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2013-07-23 [長年日記]

[煉瓦刻印] 会社不明耐火煉瓦

画像の説明

「亜」の文字を意匠化した?マーク。マークの下辺右方で対称性が破れているのは何か意味があるんじゃないか。「R」か。

[煉瓦工場] 津守煉瓦@大阪市西成区北津守

津守煉瓦の工場跡には何度か行ったことがあるのだが、大阪市街に出る用があったので、ついでに足を伸ばしてみた。再訪の理由はいくつかある。先日大阪煉瓦の跡地で六稜星の焼損煉瓦を発見したことで津守煉瓦=六稜星という仮説が揺らいだこと、以前撮ったはずの工場近くの刻印煉瓦の写真を紛失してしまい焼損煉瓦だったか否かが確認できなくなったこと、等々。

地図は右写真を参照されたし。明治30年に創業し、少なくとも大正12年まではここで営業を続けていた。西に流れる大きな川が大阪の工業河川の代表格たる木津川。工場の北には七瀬川という枝流があり、さらにそこから分かれて大和川のほうへ流れていく十三間堀川もあった。そのような堀川と南海鉄道高野線(旧高野鉄道)とに挟まれた立地で、工場敷地としてはこれ以上ないという位に恵まれていた。ちなみに木津川駅の西には駅に隣る格好で堀があり貯木場になっていた。

『工場通覧』における工場主は一貫して林尚五郎という人物だが、津守煉瓦が最後に現れる資料『窯業銘鑑』大正13年版では林信一郎が代表者となっている(この頃尚五郎は中之島で林商店という土木材料卸業を営んでいた)。また末期には土管も製造していたようで『京阪神商工録』大正7年版には「林土管煉瓦製造所」という名前で掲載されている。代表者は林清重である(余談だがこの工場の商標は大阪窯業と非常に紛らわしい。煉瓦に押したら見分けつかないんじゃなかろうか)。このほか林トメという名前で登録されていることもあった。それに加えて大阪煉瓦の役員に林信一郎他がいて、大阪煉瓦の後に興った狭山煉瓦製造所は林静枝が所有となってたりするわけだから、どうやら林一族が経営する同族工場?であり、よほど煉瓦と縁がある人々であったらしく見える。

大正初期には大阪窯業、岸和田煉瓦などとタメを張るような大工場で、ここの他にも泉南地方にいくつもの分工場を有していた。大阪狭山にも素地工場があった。そういう会社だった割によくわかっていない。津守村の村史に相当する本でも郷土史家の本でも「煉瓦工場があった」と記されている程度だ。

画像の説明

画像の説明工場跡には大きな駐車場と工場長屋があり、いくつかの工場が入っている(大半は倉庫として使っている模様)。この敷地の周囲には一切の煉瓦を認められない。工場敷地として何度も入れ替わりがあったためだろう。七瀬川の跡地(右写真)も道路として使われていて昔の面影を留めていない。木津川駅の方面から入っていた引込線跡も不分明。

[煉瓦刻印] 推定津守煉瓦@大阪市西成区北津守

画像の説明

煉瓦が見られるのは南海線の東側だ。山口たばこ店(だったっけ)の向かいにある菜園に推定津守煉瓦の六稜星が多数使われている。春に来た時は植生が薄く、縁石に使われている煉瓦を確認できたんだけど、畑はその所有者の家ともども廃れてしまったようで、金網に囲まれた状態で草むし切っていた。

写真は金網の外にまろび出ていたもの。焼損ではなく製品の破損物だ。山口さんちの隣の区画に煉瓦基礎の一部が残っていたので、そのへんから出てきたものである可能性も高い。なにより煉瓦工場とは線路を隔てた位置だからな。

大阪市街で煉瓦を探すようになってから、この六稜星の刻印を飽きるほど見た。大正末期に廃れた会社のものと想像するには多すぎるんじゃないかと思うほどだ。煉瓦建築や橋台では大阪窯業・岸和田煉瓦などの大御所の刻印をよく見るけれども、市街地に転がっているものはたいていがこれだ。

この違いは流通ルートの違いを反映したものかも知れぬ。大きな会社は大口注文を受けてドカッと作りドカッと納入した節がある(その結果一度に多量の煉瓦を使う構造物によく見られると。以前はそういう構造物しか見てなかったものな)。小売を中心としていた会社のは一般市場に出回り民家の基礎だとか水回りだとかに使われ、解体・整地されて転石になりやすい。のではないか。日本煉瓦もどちらかといえばそんな傾向があるように思う。

刻印の大きさに小があることも知った。写真の小型刻印のが圧倒的に多い。東海道線吹田駅近くの架道橋に見られるものは中くらいの大きさ。

肝心なことを書き忘れた。そういうわけで非常に大量に広範囲に分布しているため、工場周辺で見つけたとて、それが即津守煉瓦のものと結びつけるのがためらわれる。せめて焼損煉瓦の1つ2つは見つけなければ……。

[煉瓦刻印] 和泉煉瓦@大阪市西成区北津守

画像の説明

それにこんなのも落ちてたし。和泉煉瓦(二代目)の刻印煉瓦の断片。これは線路脇の空き地の袖に転がっていた。この区画の一部で工事をしていて、その関係で草刈りされていたお陰で気づくことができた。

大阪で井桁刻印というと貝塚煉瓦と結び付けられがちだが、大正中期に創業し大阪窯業に買収された和泉煉瓦も井桁を社章に使っていた。そうして同じ刻印煉瓦が明治45年から分譲開始した阪急岡町住宅地の一角に使われている。貝塚煉瓦は明治39年に大阪窯業に買収されているので、岡町住宅地で使われる筋合いはないのだ。

念のため注記:貝塚煉瓦と同時に買収された和泉煉瓦とは別の会社。南海堺東駅の西方にあり、大阪窯業の堺東工場になった。そういえばここも南海沿線なのだな。以前この刻印を見かけたのも南海の線路沿いだった。

[独言] 開発道路

画像の説明津守散策の最中にこんな袋小路を見つけ、「こういうのを5号道路ってゆうんだよねー」と覚えたての人を演ジョイしていたら

画像の説明

若干違うその通りだった。これが引き寄せの法則というやつか。

[煉瓦工場] 丸三耐火煉瓦@大阪市浪速区

画像の説明

画像の説明おまけ的に。JR芦原駅の東側、かつて鼬川が流れていた辺りには、かつて耐火物製造工場が蝟集していた。品川白煉瓦の大阪工場もここにあった。マックスバリューの西側で工事が絶賛進行中の一角などもそうだったろうと思う。以前訪れた時には道路脇まで瓦礫が転がり出ていて、そんな瓦礫の中に焼けただれた耐火煉瓦が混じっていた。

画像の説明そんな耐火物銀座も今は昔……と思っていたのだが、たった一件、丸三耐火煉瓦だけは残っている。丸三は明治22年に中臣吉郎兵衛が興した会社で、筧工場に合併吸収されたが丸三の表記と商標は引き継がれた(丸三筧耐火煉瓦)。その後再び丸三に戻ったのか、新たに興ったものなのかまでは調べられていない。

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]
_ 飯盒 (2013-07-24 01:08)

亜細亜煉瓦なんていう会社があったりするのでしょうかねェ。。。

_ nagajis (2013-07-24 01:12)

大阪や兵庫には東亜●●という耐火煉瓦工場があったらしいので、その可能性があります。兵庫県赤穂市には「亜興窯業株式会社」なんてのもありました。亜興=赤穂なんでしょうね(これはS14‐S24の会社なので違うかもです)。


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