんは大変や。そん人が「行きたい」と思わんようやったらなおさらやな。無理に連れていってもお互い楽しくあらへんやろ」
夢の中の自分は「クーッ決マッター」とか何とか考えていたし周囲も「そうだそうだ!」という論調で非難し始めたので場にそぐう発言だとしたり顔であったのだが、冷静になって考えてみると(前記はたぶん再現度95%)全然場と無関係な話だ。それで何を言いたかったのか。上手いことを行ったつもりか。
ともかくその場はそういう流れて男はさんざん詰問される側へ。自分はもうええやろと思って立ち去るがこの辺で冒頭のナレーションを思い出す。あの男、その後(ある意味)簀巻きにされて海に放り込まれるのだったな。あんなことをしているからだ自業自得だ。待てよ。ということは犯人があの集団の中にいたのかも知れない。恐い恐い。自然足早になりその場を離れていく。
という内容で探索は無し。
たしかに違うところにピークがあったが。やはり全部目を通さないと喋っちゃだめだな。
足を伸ばして野迫川村史も見てきた。見てこなかったら↑が説明できないところだった。あとは統計の罠にはまらんよーに気をつけんと。
川端線はS57.9.30限りで廃止。第9877号。
最近胃袋が小さくなったことを実感する。承前のきしめんをカレーうどんにして食おうとしたのだが全部食べ切れなかった。2玉入りのきしめんゆえ量的には2人前で、それくらいならいとも簡単に入る程度の胃袋を自負していたのだが、まさかの敗北を喫してしまった。先日のカレーもヒダル神のためにわざと食べ残した弁当の如き残し方をしてしまった。そのくせ空腹感は以前通りのインターバルで襲い来るのである。これは自転車旅を開始した直後の胃袋の状態にも似ている。無理にでも2合飯3合飯を突っ込んでいれば2、3日ほどで最適化され晩に4合朝に2合食うサイクルになるが、エナジーを要しない普段の生活でそんなことをしていては収支が破綻してしまう。何より無駄なことはしたくない。
これを何十年も繰り返していたら「おじいちゃんさっき食べたでしょ」になることがありありと想像されて薄ら寒かった。その前に「おじいちゃん」と呼んでくれる存在がいるかどうかあやういが。
八鹿のあの歌は春日八郎が歌っていたのではないか。と、ラジオ深夜便の春日八郎特集を聞きながら気づいてしまったのである。嗚呼アメリカ製のジャンバーを着た花売り娘。
@PM6:45。しばし待たれ碓。
発行した@PM7:45。
資料読み込む暇がねえ。長殿1修正する暇もねえ。ていうか表紙に誰も突っ込まねえ。あっKINIASの議事録も作ってねえ・・・。
紀和索道と弓手原索道のコピーを忘れるな。今月後半・来月前半が勝負。
新カテゴリ。コアダンプほど明確な考えでないが捨てるにおしいもの。奇ポテみたいなもん。
AKBとSKBの演技力の違いを考えていて「役を演じる」のと「役になりきる」の違いを考えた。素をさらけだしているから上手いor人気が出るんじゃないよな。お約束をお約束として演じられるかどうか。人そのものの人気と役の人気の違い。歌舞伎の役と役者みたいなものか。市川団十郎が普段の生活で見栄切ったりしない。助六が白血病になったりしない。
記事書くのも似たようなところがある。中途半端だよなー。演じるわけでも晒すわけでもなくで書いてきた、多分後者のつもりだけれども、よっぽどの人格者か他人の見本になるような人間性を持ち合わせてなきゃ参考にされることもないだろうさ。表向きには役者だといいながら自分の感性を売り込もうとして必死なのだから、そりゃ違うわ。
せっかく気合いを入れてゴーヤーチャンプルーをしばいたろうと思ったのに豆腐を忘れた。これではただの野菜炒めの卵とじではないか。
しかし何げに入れたキュウリのぶつ切りがいい味を出している。これは新基軸。
とさも新発見のごとくに書いてしまったが、よう考えたらキュウリもゴーヤーも同じ仲間じゃん。キャベツの千切りに赤キャベツ混ぜたようなもんじゃん。ちぇ。
「本を書かせていただきました」「料理を作らせていただきました」。その卑屈は確か近江商人が発祥だと聞いた覚えがある。悪くはない。悪くはないが、時おり鼻につく。そんなに卑屈になるなら最初から作るな。お前は近江商人か。近江商人ほど慎み深い暮らしをしてきた上でのその発言か。そう思う瞬間がないでもない。そうしてこれが大事なのだが、自分自身そういう物言いをすることが多い。自分自身に感じる情けなさの裏返しの八つ当たりなんだろうと思う。
自分の所作を素直に表現できるようになるには、あと何歳年を重ねたらいいのだろう。いつになったら池シャアシャアな境地になれるのだろう。死ぬまで無理だろうなこの生き物は。生物(ナマモノ)でも可。
このクソ忙しいのに何やってんだと思われもしないだろうが過去の訪問記録を片付けておく。
古い地形図で窯業窯マークが連なっている内川のほとり。旭商社の窯もこの付近にあった。左手に見えるのが柳ノ町の住宅街(内川に降りて南を向いて撮影)。工場跡はすっかり住宅地になり切っていて、堀川も丁寧に整備され遊歩道と化している。この一帯に古煉瓦を見ることはできなかった。そもそもあれか…明治30年代に消滅した工場の刻印が見つかるのはかなり稀なことで、住宅地が掘り返されているところに遭遇するとかいう邂逅がなければまず無理だろう。
大阪窯業、岸和田煉瓦に次いで大きかった日本煉瓦の工場。いまその場所は堺市営住宅が占拠している。わずかに残る痕跡は敷地北西隅の煉瓦壁。北隣にある自動車工場との境界をなしているが、ここに日本煉瓦の刻印が見られることから、同社の築いたものと想像される。市街地でよく見られる数字入りのではなく、社章そのもののやつだ。
西の横綱・大阪窯業の繁栄の基礎を築いた堺工場。明治31年に操業を開始し大正13年まで赤煉瓦を製造した。いまの大浜公園の北半分と、南海鉄道(当時は阪堺)の線路際までの広大な敷地を工場としていたようだ。今この場所には「大阪窯業煉瓦工場之跡」の碑が立つだけになっている。線路際には大きなマンションが林立し、古煉瓦の一つも落ちていない。いや、公園隣の空き地にはカケラが落ちてたか。
大阪窯業が越してくる以前、この辺りに堺附洲煉瓦があったはずなのだが、それを買収して敷地を得たわけではないらしい。『大阪窯業五十年史』にはただ土地を得て開業したと書かれてあるだけだ。
堺にあった無数の煉瓦工場のなかで、唯一わかりやすい痕跡が残っているのが丹治煉瓦。明治30年代に作られたという会社事務所が残っている。いまは有志が手入れをして、事務所跡を中心とする街並み作りが進められているそうだ。ステンドグラスが使われていたりもする洒脱な煉瓦建築である。
大写真はその事務所。小は向かいにある民家の壁。他にも近くの佃煮屋さんが煉瓦建築で営業している。全く同じ煉瓦ワークが採用されており、関連する建物だったかも知れない(どれにも丸丹刻印が入っている)。ちなみに刻印を観察するには、透かし積みになった煉瓦の裏側を見るとよい。表側は砂埃が覆っていて見にくい。
樽井煉瓦の跡地は空地のまま残されている。南東隅に残るのは工場主だった矢代氏の住宅だろうか? さまざまな色の釉薬がけをした煉瓦が壁に使われている。煉瓦でもこんな鮮やかな色が出るのだ。
老舗の一つ・堺煉瓦の工場があった辺りを堅川の対岸から見る。いまは完全なる工場地帯である。もう少し厳密に言えば、いま国道26号が貫いている辺り(確かこの道はあとでできたものじゃなかったっけか)や、その東側のリーガロイヤルホテルの辺りまで広がっていたようだ。大正末の市街地図では長崎紡績所になっているが、この会社、堺煉瓦の社長・太田貞一がちゃっかり副社長に収まっていたりする。
国道26号堅川橋から南海堺駅方向を眺める。手前の大きなビルがリーガロイヤルである。
関西地方で最初に商業的に煉瓦製造を始めた原口煉瓦工場は、住吉橋通2丁目(新町)にあったという。それから約140年経過した今日、そこで煉瓦を探すのは、関ヶ原で甲冑や鏃を探すのと同じくらいに無駄なことである。歩き回ってみたけれども手成形煉瓦すら見つからなかった。
写真は新榮橋から北を向いて撮影。昔はここから北西方向に流れる堀川があって、住吉橋通は洲のようになっていた。
明治20年代の地形図を見るとここに3つの窯マークがある。全部原口工場のものだろう。原口工場はM25頃から記載されなくなり、かわりに子師工場、岩井工場(紀谷工場)、石井工場が登場する。敷地を分割し3つの個人工場が興ったのではないかと想像するのだが、裏付けとなる資料は見つかっていない。というよりもドコを当たればいいかもわからない。堺市に資料があったらこんな苦労はしないのだ。
旧墨江村・千体村の周辺には明治20年代から30年代にかけていくつかの工場が興った。盛秀舘(M19-25)、三栄社(M20-34)、千躰煉瓦製造所(M20-26)、東洋煉化製造所(M27-30:創業はM19となっているがM27が初出)、など。この頃の資料には番地まで書かれていないので、資料だけではどの会社がどの工場を継承したのか特定することはできない。
一度だけこの辺りを歩いたことがある。古い民家はそこそこあって、手成形煉瓦や刻印煉瓦も見られたのだけれども、ここ特有の刻印というのは見つけられなかった。探した場所が悪いのかも知れない。旧版地形図を持っていくのを忘れ、どの辺りが中心街なのか把握できないまま闇雲に歩き回っただけだ。
町を東西に横切る川のほとり、取り壊しが済んだ住宅の跡(マーカーの位置)で、ちょっと面白い煉瓦を見つけている。上の小さな煉瓦がそう。下は東京形の煉瓦である。サイズ的には泉布観に使われている「YEGAWA」刻印の煉瓦と同じ。サイズだけで言えばずいぶん古そうなものである。残念ながら刻印はない。
↑うん、片付けといてよかった。姑息もいいところだが。結果的にnagajisしか書いてない号になったが自分の責任ではない。そうしてまた売り上げが半減するんだろうな(乾いた笑い)
書かないと言って書くのもある意味有言不実行だな。
煉瓦工場の件、少し追記しておこう。
西尾士族生産所の資料を見ていて、21年の棚揚げの表に「並形」煉瓦の納入が記されていることに気づく。これとは別に「厚形」もあって、量はそちらのほうが多い。この「並形」は並形という形式に言及した最初期のものと思う。
東海道線中京区間の建設に使われた煉瓦はことごとく肉厚の煉瓦であった節があり、この状況は天竜川橋梁の辺りまでは確認できた(つーても浜名湖と天竜川しかみていないのだけど)。『西尾市史』にある手紙にも鉄道局御用の厚形煉瓦と書いてあった。もしかしたら全線的に、規格として肉厚煉瓦が採用されていたのかも知れない。この建設に合わせて従来より厚い煉瓦を採用することになり、その厚形煉瓦と従来の煉瓦を区別するために「並形」という表現が生まれ、それが関西方面に逆輸入されたのかも知れぬ。時期としては合うのである。『建築学提要』の頃にはまだ大阪形と呼称していた。それがM25頃の市場価格調査では並形になっている。M24には作業局が普通煉瓦の規格を定めていることもあり、従来品を特に呼ぶ呼称は必要性を増していたはずである。
そうか、同じ頃山陽鉄道も肉厚の山陽形を作り始めていた。『建築学提要』では大阪形東京形と並んで山陽形が掲げられている。
じゃあなんで東海道線建設で肉厚煉瓦が採用されるようになったのかという話。そこに村井嘱の三工場が関わってくるのではないかと想像する。静岡県下に三工場を設けて煉瓦を供給したわけだが、付近の粘土は関西の土ほど良好ではなかったはずで、関西で製造していたような厚さの煉瓦を焼くのが難しかったゆえに、厚さを増すことで対応しようとしたのではないか。少なくとも5種類以上あった異形煉瓦なんかは焼製時に変形してしまうと規格をたてた意味がなくなる。
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_ nagajis [失礼しました、さきほど修正しました・・・]
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_ nagajis [ごめんなさい・・・修正しました・・・]