nagajisの日不定記。
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野迫川村史のコピーを読んでいて気づいたのだが、口役銀は単に通行税だというだけでなく、徴集した側へ還付される金というものがあり、それが村の大きな財源になってた側面があるようだ(和歌山木材史)。材木業者の儲けが回り回って在地の収入になるという。だから口役銀が廃止された時、それを開産金として村が徴集することが納得されたのだろう(そもそもこの下賜、今日における税金の還付金と同様の懐柔策なのかもな)。それが大部分外部に取られるか地元で使われるかが違うだけだ。開産金に「取る」というのもそのへんの事情を表してたわけか〜。
○○村を「○○ムラ」と読むか「○○ソン」と読むかで悩むことがある。村立の時はソンリツだが村を呼ぶときソンになったりムラになったり。ソンと呼ぶのは中国地方に多いような印象があるがさてどうだろう。吉野川上村はカワカミムラだな、個人的には。町をチョウと呼ぶかマチと呼ぶかもあるなあ。
そのへんが混線しているから、「町」や「村」をつけないで呼ぶ呼び方が未だ残っているのかも知れない。能勢町を能勢といったり下市町を下市と言ったり。そのほうが古げで通っぽい(偏見)というのも加勢する。この辺り何か定義があったりするんだろか?
誰も聞いちゃいないが続ける。明治初めに五條県、M9奈良県、M12堺県、M14大阪府(だったっけ?)、M20奈良県、といった具合に所属がころころ変わっているせいで把握するのが大変だ。ついでに大区小区の制度も合わさって転変するので余計に混乱する。野迫川村史に端的にまとめられてたのがあって助かる。
おまけ。野川組+迫組+川並組=野迫川村。何で「せ」なのかはわからんかったがかしこさの種はいっこでじゅうぶんですよ。さ→せに転訛しやすいのか、そう言い換えるんが一般的だったのか(そういや能勢も「のせ」だよなー)。
それでようやく野迫川村なるものを把握し、吉野の中で最も不便なところだということを理解した。下手に和歌山県と接してしまったのも良くなかった感じ。高野と結びついて和歌山県に属したほうがまだ良かったんでは。もっとも責めを負うべきはあんな地形と川の流れを作った自然か、それを克服できなかった近世以前人なんだろう。なんで五條市に編入されんかったんだろうな。
五條鉱山の話があまり伝わっていないのも人が少ないせいだろう。江戸〜大正期に隆興、一度下火になって戦中に再度浮上、廃止になってまた人が離散した、というのもあるらし。
と、ひとしきり書いてすっきりした。直すつもりはない。
中途半端な情報と生半可な知識で結論を導き出すのを諌めなければならない。言葉なんて幾らでも操れるのだから余計にシロをクロだといい得てしまう。だから現状の提示だけに留めたいけれども、人の説明=自分の理解だとしか考えてない○○が多いせいでアレなんだろう。どのみち逃げだしな。自説として提示してしまえば適当に理解されて適当に納得され、そして事実は曲解されて雨散る霧消える。それも人の業だと言えなくもないな。清少納言が身長何cmだったか知ってる人間なんていやしない。要するに[要出典]つけたって意味がないということだ。
なるほどなあ。なんかわかってきた気がする。そのためのkindai.da祭りだったか。