nagajisの日不定記。
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飢えて死ねと期待されているのだからそうすればよいのだ。
大正8〜10頃の各地の煉瓦工場の規模を主観的にではなく客観的に比較してみようと思い工場の従業員数を拾ってみたのだが諸般の事由により行き詰まっている。それは一応の指標になりそうではあるのだが、単年度で比較するよりも複数年でしたほうがよい→大正〜昭和期は継承関係が複雑で、すでに確認できている関西圏はともかく広島や徳島なんかは未着手だからどげんもならん→いっそのこと四国中国もリストを作るか→時間かかりまくり、土地勘なしの故に継承がはっきりさせられないのドツボ。
単年度(大正10)で比較すると、大阪の大工場、例えば大阪窯業とか岸和田煉瓦とかは200〜300人いて原動力も複数所有していて文句なしの筆頭格だ。津守は50人を上回るくらい。丹治は末期で20人ちょっとしかいない。これと兵庫を比べると、津守=山陽、丹治=中播煉瓦てなかんじ。むしろ広島県の最大工場(江田島の三高とか関西窯業の分工場群とか)、愛媛の三津浜煉瓦(古三津町の本工場、衣川分工場)、香川の讃岐煉瓦(観音寺、常盤村)は100人を上回る規模で、むしろ兵庫県はそれほどの産地でなかったかのごとしだ。数は多いが20〜30人規模の小規模工場ばかりであった。昭和7以降正確な人数が載らなくなるのが残念。
広島県の煉瓦製造業のピークがどこにあるのか。兵庫と同じように大正半ばに煉瓦工場が勃興しているが、大半が昭和までに姿を消してしまう。大工場の分工場も出来ては消え出来ては消えして跡を追いにくい。しかし高田輪環煉瓦工場(明治44頃)とか共同輪環煉瓦工場とかいう名前が散見され、吉名煉瓦(大正14)よりも前に第二次近代化?があったことを窺わせる。
大阪府下で散見される広島の煉瓦はどれも昭和期以降に成立した会社のものばかり。当然か。大阪の大工場がタイルやテラコッタ、耐火煉瓦に軸足を移していったから隙間に入り込む余地ができたのだ。兵庫県の煉瓦も似たりよったり。