nagajisの日不定記。
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OFF会から帰ってトップページとここに書いたところで力尽きた。起きたらもう翌日だ。丸太のごとくマグロの如く寝たnagajisだがOFF会のことが頭から離れない。
あそこはあれで良かったんか? 湿布を忘れていたのは失格だな。広島風お好み焼き(nagajis焼という名称が広まりつつあるが誤解である。強いて言えば作り方を教わった同期の人物の名を冠して恵南焼あるいはspecial thanks to 観海とでも言うべき)も探索直後には濃ゆ過ぎたのではないか。などと反芻しつつ反省しつつ、楽しめたことは純粋に楽しめばそれでいいとも思う。全てを良でtaggingできるなら分類する意味などない。そもそも分類されたくもない。意味付けすることでつまらなくなる事だってある。
だが、何としても、どうにもならない思い。「実際それで、nagajisは、何をしたかったの?」。単に音頭を取りたかっただけ? リーダーシップを発揮してみたかった? そういえば以前某へ氏に言われたっけ。「仲間内でワイワイやりたいだけじゃないの?旧道倶樂部に専念したら?」。ごもっとも。それ以上のことができてない以上、返す言葉もない。つい最近にはもっとつらい言葉も貰ったがな。身内から。
もちろん自分ではそんな積もりではない積もりでいる。自分はリーダーなど向かない。器じゃない。掲示板に頂いた賛辞も私ではなくORJに向けられたものだしORJとしての功績。私個人ではなくて。じゃあ何故? 何故ORJの変臭長としてコトを起こさなければならない? ORJを「やらなければならない?」。その答えが解らないんじゃない、そう思い始めたきっかけが何だったのか思い出せなくて、ここ最近、ずっとイライラしていた。
埋め草のつもりで始めた[懐古]。29日の晩に、30日の分も先行して書いておいた(それが7月1日の日付のもの)。その時に旅の記録を読み返していて、さきほどの「なぜ」がありありと思い出されたのだ。全く何で、あんな大事な事、忘れてるかな>nagajis。
そうしてその「きっかけ」の時に誓ったーーーちゅうたら大げさやけどーーー通り、OFF会では「誰かの役に立てた」。それが自分の思い上がりでなければいいのだが、たぶん客観的に見ても役立ったんだろうと思う。そういえば、握手なんて久しぶりだ。徹夜してでも馳せ参じた甲斐があろうというものではないか。
あれから5年。見知らぬ人の5000円の恩。貨幣経済的価値判断はしてくれるな。あの5000円があったから、今の自分はここにいる。行き着く先が宇宙だって、おれは構わない。
たぶん自分独りで書くと独り善がりになる(上記の件もあり)ので、wiki立てて参加者のみなさんにも加勢していただこう、いや私も一参加者となって、寄ってたかって書いてしまえ。ということを考えてwiki立ててみる。アプロダも連動。
FreeStyleWikiは軽くていいのだけれど画像の貼りつけがイマイチに思う。wiki内にどんな画像がupされているのか把握することが難いし、1ファイルずつアップロード→記述しなければならないのが手間。そこでattachの中身を総ざらえして一覧表示するスクリプト(ええとプラグインまで書ける能力ありません)とattach内に複数一括アップロードするスクリプトを作成(「画像一覧」というページの添付扱い)。一覧表示に{{ref_image}}タグを書き出して、画像を見ながらwikiに貼れるようにした。
wiki自体の基本の書き方は触ったばかりのnagajisが30秒で理解できたほどに簡単。嘘だと思ったらヘルプみてください。しかし言い出しっぺのnagajisが未だ何も書いていない辺りが腑抜けだと言いたいのだ。
広く多くの人の役に立ちたい・・・と大それた考えはさすがに持てるヤマダではないけれど<br>見知らぬ人の・・・あの一言で・・・今の自分がいる・・・<br>その言葉に引きつられて、こちらにコメントさせて頂きました。<br><br>そう、それは忘れもしない小学4年の時。<br>自分は近くにあるスーパーに店頭販売に来ていた兄ちゃんとある約束をした。<br>『自分が何かしてもらって嬉しいなと思った時は<br>その分誰かが喜んでくれるような事をすすんでしてよ』・・・と。<br>その兄ちゃんは別れ際に自分との「男と男の約束」をしっかりと果たしてくれた<br>(直接は会えなかったが、わざわざ他の人に頼んでまでして約束を守ってくれた)。<br>だから、自分はその兄ちゃんとの約束は絶対に守ろうと誓った。<br>だけれども、そんな事をわざわざしようとすると<br>やれ「いい子ぶってる」だの「かっこつけしい」だの<br>周りから言われ続け、結構ひしょげてたのを覚えている。<br>そんな事をぼやいていた時、当時の担任だった先生はこう教えてくれた。<br>「自分が悪い事してない時にも、誤解があったりして間違って嫌われちゃったりする事もあるの。<br>でも自分が悪さをしようとしてした誤解でないのなら・・・<br>自分が良かれと思ってした事なのなら・・・<br>その誤解はいつか必ず解けるから」。<br>そう『悪意のない誤解は必ず解ける』・・・と。<br>ふて腐れて自分を変えてしまったり、自分の方から嫌ってしまったりしない限りは<br>自分の行動からだけじゃなくても、周りから自ずとその誤解は解けていくから安心なさいと<br>優しく気持ちを包んでくれたのは今でも忘れはしない。<br><br>確かに生き方が下手で、今でも現実社会でも誤解されまくったり<br>ひどい時は同じ部所で半年も反古された事もあるけれど<br>やはり、自分は変えたくないし、あの兄ちゃんとの約束は守り通したい。<br>そうし続けていれば、いつかは・・・ね。<br>この二つの言葉は今でもダメになりそうな自分を支えてくれている。<br>(ヤマダもその行き先が宇宙でも構わないと思う)<br>それは最近子育てしていても思う事で<br>子ども達を見ていると、どの子もそうだと思うが<br>子どもって自分がしてもらって嬉しい事は<br>小さい頃の事でもきちんと覚えてるもので<br>同じ事を他の人にもしてあげたいって、普通に思うものなのな。<br>また誰かが言って話たが、子育てしてたらよくある事で<br>例えば、クレヨンとかでひどく汚して喜んで駆けてきた子どもに<br>「汚しちゃだめだって言ってるでしょ」とひどくしかりつけたら<br>泣いて放っていた紙には、一生懸命書いた自分の似顔絵が書いてあった・・・とかね。<br>子どもに対してもしたくない誤解というのは、数多くあるんだろうけど<br>それも同じ。<br>それで嫌われちゃったりしようとも、子どもに対する気持ちさえ変えなければ<br>その気持ちはちゃんと伝わるものなんじゃないのかな。<br>だからかみさんにも、悪いと思った時には安心してちゃんと怒ってあげなと教えている。<br>もしそれが誤解であったとしても、それはいつかきっと晴れることだろうから。<br><br>要は自分を変えないと言う事。<br>どんなに悪い事があっても・・・<br>どくれる事なく自分を変えずにいるのが大事だと。<br>どうやらヤマダは85まで生きなければならないらしい。<br>なんでもその時はじめて自分を評価してもらえるとの事(謎。<br>その時まで自分というものを変えたくはない。<br>編集長どのにも、その最初に「なぜ」と思った時の気持ちを<br>是非とも忘れて欲しくないと、切に思います。