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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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1941-09-25 この日を編集

[陸幼日記]九月二十五日 木曜日 晴

教育総監部本部長閣下の熊幼御巡視ありたり。学科に教練に吾等を視られたり。会食なり。芝生植工の作業を行う。十年後の熊幼が思いやられたり。其の時となり、今を思う心ぞ如何。


1942-09-25 この日を編集

[陸幼日記]九月二十五日 金 晴

近日急に忙しくなりたる感なし仕事に追われがちなり。必ずヽ積極的なれ。教練は膝撃ちの姿勢を実施。愈〃教練らしき教練となりぬ。新訓育部長殿工藤中佐殿(仙幼出身)の命課布達式あり。元気体内に満々たる方にて厳格なるを感ぜしめられたり。自習中の時間の利用今日初めて大率可なりき。
近日中最も有意〔義〕に過したる日にて予満足す。


1943-09-25 この日を編集

[陸幼日記]九月二十四日〔鉛筆で四→五訂正〕 土 曇雨

昨夕は大部暑く、今朝は喇叭まで熟睡す。明日の準備に終日忙し。午後は山地訓練の学科及び軍装検査なりき。体重八〇〇増。而し乍ら未だヽ不可なり。咀嚼を要す。訓練間は克く噛む事を特に留意せん。最も可。


2008-09-25 この日を編集

[] 没の人

画像の説明没の人。どっかで使えんかな・・・。


2009-09-25 お待たせしました この日を編集

[ORJ] アイテム群発送

連休挟んで一週間近く溜まっていたバックナンバーCDを発送。到着までもうしばらくお待ちください>各位。作って持っていってたらもう少し早く出せたのだろうけれど・・・抱えて山歩くわけにもいきますまい。

[KINIAS] 幹事会

いろんなことがさりげなくさっさっと決まって、さすが会議に慣れている先生方という幹事がする。もとい感じがする。会の運営ってこのようにあるべきなのだろう。で、自分のペーパーはまだ中途だ!まとまらねぇ!

[ORJ][ToDo] 販売強化月間

ここのところORJ誌の売り上げが少しずつ落ちてきてて,一方でこれから入り用になる場面が出てきそうな塩梅(例えば「廃道をゆく2」の執筆しなきゃいけないので取材に行かなきゃいけないとか,初孫が生まれたのでお祝を送らなきゃいけないとか(誰 )なので,販売強化月間とか何とか銘打って売込みを強化したいという話になっている.実際問題廃道巡やトークイベントが成功裡に終わったといっても持続的な収入源にはなってくれず,我々もまた霞を食って生きていける仙人ではないのだった.廃人(はいんちゅ)にはなれるだろうが仙人は無理だ.

苦手なんだよなあこういうの.自分や自分の書いたものを売込むのって.資本主義の基本だということはわかってるんだけど,カネカネキンコとか何とか非難の声があがるのは目に見えているし,商売ッ気を出すと間違いなく失敗するし(nagajisが),そうでなくても失敗するし(nagajisが).しかしまあその非難なり失敗によって失うのは自己に対する評価であって,畢竟自分が傷つくのがイヤなだけなんだろう>nagajisと思ったりもする.なのでやる.

とか何とかクダを巻くnagajisだが,本質は収入減より最新号の売れ行きの低下,と書くと同義か,最新号を確実に購読してくださっている層が徐々に減っていることが問題で,それが気掛かりでならない.最新号を確実に読んで下さっている方,すなわちORJを面白いと思ってくださり読んでくださってる方は総数の1/4ほどで,これが徐々に減少してくださりつつあるということはORJ誌の方向性がくだされた嗜好とズレていってるのではないかと判断されるということだ.今年の5,6月頃から何となくその傾向があったのだが.やはり東熊野が(以下自粛,個人的には廃道本やその他現実世界での進捗に比べて停滞気味なのも何とかしたい.

具体的には過去読者の評判が良かった記事を一つにしてベスト版を作り,今の無料号(18号)と差し換えて,無料で読めるようにする.今ナニをやっているのか読んでもらうことで読者の掘り起こし(というより18号で断念してしまった方々の再発掘)ができないかという狙い.18号からずいぶん変わったしね>ORJ.最近読み始められた方にとってもどの号を読めばいいのかという指標になるんじゃないかと思う.もともとpdfが体に合わない方にはゴメンナサイするしかない.

単に無料になって喜ばれるだけじゃね?という不安はある.けれどもこういう大鉈を振るわない限り現状は打破できないんじゃないか,というのが編集部の結論.いつまでもお口あーんして待っているわけにはいかないのだよ明智君(2度目

とか何とか言って自分が取りかかれるのは30日以降になりそうな塩梅だ.それまではヨ氏とT氏に寄生する.

[ORJ][企画] 伯母谷OFF

画像の説明

激しいツッコミの嵐を受けつつ(感謝!)しかし空気を読まず勝手に次回探索OFF計画を立ててみる。そのお詫びとしていきなりのベストショット。

場所は今号東熊野で紹介した山葵谷の谷底。対岸の謎の道がそれ。木馬道であるようにも見えるしトロッコ軌道であるような気もする。沢沿いに進んで下の林道まで出られるが、途中で一カ所分岐があって、その道がどこまで続いているのか確認できていない。下から見上げるとえらいことになっていたが・・・。

下流の伯母谷林道は谷全面を塞いで工事中。川底にまでトラロープが張られているうえ11月まで工事しているとのことなので、この方面からのアプローチは事実上不可能だ。旧国道から無理に降りると死ぬことは実証済で、しかし無事に到達できる道筋がたった一カ所だけある。それを知っているのはおそらくnagajisとmasaさん辰さんだけだろう。

他にも回りたいところがあるので、nagajisは2、3日泊まり込んで、そのうちの1日を山葵谷探索OFFに当てるとよいかも知れない。伯母谷ループの真下あたりに集合・現地解散とか何とか。紅葉の頃を狙うなら11月頭だろうか。焦るなら10月連休だが次号が遅(ry。もちろん連休気にせず1日だけにするのもありだ。ご希望あれば承り□。

本日のツッコミ(全14件) [ツッコミを入れる]

Before...

_ nagajis [なるほどなあ。参考になります>皆様。少なくともORJ忘れられているわけじゃないので安心しました。 いま継続して買って下さっている皆さんからゴルァされず、忘れられた人に思い出してもらえるような工夫、..]

_ WV [ロック付き有料のHPを作成してみては? ORJ、結構容量が大きく、気構えしてからでないと 読めないです。 HP、見るのに毎月300円程度なら問題なく払えます。]

_ おっぱい [ひとつ提案があります。 映画や食玩などでも懐かしモノは一定の支持があります。 (映画オールウェイズやグリコの懐かしオマケなど) わざわざ宣伝に出向かなくても記事中の複数要素の中に懐かし系 を入れる..]


2010-09-25 この日を編集

[企画][] カレンダー

よやくするといいよ!

↑だけ継続しておく。ここで「予約予想以上の多数につき締め切り!」「サーバパンク!申し訳ありませんが一時募集を停止・・・」とかやったら昨今の販促っぽくていいかも知れないなどと思ってみた。やめとけ>nagajis

[独言] 膝

結構ブランクが開いてて昔のような旅ができるかどうか不安だったが、まだ少々はできそうな感じ。しかし右膝が極端に弱っている。駄目になるとしたら右膝からだろう。あと2、3回か。

[] 柳田国男「方言覚書」

ほぼ同時に日本に齎されたはずのマッチと石鹸だが、マッチには種々方言があり石鹸にはないという不思議。言われてみれば確かにそうである。トウツケギ、オランダツケギ、ランポウ(蘭法)ツケギ、アメリカツケギ、ハヤツケギ等々。たかだか60年で燐寸はこんなに分化している。にも関わらず石鹸はどこへ行っても石鹸だ。せいぜい洒落てシャボンというくらいか。

普段よく使うものだから、という説はさもありなんだが、一段階前のものに相当する「附け木」があったことも大きいように思う。石鹸に相当するものは日本にはなかった(はず)。何もない所へ名を伴って投入されるとその印象が強く焼き付くのではあるまいか。そういや何故石鹸は石鹸というのだろう。

トウキビvsトウモロコシ。トウガラシも唐辛子であって輸入物。そういう「そう言われてみれば」がこの本には多く、単純に面白い。

山の産業の一つに燐寸軸の製造工場というのがあったのを思い出した。どこでも手軽に開け、さほどの動力も広さも必要としないため広く各地に行き渡っていたらしい。確か遠野物語だったかと思うが、山姥の話の舞台にもなってたっけ>燐寸工場。

雨谷まで+167.1度!

本日のツッコミ(全3件) [ツッコミを入れる]

_ JINKO [そういや「白神山地の中にも燐寸工場があって、高校の頃に山で迷ったときに世話になった」とかいうのが伊奈かっぺい氏のネタにあったなぁ。青森限定のネタで申し訳ないスけど。]

_ iso [膝。サポーター(量販店でひとつ2000円くらい)すると格段に違いますよ。私は数kmのジョギング程度で右膝が痛むのですが、すればまったく問題ないです。私の場合、登山や自転車にも必須です。]

_ nagajis [へえへえへえ。]


2011-09-25 この日を編集

nemoi.頭が硬化している。叫べない。あとちょっとやのに。

眠さを超越して頭が溶けた。あとちょっとを叫んで終わった。墓碑はいいか…。

そのばのいきおいで(いきおいだけで)いきているながじす。妄想確信犯自重城。

[橋梁][絵葉書] 山口県錦帯橋

画像の説明

有名な錦帯橋。大雨で増水するとこんなになってしまうことがあった。橋の上に「ちょっと田畑を見に行ってくる」な人が大勢いるのが驚きである。あと1mも水が上がれば浮いて流されてしまうというのに。こういう時の対処方法があって、そちらもまた原始的直接的で面白い。橋の上に水を溜めた大樽を載せて重しにしておくのである。

ここまでなっても流されない橋脚がすごい。なんでも良く根固めがしてあって洗掘されないようになっていることと、橋脚の内部に比較的すんなり水がはいるようになっていて、内外の圧力差を打ち消すようになっているからなのだそうだ。水が抜けるとかえって崩れそうな気がしてしまうが、発想の逆転で勝利しているのである。何とも日本的な橋では中廊下。

[絵葉書] 別府楽天地ケーブルカー

画像の説明

別府名勝チンテクラ。幼稚園の遠足だったか子ども会の催しだったかで行った覚えがある。何しろJR久大本線にも乗り慣れていないような貧乏人だったからこのケーブルカーに心動かすこともなかった。えらい傾いていて怖かったことと、単線交走式なのを知らず「ぶつかる!」と思って焦ったことばかり覚えている。そっち系に興味が持てない理由は此辺にあるのかも知れない。

チンテクララクテンチではミラーハウスに入って頭をしたたか打ち付けるというお約束をやった。それも印象深い経験だが抜けた所に的ヶ浜での闘争?を再現したジオラマがあって不気味だったのも忘れられない。ひょっこりひょうたん島とかプリンプリン物語とかで出てくるような感じのデフォルメされた人形が首もげたり腕切られたりしてのたうち回っているというもの。あんなところに置かれてあった意図がわからぬ。幻を見たのかも知れない。

あと、人生初のジェットコースターを体験し「顔が青ざめる」というのを初めて実演した。自分は鏡を見なかったのでわからなかったが「青ざめるって本当に青くなるんか」と知った。小さい方のジェットコースターも結構怖かった。かっくんかっくん曲って振り落とされそうになるのだ。

絵葉書に一切言及せずに終わるのも何なので一言、このケーブルカーの路床構造は今でも現役とのことだ。

[独言] ガス抜き

ぴょろりーん。


2017-09-25 この日を編集

[独言] タマムシ

画像の説明画像の説明

タマムシ。腹も金属光沢なのだな(アップで見ると結構気持ち悪い)。体液とか噴門とかも金属光沢なのかもしれぬ。

[独言] 謎だった写真

画像の説明画像の説明

10年以上前に撮った春日野道の写真の冒頭らへんに見覚えのない泉の写真があって何だろうと思っていたらこれだった。金ケ崎隧道にあがる道と間違えて入り込んだ小路の奥にある泉だ。昔ながらの洗い場造付けの清水。


2019-09-25 この日を編集

[独言] めがさえている

M23第三回内国勧業博覧会やM28第四回内国勧業博覧会やM28第四回内国勧業博覧会の出品物を見ていると、大阪の工場で長230mm・幅110mmを超える煉瓦の出品が目につく。堺附洲、関西煉瓦、三栄組、大阪煉化石、いずれも要塞建設以前に設立された工場。阪府授産所煉瓦、鐘ヶ坂隧道ポータルの厚煉瓦もこの系統。

して、このサイズは「煉化石及モルタル試験報文」『分析試験報文 第1号』にあるイギリス北部形がいちばん近い(厚さは減じられているのが多い。中には厚さまで寄せてきているものもあるけれど)。造幣寮建設のときに持ち込まれた煉瓦がイギリス北部形で、それを規範として煉瓦を作ったストリームが最初期にはあった。それはおそらく造幣寮建設に源流をもつ。

一方、作業局形は、おそらくロンドン・ストックの標準形を元にしている。19世紀ロンドンストック形の厚が若干薄いやつ。鉄道技術がイギリスから持ち込まれたものであるから、その際にイギリスで一般的だったものを寸法ごと持ってきたものか。それでも厳密には厚さが1/4インチ減じておる。もしかしたらイギリスの鉄道の基準サイズがあったのかも知れないし、イギリス北部形を薄くしたのと同様の理由があったのかも知れぬ。そうしてどうも厚さを厳密に考える傾向があった。長さと幅はよほどの誤差を許容している(M24時点の話。それ以前、関ヶ原線とか湖東線とか作ってた頃=M22前後には慣例を破って厚74mmとか80mmとかいう肉厚煉瓦をよく採用していた。これは山陽型の影響なのか?? 山陽型の流用ではあるまい、あちらは68mm、目地込み3インチであって素の煉瓦が3インチとかじゃないもの)。そんな鉄道系製造技術は村井属が天竜のあたりまで持って行っている。その後はどう?

そしてまた、東京形サイズはスタッフォードシャー形に近似しているという。だとすると東京の基準になったのはまた別のイギリス製煉瓦だったということになる。なるのだろうか。単に表中のこれが一番近い形だとしているに過ぎないかも知れない。なるのだとすれば、銀座の煉瓦街を建設する時に規範とした煉瓦がスタッフォードシャー形だったということになって、大阪のロンドンストック形と相容れなくなる(どっちもウォートルスが関わっているはずなのに)。

大阪並形はこれらとはまた違う経緯で出てきているように見える。M22~23の最初期の要塞建築でフランス形(小)を基準とし、そこから出発したものだと仮定しているところ。由良要塞建設に当て込んで創業したと見られる由良の中村重次郎工場、和歌山煉化石の工場なんかはフランス形に近い。実際に由良要塞で刻印が見つかっている工場は並形を作っていたことが、第三回・第四回内国勧業博覧会出品からもわかる。個人的にはちょうどこの頃新旧工場の世代交代があったように感じていて、由良要塞に煉瓦を供給した工場とそうでない工場とで生死が決まったように見える(堺煉化石とか三栄組とか。いや三栄組はM34製造業組合結成の頃までいたんだっけ。丹治はどうだろう、刻印ないけど)。供給した会社は比較的長続きしている。若井煉瓦や旭商社もM30台初頭まで生きていたし。そしてM40以降の六大工場時代につながっていく。それらが作っていた煉瓦がデファクトスタンダードになり得た。

とは思う一方、作業局形をよく焼いたら縮んで並形になりそうな気がする。作業局形を作るつもりで焼いて、縮み過ぎたのが並形になったとか。そもそもだ、何で「並」なんだ? 「並」があるなら「上等」「下等」があったんか? あーでも吉牛だって普通サイズが「並盛」だもんなあ。

大高表を信じて三辺比率を計算すると、0.986361637、0.972502291、0.944741533となって、厚が縮み過ぎているように見える。もし厚が1.8寸なら最後が0.97幾らになってまあ近い。<この計算はあまり意味が無いな。大高表が特別なのはすでに判明していることだ。

「並形」あるいは「大阪形」という名称の初出はいまのところM29『建築学提要』。「東京形」はその名称で旭商社が第四回内国勧業博覧会に出品している。第三回時点で並形類似のサイズの出品はない。M28第四回からちらほら出てくるわけだ。して、第四回講評で煉瓦サイズまちまちな件が指摘されている。各地で違うサイズを作っていることがこの時に再確認されている(初めて指摘ではなかろう。東海道線すでに繋がってるんだし、違うことがわかってたから旭商社が「東京形」と称して出品できたのだ)。一般的なレベルで認識され始めたのがこの頃なんじゃなかろうか、そして「並形」という呼称もこの頃に。

銀座煉瓦街を作る時に大阪からも煉瓦見本を提出した(けど採用されなかった)っていう話、どこで読んだのだっけ・・・。

[きたく] なら中部

薬水橋梁に思い違いを正しに行き、そのついでに付近を少し歩き回った。薬水橋梁に桜刻印はまったくの思い違い。裏積み基礎積みの手成形煉瓦に堺煉瓦があるだけだ。ただし追加でいくつか見つけたのと薬水在所で同じものの転石を見つけたのでよしとしよう。 画像の説明

吉野口で乗り換えのついでに駅前をうろつき、高田で見つけていた‘ヤマ’●の類似刻印を検出。向こうのにhヤマにツノが生えていたがこれには何もない。純粋なヤマ記号。それに少々不鮮明な●がついてる。ヤマボシとか何とかいうべきな屋号で、同じものを新聞広告で見たこともある。業種は全く違うけれども。

画像の説明御所の旧市街地には結構な数の手成形煉瓦があり、刻印があれば必ず小島煉瓦という状況。さすがは小島のお膝元という感じがする。高取よりも御所のほうが明らかに大きな街だ。

御所って環濠集落なんだと改めて知る。寺内町の方では刻印を検出せず。小さな箔押し工場の中でギッコンバッタン仕事しておられる音の響く旧家町並みがよかった。

左に掲げたやつが興味深い。刻印の底にはほとんど砂が付着していないがそれ以外には大量の砂がついている。砂のついた状態で打刻したのではなく、打刻してから平面に砂が付着したわけで、形取り師が詰めた直後に自分で打ってひっくり返したことがわかる。小島煉瓦のは裏表に打刻されているのでこうういう役立ち方をする。同じ観察は日本煉瓦や岸和田煉瓦でもできるはずだがここまで鮮明な違いが見られることは少ない。

そうして休憩中にスマホを落としてタッチパネルを割ってしまう。手帳型ケースに入れていたのに開いた状態でガラスを下にして落ちやがった。上1/4斜め半分が使えず、スマホとして使えないわけではないが、とてもいやだ。今度はタッチパネルだけ買って交換してやる。

JRで御所から畠田まで行き(待ち合わせで馬鹿みたいに時間食った…だから和歌山線は嫌いなのだ)、そこから山を越えて大輪田へ。昨年やり残した宿題を片付けるつもりで。持ち主の方が親切に応対してくれ大変有難かったが煉瓦を再確認する時間がほとんどなく、任せてしまうことにした。昨年の見学会でお渡した資料や話も無事伝わっていたようだ。ただし追加で判明したことはなく、畑の南側に知り合いの家があっただけだとのこと。取り壊してしばらく経ってから現持ち主さんが買い取りはったそうで、その頃には草生した土山があるばかり、それを畑に作り変えた時に地面の下からたくさん出てきたのだそうである。とすると元の家の基礎に使われていたものか、その1つ前の家の何かなのだろうな。ここに工場があったとは先ず思われない。

実質的な収穫はなかったけれどもいろいろな話を聞けてよいひとときを過ごすことができた。あとは川向かい神南の孫七という瓦屋さんくらいしかアテがない。Hmm…そこは斑鳩町になるからなあ。大輪田じゃないのだよなあ。でも技術がそちらに伝わっておるやも知れぬしなあ。


2022-09-25 この日を編集

[煉瓦] 東海道線煉瓦構造物≦M25

画像の説明

なかなかしねる。

●わかったこと

新橋~横浜間は明治10年台に改修されてる。木桁を鉄桁に変える際に橋台も煉瓦にしたようだ。六郷川などはこの時に12ft円形ウエルが採用されている。

横浜以西の工事に煉瓦も使っているがそれほど多くない。うえに大半が再改修で失われている。茅ヶ崎駅の西、中島開渠でやっと旧橋台の残存を確認できたがこれもオリジナルか複線時のものかわからない。

江尻の工場が富士川周辺、洞隧道、石部隧道の方面に煉瓦を送ったことは『請負業史』にもあるのだけれど、最も煉瓦を要したと思われる箱根隧道群はどうしたのだろう。沼津や国府津に陸揚げして送ることはできたと思うがちょっと遠すぎる。御幸煉瓦も横浜煉瓦も三浦半島より東だし。国府津辺りに工場を設けたほうが効率が良さげ。

この区間で煉瓦サイズが確認できるといいのだが、ストビューで見えるのはすごく限られている。上記中島開渠とか、天神沢とか。後者はたぶん複線時のやつが見えている(もとはアーチだし)。

箱根隧道群を抜けて御殿場の方に来るとぎりぎり肉厚煉瓦使用がわかる。供養塚開渠は多分肉厚煉瓦微妙だな…3吋ならもっと目立って厚い。

冨士川までくると明らかに肉厚。近堀用水のこれなどはストビューでもわかる肉厚さ。

以降この厚さが中泉まで延々とみられる。スクエアな橋台橋脚はたいていそう。袋井から中泉にかけての開渠はたいていが肉厚ぽい。

ちょっと面白かったのが、富士川の右岸には「径10ft円形ウエル」の橋がいくつかある。12ftの間違いなんじゃねと思ったら中ノ郷用水橋梁にそれらしきものが残っていた。外周を石で巻いてあってなかなか見事である。富士川も専用設計の小判型ウエル(外縁は石)だった。全体的に煉瓦製の井筒の使用はM20前後の揖斐川木曽川、あるいは浜名湖第一~第三辺りで終わり、それ以降は外縁を石で囲う形になっていくようだ(煉瓦だと水流で削れてしまいそうだしな)。M29の井筒の定規は要は井筒の定規であって橋脚上部構造のことではない。こういう橋脚の内部はどうなっているのだろう。浜名湖第一の複線橋脚みたく中に煉瓦を充填してあるんだろうか。

スパン30ftの煉瓦拱橋・沢水加川橋も肉厚に見える。これくらいのアーチなら肉厚煉瓦でも行けそうである。

この西にある橋詰川暗渠のほうが参考になるかもだ。スパン10ftで肉厚煉瓦を使用。

さらにその隣の谷田部避溢橋。18ftスパンの開渠構造。複線の両方が肉厚煉瓦を使っている。向かって右の壁のぼこぼこした表面と土っぽい色が印象的。

高木用水橋梁の橋台に使われているのとよく似た質感。右は上り線(天竜川下流側)、左は下り線(同上流側)で、天竜川橋梁の改築順序からすると左がオリジナル、右が大正初めの複線化時橋台になる。高木用水は中泉の西、谷田部避溢も中泉~牧ノ原隧道の隧道寄り。抜ければ金谷に煉瓦工場があった。どっちから来ていてもよい。 画像の説明

クラスタ分析は便利なようでアレだからな……。あんまり信用しないほうがいいぞ>nagajis

東海道線の工場で肉厚煉瓦が作られたのは間違いないが、それより以前、中山道線の一部として建設された揖斐川橋梁、武豊線と中山道線の連絡にあたる木曽川橋梁ですでに肉厚煉瓦が使われていることを忘れてはいけない。揖斐川橋梁はM19.1.着工、同4年竣工@『財産目録』。『明細録』では12月。東海道線建設決定はM19.7.13.(『請負業史』)。

●解決すべきこと

とするとこれがどこまで遡れるか。深谷~関ヶ原間の初代の構造物では肉厚煉瓦は見られなかった。関ヶ原以東岐阜までのM17~18頃の構造物、あるいは武豊線の構造物を確認する必要がある。英比川橋梁の橋脚、北浜田暗渠なんかはふつうのが使われているようだが英比川はM24.1.に改築された結果。やっぱり勢陽組と西尾士族生産所なのか。あと斜井桁+三本線の。


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