nagajisの日不定記。
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勝手に謹慎,勝手に終了.ORJはいつも通りに出す予定.
次号発行したらどこかに出かけたい.いい加減長殿のモヤモヤを片付けたい.
久しぶりに文庫本で発見した全集に所収.民俗学の視点から日本という国の来し方を見つめてきた翁が,その延長線上にある明治大正の激動期を記述した一編.着想点の面白さとそれが結論につながっていくまでの無駄のなさ(=説得力)に引き込まれるようにして読んでいる.全部読んでしまうのが勿体無く思えるくらい.翁の真骨頂の一つと思われる.こういういい文章を読んでいると何か書くのが恥ずかしくなってしまうからいけない.
この中に以前書いた直線の話が出ていた.あれ,あれは柳田先生の教えだったか.
いわゆる、鉄の文化の宏大なる業績を、ただ無差別に殺風景と評し去ることは、多数民衆の感覚を無視した話である。たとえば鉄道のごとき平板でまた低調な、あらゆる地物を突き退けてすすもうとしているものでも、遠くこれを望んで特殊の壮快が味わい得るのみならず、土地の人たちの無邪気なる者も、ともどもにこの平和の攪乱者、煤と騒音の放散者に対して、感嘆の声を惜しまなかったのである。これが再び見慣れてしまうと、またどういう気持に変わるかは期しがたいが、とにかくにこの島国では処々の大川を除くのほか、こういう見霞むような一線の光をもって、果てもなく人の想像を導いて行くものはなかったのである。木曽の水力電気はこの谷の年久しき伝統を破ってあるいは山霊を泣かしめているかも知れぬが、これが平野の経済活動の、また一つの水源になっているという意識は、どれだけ奥在所の人々に心強い印象を与えたか知れぬのである。今まで何一つこの類の変化を受けなかった土地と比べて、どちらがより多く満足しているかということは、改めて聞いてみる必要もないくらいである。
人々がどのように暮らしてきたかを明らめるため,幾重にも重なった縷々転変を解きほぐし,埋もれたあれこれを掘り返さんとする学問,民俗学.それを興した張本人である割に,柳田国男は「変化」に寛容だった.新しいものを歓迎した.それによって人々の暮らしが良くなったことを何よりも尊んだからだ.この編のほかのところでも,風景は人の手で美しくできることを説き,その例として街の灯によって夜景が美しくなったことを挙げている.天然に対して人が為し得た唯一の恩返しだとさえ書いている.ただの懐古主義者では決してなかったのだ.
人は自分の信じる所に従って自分の主義を通すために主張するのであって,自我を認めてもらうために主張するのではない.そのへんがきちんと切り分けられていないから主張を受けれられないこと即ち人格総否定みたいに受け止めがち(受け止められがち).日本人がディベート下手だとかいうのはそんな勘違いに根ざしたものである.みたいなことをどっかで読んだ気がする.自分が理解出来ないもの・嫌なものをただ排除していては糸の切れた風船と同様だ.自由を得て高く遠く飛んで行くことはできるだろうが,それで何になるだろう.行方知れずになって終わりだ.
ちゃっくふるおーぷんでローソンに行ってしまったnagajisは痴呆である(主張)
検索できても該当日記を開けないという不具合を修正.だからデータフォルダ変えたって言ってんだろ>ngajis.