nagajisの日不定記。
本日のアクセス数:0|昨日のアクセス数:0
ad
今日も亦朝・夕を除く他は雨なりき。
化学は実験なりき。午後は作業考査なりき。短小銃・手榴弾・モールス等あり。之に依り学問は何物に依らず一生懸命再度勉むれば自信が自ら生ずることがわかりたり。月例身体検査ありたれど体重・胸囲等いちゞるしく低下せり。鍛錬不十分なることの表われならん。
真に梅雨の候なり。今日の国漢乙・化学・代数を以て前期々末考査も終了したり。然し未だ終りたる感なく今からやらんとの念に燃ゆ。雨の為柔道場にて教練をなしたり。集会所開きにては十六時より二時間に亘り階上にて全校生徒・職員・傭人共に行う。唯 皇恩に感謝し森田部長殿を御喜び致すのみなり。十九時十分より約二時間藤本教官殿の二月以来三ヶ月余の南方旅行談を承る。ジャワに於ける島人の日本人に対する信頼・恭敬は極めて大なりと。我之にて日本に生を享けたるを一に喜ぶ。良好なり。
OFF会から帰ってトップページとここに書いたところで力尽きた。起きたらもう翌日だ。丸太のごとくマグロの如く寝たnagajisだがOFF会のことが頭から離れない。
あそこはあれで良かったんか? 湿布を忘れていたのは失格だな。広島風お好み焼き(nagajis焼という名称が広まりつつあるが誤解である。強いて言えば作り方を教わった同期の人物の名を冠して恵南焼あるいはspecial thanks to 観海とでも言うべき)も探索直後には濃ゆ過ぎたのではないか。などと反芻しつつ反省しつつ、楽しめたことは純粋に楽しめばそれでいいとも思う。全てを良でtaggingできるなら分類する意味などない。そもそも分類されたくもない。意味付けすることでつまらなくなる事だってある。
だが、何としても、どうにもならない思い。「実際それで、nagajisは、何をしたかったの?」。単に音頭を取りたかっただけ? リーダーシップを発揮してみたかった? そういえば以前某へ氏に言われたっけ。「仲間内でワイワイやりたいだけじゃないの?旧道倶樂部に専念したら?」。ごもっとも。それ以上のことができてない以上、返す言葉もない。つい最近にはもっとつらい言葉も貰ったがな。身内から。
もちろん自分ではそんな積もりではない積もりでいる。自分はリーダーなど向かない。器じゃない。掲示板に頂いた賛辞も私ではなくORJに向けられたものだしORJとしての功績。私個人ではなくて。じゃあ何故? 何故ORJの変臭長としてコトを起こさなければならない? ORJを「やらなければならない?」。その答えが解らないんじゃない、そう思い始めたきっかけが何だったのか思い出せなくて、ここ最近、ずっとイライラしていた。
埋め草のつもりで始めた[懐古]。29日の晩に、30日の分も先行して書いておいた(それが7月1日の日付のもの)。その時に旅の記録を読み返していて、さきほどの「なぜ」がありありと思い出されたのだ。全く何で、あんな大事な事、忘れてるかな>nagajis。
そうしてその「きっかけ」の時に誓ったーーーちゅうたら大げさやけどーーー通り、OFF会では「誰かの役に立てた」。それが自分の思い上がりでなければいいのだが、たぶん客観的に見ても役立ったんだろうと思う。そういえば、握手なんて久しぶりだ。徹夜してでも馳せ参じた甲斐があろうというものではないか。
あれから5年。見知らぬ人の5000円の恩。貨幣経済的価値判断はしてくれるな。あの5000円があったから、今の自分はここにいる。行き着く先が宇宙だって、おれは構わない。
たぶん自分独りで書くと独り善がりになる(上記の件もあり)ので、wiki立てて参加者のみなさんにも加勢していただこう、いや私も一参加者となって、寄ってたかって書いてしまえ。ということを考えてwiki立ててみる。アプロダも連動。
FreeStyleWikiは軽くていいのだけれど画像の貼りつけがイマイチに思う。wiki内にどんな画像がupされているのか把握することが難いし、1ファイルずつアップロード→記述しなければならないのが手間。そこでattachの中身を総ざらえして一覧表示するスクリプト(ええとプラグインまで書ける能力ありません)とattach内に複数一括アップロードするスクリプトを作成(「画像一覧」というページの添付扱い)。一覧表示に{{ref_image}}タグを書き出して、画像を見ながらwikiに貼れるようにした。
wiki自体の基本の書き方は触ったばかりのnagajisが30秒で理解できたほどに簡単。嘘だと思ったらヘルプみてください。しかし言い出しっぺのnagajisが未だ何も書いていない辺りが腑抜けだと言いたいのだ。
絵(の邪魔)になる男、の間違いではないのか>nagajis
メモ代わりにデジカメに吹込んだメッセージがボソボソとしか聞こえず。何をやっているんだー。
偉い人が沢山来るんだったらnagajisいらないよねーとか思い直してみたりもする寝覚めの床。企画考えなくては。
馬鹿みたいに沢山書いた割にはどうまとめるか考えてない>東熊野。どうするつもりなのか。波津と水路橋と、ええとあと何だったッヶ。
昭和8年頃の縦断面図では清洲橋と同じ鎖式っぽく見えるのだな。詳細図がないので何ともいえないがピンが書いてあったり吊索にターンバックル様のものが挟まってる。
んで、平野橋は昭和10年完成。
キャスト:
ペデスタルパイル(Pedistal Pile)
「コンクリートパイル」用鉄管は長さ二五米内径五〇糎のものを用い其の先端には鉄製の沓を附し蒸気「ハンマー」を以て所定の深さまで打込みたる後係員の指揮に従い長さ数米毎に硬練「コンクリート」を投入し充分搗き固めつつ外管を引き上げ順次之を練返して杭全長を完成するものとす
※全長に渡り鉄筋を挿入
フランキーパイル(Franki Pile)
「コンクリートパイル」用鉄管は長さ二五米内径六〇糎のものを用い先ず最初に管内に適量の硬練「コンクリート」を投入し落差数米重量二・五乃至五・〇瓲の鉄槌にて充分搗固めつつ管底開口部に完全に閉塞して「コンクリートポイント」を形成せしめて所定の深さまで打込みたる後係員の指揮に従い長さ一・〇米乃至二・〇米毎に硬練「コンクリート」を投入し充分搗固めつつ外管を引き上げ順次之を練返して杭の全長を完成するものとす
※全長に渡り鉄筋を挿入
引用はいずれも『新淀川新橋架設工事書類』新淀川新橋マルチペデスタルパイル試験打工事設計書、新淀川新橋新フランキーパイル試験打工事設計書り。図は常磐書房高等土木工学シリーズ「基礎工及土木施工法」(谷口三郎著)とかこことかから。どちらも「マルチ」「新」のつかないほうなので実際と異なるかも知れぬ。田中式がみつからんかった。そのものずばりな「基礎工」という雑誌に場所打ちC杭の歴史が連載されたことがあるらしい。いつか見てみよう。
地味な土木分野のなかでもさらに地味な基礎工だが調べるといろいろな工夫があって面白い。C杭は要するにどうやって地盤に食い込ませるか(地中で引っかかる構造のものを作れるか)が鍵なので結構いろんなバリエーションがある。白石基礎工業はこの頃爆薬を使った場所打ちC杭を発明してる。地下で爆薬を爆発させて空洞を作ってC流しこむという、見様によってはとんでもないやり方だ。大洋組による大洋式ペデスタルパイル、あと現場打ちでないが清水組特許の無音無振動押込杭基礎工法なんてのもある。
プレファブでC杭を造るというのも当然あって、個人的には金森式のインパクトが大きい。打撃!打撃!打撃! あと大阪駅?の高架化で使われた武智杭もC杭だったがこんなかんじの節のあるものだった。って2年半前に同じこといってるぞ>nagajis(あせ
2012.1.4.追記:http://www.kyudou.org/cgi-bin/tdiary/?date=20120104#p01参照.
まずはこういうのから始めたほうがいいのではないか.
【地図】『工場通覧』の番地が変わってなければこの辺なのだが...と思いつつやってきた.現地には駐車場に使われている広い空き地と取り残された格好の医院.その南方には新興住宅地が広がっている.
舗装されていない駐車場の地面に煉瓦が5,6個埋まっていたのと,駐車場の隅に煉瓦の固着塊が1個あった程度で,明確に「ここが工場跡」というだけの物証に乏しかった.上記煉瓦に刻印も見られず.ハンマーと鏨を持ってきていたので固着塊を割ってみても良かったのだがその前にある家のワンコがキャンキャン喧しかったので止めておく.そもそも駐車場転石にそんなことをすることはできない.
諦めて帰ろうとし,県道を渡って西へ行ったところ,行き掛けに通った魚橋集会所の前に出た.そこから南のほうを見て,古い感じのする街並みがその方向に広がっているのを発見,誘われるようにして入っていった.路地裏でK6刻印を発見し,さらに迷いつつ南へ行くと,住宅地の端にある畑のそばに出た.その畑に面している家の庭に「イ」刻印の焼損煉瓦が敷き詰められているのも発見.おお!これは!と思ったが,しかし,探している工場は「ABC」を社章にしていた弘栄煉瓦工場だ.明らかに違う.しかし焼損煉瓦があるってことは……ううむ.
ふと視線をあげると畑のふちでおっちゃんが休んでいるのが目に入った.あの人に聞いてみよう,と話しかけてみると,たいへん気さくな方で,煉瓦工場があったという話もご存知であった.工場跡に到着する前,壁にこしかけて休んでいた別の広場がそうだという.
「すぐそこやからついてきな」といって案内して下さるおっちゃんの後を慌ててついていく.確かにさっき休んでいたところだ.整地され砂利敷になったその広場は奥でもう一つの空き地につながっている.その空き地の前がおっちゃんの家だったのだ.
そこでいろいろな話を伺った.おっちゃん家の前の広場にプレハブ小屋が建っているが,これが煉瓦会社のものだという.あれそんなに最近までやってたの?と訝しく思えたのだが,ちゃんと看板も残っていた.「中播煉瓦」とある.あれ? 弘栄煉瓦でなくて?
どうやら末期は煉瓦類の販売業になっていたようだ.おっちゃんも,製造はしておらず,耐火煉瓦を主に売っていたというようなことを仰る(看板には赤レンガセメントレンガ耐火煉瓦など取り扱い品が記されている).弘栄煉瓦としては長続きせず,その後中播煉瓦の名前を使って煉瓦小売をしていたようだ.
おっちゃんは阪神大震災後に移ってきたそうで,町のことはよく知らなかったが,地元の方にいろいろ教わって知っているという.詳しいことは町の人に聞いたほうがいいかもな,という話をしているところへ,たまたま附近のお父さんが通りかかった.その方曰く「おっちゃんが住んでいる区画一帯が煉瓦工場やったんや」.おっちゃん家は,さきほど見た広場の南側にある新興住宅地の南の端だ.やはり場所はここで良かったのだ.
おっちゃん家には,中播煉瓦の人から安くで譲ってもらったという煉瓦が山積みになっていた.その中には品川白煉瓦のほかにこんなものも.どっかで見たことがあるはずなのだが思い出せない.「煉瓦にはこういう刻印が押されてあって,作った会社がわかるんですよー」みたいな話をしたら,おっちゃんはこれを譲ってくださった.(帰って確認したら尼崎の旭硝子のだった.旭硝子の前身は朝日窯業で日ノ出刻印を使用していた会社だ).
その後,家のお母さんも参戦?して賑やかなことに・・・.近くに煉瓦の煙突が残っているとか,生石神社のこととか,様々なことを教わった.
帰りはおっちゃんの薦めで宝殿駅から乗ることになる.お母さんが地図を書いてくださり,それをもとに歩き出したが,すぐにおっちゃんがやってきて「そこまで送ってやる」と.何とも親切な方であった.煉瓦煙突の場所や生石神社,その裏の展望公園にも連れて行って下さった.ザックに煉瓦が2個半入っていて重いんですとは言い出せず,むしろ親切が身にしみて有り難かった.
おっちゃんとは生石神社の先で別れた.駅へ向かう一本道を歩きながら「イ」刻印のペーブメントを撮り損ねていることを思い出した.まあ,いいか.民家の庭だったしな.
そうして「ABC」刻印も見つからないままだった...そもそも「ABC」を刻印として使っていたという保証はないのだけど.要再調査かも知れぬ.特におっちゃんが座っていた畑の辺り.
駅へ向かう一本道を歩いている最中に「三本線刻印」の煉瓦を発見してしまった.しかも結構な数.後日中筋村に行った時も(1つだけだが)三本線刻印を発見することになる.この刻印も印南郡周辺が発祥地である可能性が出てきたわけで,ますます印南郡の煉瓦工場の全容解明が必要だと感じた.
追記:おもしろいことを発見.昭和22年『全国工場通覧』には伊藤窯業株式会社南池工場があり住所が印南郡阿弥陀村魚橋956になっている.魚橋に伊藤窯業があった時期が確かにあったのだ.なので「イ」刻印がここにあってもおかしくないのである(関野煉瓦の南池工場(素地)を引き継いだものか?だと焼損煉瓦があるのは変な話だが).昭和24年版では消滅.
春の講演をファーストスキャン.ここからまとめるんが大変そうなキガス.
_ 学生服のヤマダ [広く多くの人の役に立ちたい・・・と大それた考えはさすがに持てるヤマダではないけれど 見知らぬ人の・・・あの一言で・・・今の自分がいる・・・ その言葉に引きつられて、こちらにコメントさせて頂きました..]