nagajisの日不定記。
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バンレンさんのご協力を得て戦後の播州煉瓦合同で手成型をやっておられたという方に話を伺った。長年の疑問が解決し、その1.2倍くらいの疑問が生まれ、そして帰りの電車の中で0.4倍くらいになった。結論としては、裏が表になって、元裏のほうがきれいに筋がつき、そして最初に表だった面に太筋がつくのは確かなようだ。その筋がつくタイミングは抜きの作業の時とその翌日の作業なのだが、抜きをしていた方は思い当たる節がないと仰る。しかし最後の面の裏側に、作業者の気がつかないうちにつけば、気が付かれることはない。おそらく叩きつけてつくのではなく、元裏面を撫でることでつくのではないか。作業台(まな板)の幅が枠の幅の2倍では足りない。2.5倍でも厳しいかも知れぬ。ひっくり返す向き、およびどのようにひっくり返すのか(木枠だけを持ち上げてひっくり返すのか、まな板ごとひっくり返すのか)。ただ一度横にしたら動かさないわけだから。
型枠は横向き。それを小口からコビキで削る。撫でる。ひっくり返す。撫でる。優しくコトコトして外す。激しくやると歪んでしまうほど粘土はヤワい。しかしヤワすぎると餅のようにひしゃげてしまう。5個取る板のうえで。それほどまでにヤワめな粘土。
後に生まれた者が積極的に出かけていって尋ねなければならなかった。我々のような者が。怠惰と責められても仕方ないのである。
Knついにコンプリート。元西神吉村岸の播州煉瓦合同跡地?弘栄煉瓦工場跡地?にて。恐らく前者と思わる。
宝殿の南側ではK3、細K、刻印K、そしてB.C>△H.J.を発見した(!!!)。
帰りに立ち寄った弘栄煉瓦跡近くの不思議空間では機械成型の細Kを多数。長屋状になった家々の基礎が悉く細Kであった。そのうえKnシリーズの番号なしという奇妙なものにも遭遇した。
さらには・・・聞き取り調査でこの空間が播州煉瓦合同の社宅であったとの証言を得た。弘栄煉瓦ではなくて!
考えられるシナリオ。もとは弘栄煉瓦岸工場の社宅として作られた→弘栄廃業後に播州煉瓦合同が取得→今に至る。ではないか。なにしろ播州合同煉瓦(S25以降)は今のバンレンと同じ三本線を煉瓦に押していたことは証言が得られている。もし播州合同煉瓦が播州合同煉瓦の社宅として築いたのなら三本線刻印煉瓦が使われていておかしくない。しかし一帯は機械成型+Kが最も多いのだ。弘栄:最初は手成型無刻印→Knの使用→Kn廃止→Kの部分だけを流用(Koueiだからな)→細Kの使用、とかいうシナリオが最も矛盾しない。Knじたいを弘栄と考えることも可能かも知らぬが、それだと構造物でn一定の謎が説明しにくい。作業が家ごとで、日に1000本も抜いたとしたら、小さな構造物ならたまたま一家ロットになることもあるだろうが!! !
あーーーーー。わかるようでわからないこのモヤモヤ。そのうえB.C.△H.J.が宝殿にある理由とか、考え始めるとさらに意識が雲散霧消する。
いやそうか、あの方に社宅はどこだったか尋ねるんがいちばんはやいのか。
いつの間にか写真が。<br><br>株式会社樫野の342ページに次のような文章がありました。「昭和13年1月、樫野商店は、兵庫県印南郡曽根町に曽根支店を設置した。大正5年5月に樫野商店が資本出資して設立された播州煉瓦合同株式会社の煉瓦を一手販売するための支店であった。」Kって・・・?