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1943-10-21 [長年日記]

(第十冊 十月二十一日起 第三学年第三組)

[陸幼日記] 十月二十一日 水 曇

昨夜日夕点呼後八寝室にて運動班長の下第三運動班の三年のみ彼の激しき意気に接し又切磋を行えり。今までの我々三年の頽廃〔疒を广に赤訂正〕は殊に激しく軟弱なる下品なる言語をむやみと宣伝し常用語となし上官殿の批判の声多し。是は実に皆は悪からずとはいえばそれまでなるも或一人が特にヤー〱言い心たしかならざる者此に相呼応しいたり。切磋など一つも見ず。唯己人的な愛・利欲にとらわれて正道に反しいたり。勿論運動班長の言等聞く由も無く反感的な言を発するあり。運動副班長にて此の状態何で其の勤が勤まろうか。此に反省を促がし各人が過去を悔い一致団結して邁進せんことを決せり。又今日は夕食後学年切磋会ありて益々歩を進めたり。率先垂範に伴ない即時の切磋をどしゝやり、又訓育班より学年単位へと。此の点今日は一・三訓の口論となり不愉快なりき。幾何の考査行えり。 朝食時梅田中尉殿(広幼四十期、近衛中隊長、支那事変の初戦死され彼の有名なる故梅田中尉の令弟なり)の四十分にわたる話あり。「南方戦線には此一・二年米は六十七ヶ師団とい〔う〕大軍を送り日本の南方方面へ工場の移らぬ内、民族収ランに成功せぬ内即ち南方に日本の基礎の出来ぬ内に攻撃せんとあせるものなり。而して日本内地に於ては如何未だ自由主義抜けきらず工場にせよ職工を招くに利を以てす、即ち酒を特配するから等なり。かゝるなればこそ如何に数多くとも質に於て悪しく未だ〱悪く能率低下の状にあり。帰還兵の不軍規〔紀〕、故に此の世にあり身の縮まる思にして諸子の様を見て嬉し。益々やってくれ、之が遺言になるかもしれぬ」かゝる意味の事にて全く涙無くては聞かれざるものにして其の誠心は実に我々の心にしみ通りたり。午後は訓学にて警戒あり、柔道はのび〱と愉快に大きく出来たり。オートバイ実習に行く、将来の事を思えはなり。科学戦の今日誰もが出来得ざるべからざるなり。随意運動は剣術は力を入れて我無沙〔武者〕羅に行えり。意気あれば強気ものと痛感す。実に鍛錬の日切磋会梅田中尉殿話等にて誠に有意義なる日なりき。良好なり。


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