nagajisの日不定記。
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煉瓦工場のあった街を歩くのは楽しい。あちこちに古い煉瓦が残されている。川の護岸も煉瓦。溝も煉瓦。小さな地蔵堂も煉瓦。もちろん工場跡地にも。
大阪窯業貝塚工場はもと貝塚煉瓦の工場があった場所だから、市街地には貝塚煉瓦の井桁を見かける。しかし明治40年に大阪窯業に合併されたので総量としては少なく、むしろお隣の岸和田から流入してきた×印のほうが多い。大阪窯業もあるにはあるが、貝塚工場は耐酸舗道特殊煉瓦を製造していたから、赤煉瓦でかつ刻印のあるものは少ないようだ。多い順でいえば岸和田煉瓦>大阪窯業>貝塚煉瓦か。
工場跡地の北東側と南西側に煉瓦壁が残っている。貝塚工場の壁だろう。北東の壁にはぶ厚くて茶色い舗装煉瓦が使われていた。南西の壁には特殊な空洞煉瓦(下写真)。煉瓦4個分くらいの嵩の孔空き煉瓦で、中に空洞が2本通っている。この空洞に6kgレールを入れ、モルタルを充填して横の結着力を強からしめたらしく、その一部が割れて顔を覗かせていた。なるほどこうやって使うのか。そういやこれを空洞煉瓦というのだろうか?軽量煉瓦とどう違う?
軽量煉瓦・耐震煉瓦だったとしたら明治39年から試作を始めている。舗装煉瓦の製造は大正10年以降。T12には舗装煉瓦の製造設備を拡充したと『大阪窯業五十年史』にあるのでその頃かも知れない。しかしこの舗装煉瓦にはディンプルも年号も入っていない。試作品なのかも知れぬ(ということは年号入りようも古い?)。なお煉瓦壁に使われている赤煉瓦はどれも機械整形で刻印がなかった。これこそ大阪窯業の機械整形煉瓦なのだろう。またその一部にスクラッチ入の化粧煉瓦が混じっていた。これも年代特定に使えるかしらん。
舗装煉瓦は非常に厚みがあり、直方体というよりも四角柱を寸切りにしたよう。敷き詰めて使うものだからそのほうが理に適っている。持った時のずっしり感もずいぶん違う。いかにも密度が高くて摩耗しそうにない質感だ。
で、あったらいいなぁと思っていた狙い通りのものが落ちていた。しかし解釈に苦しむブツではある。耐酸煉瓦の製造開始も明治39年。その年12月に貝塚煉瓦の合併が決まり、翌年実施。