nagajisの日不定記。
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を読んだという内容を書いて送信しようとしたらエラーが出て消えた。しやごしやご! ついでに話が噛み合わなかった理由がわかった(最初の「行かん?」を「要らん?」と聞き違えていた。余っているからあげるという話だと思って喋ってたのだ)ということも消えた。しやごしゃしやごしゃ!!!
前回は工場消長表のことをお話しましたので、今回は煉瓦工場と刻印の対応について中心にお話したいと思います.できれば大阪府下の煉瓦製造業の歴史を概観できるようなものにしたいのですが、話があちこち飛ぶこととおもいますので、今回は「こんな刻印があるんだ」「こんな会社があるんだ」ということ、それから私が今現在課題と考えていることをお伝えし、ご助言いただければ。
所有煉瓦で最も古いものは阪府授産所。旧大阪府庁跡で見つかったもので、 M6-9云々.小口・長手.詳細は旧大阪府庁舎発掘跡.
阪府授産書の煉瓦は大阪府の煉瓦のなかでも最古級.造兵寮建設に伴い煉瓦を焼いたのが最初.泉布観には「YEGAWA」銘刻印,これは「江川某に焼かせた」という記述に一致する.
その次に古いものとして若井煉瓦。堺市に明治20年頃に興り、27年頃に消滅した会社.その前に「成金商社」と名乗っていた時期がある.例えば「大阪府統計書」明治●年版を見ると「盛金社」というのがあり、翌年の●年では同じ住所で若井煉瓦が興っている.盛金は成金の誤りだろうと思われます。春に紹介した消長表は基本的にこのような形で住所をキーにして継承を見ている.あるいは工場所有者が同じかどうか.より具体的な資料が見つかるまではこうやって継承関係を推測する他ないと思う。
若井煉瓦はもっと直接的な証拠があって興味深い.神戸外国人居留地の壁.これには若井煉瓦の刻印とともに成金商社の刻印もある.MANIFECTUREDという誤字はご愛嬌.
次に古いのは、前回の発表の際に持ってきていていたこの煉瓦。B.C.△H.J.という刻印があり、明治21年に創業した関西煉瓦という会社のもの。おなじものが旧グラバー邸で見つかっており、「日本煉瓦史の研究」ではグラバーの関与が疑われておりますがさだかではない。
工場は兵庫県明石市にありましたが、その元となった煉瓦工場が府下豊中市小曽根にあった。朝日新聞のバックナンバーにこのような記事。
また、官報にイギリス人の技師を配置したことが載っている。この煉瓦はプレス工法で作られている。ヨーロッパで主流だった作り方。しかし日本の土には合わなかったのか、以降プレス成形で作られることはなく、木枠に手で土を詰めて整形するのが主流。関西煉瓦の煉瓦もこのよう普通の煉瓦に陰刻したものが存在する。吹田の民家で使われていたもの。吹田のアサヒビール工場でも見つかっている。これが
ツキス。堺附洲煉瓦のものと思われる.これも明治19-30年代に存在した会社.この頃附洲にはいくつかの工場があったけれども.同社社長はツキス消滅後に日本煉瓦へ()。
明治21年頃。朝日新聞バックナンバー。小規模なものも含めると100件近くあるのではないかと。
旭商社の存在が大きかったと思われる。明治 年頃煉瓦製造業組合が成立、その後正式に登録?された時も旭商社の代表。しかしどのような会社であったのか、どのような刻印を使っていたかわからない。
後に関西最大の煉瓦製造業者となる大阪窯業も明治18年に創立。いまの 。それが明治31年頃堺に移転し、後に関西地方で最初に成形機械を導入し、改良型のホフマン窯を導入。
鉄道遺構に興味がある方にはお馴染みの堺煉瓦。成立には少々紆余曲折があった模様。宮崎商店→三栄社→堺煉瓦石 三本線から五本線へ。堺煉瓦は堺監獄の囚人を雇って製造していたところに特徴がある。東京の小菅周時間で煉瓦を製造していたのと似た構図。そのため安かった。
岸和田の第一煉瓦は明治27年に岸和田煉瓦と改名。以降一貫して煉瓦製造をつづける。少し後になるが2番目の成形機械を導入。
明治30年代は大阪の煉瓦製造業が大きく発展した時期。第一期の煉瓦黄金期といってよい(言い過ぎ)・
ちょっと前の明治29年頃の煉瓦生産量の記事.http://www.kyudou.org/cgi-bin/tdiary/?date=20140125#p02 堺附洲煉瓦は日本煉瓦に。加えて津守煉瓦。
堺、岸和田。大阪窯業が堺へ。またツキスが日本煉瓦に。この辺は「商工録」に社章があるので確定といってよい。丹治煉瓦は古くからあるけれどもどのような刻印を用いたかという明確な記録はない.ただし現存する社屋に「丹」記号があり,近畿各地に分布が見られる.和歌山県串本町でも見られるとか.
第一期の六工場時代の一角・津守煉瓦もはっきりしない.津守煉瓦はいまの南海汐見橋線木津駅の附近にあった.地図.この工場の刻印を六稜星とする説.私も賛成.跡地近くで焼損煉瓦らしき刻印煉瓦を見つけたし,後述する大阪煉瓦との関連.
もちろん小工場もたくさん。★印の推定塔本。ユニークなものとして樽井煉瓦。和泉煉瓦を岡町住宅地を例に。
煉瓦製増量は大正8年頃をピークにしている.府下に分布する刻印もこの頃のものが多いような印象.ただし丹治は下駄に.逆ズレもある.これも丹治煉瓦のものと見ると,その規模と分布量とが一致するように思われる.<このあたりどうしても定性的にならざるを得ない.課題.
大正中期に不況。堺煉瓦が脱落。煉瓦製造量も減少に向かう.その一方,例えば印南郡で多くの煉瓦製造業が勃興している.製造が周辺地域に移っていった傾向が見られる.事実
昭和期に大阪煉瓦が勃興。大阪煉瓦と津守煉瓦(狭山煉瓦)。
推測。
わからない例。桜ノ宮橋台の「○」。単純記号。○ヌ。堺市でよく見られる(■■で見つかっている)□数字。鉄道(大阪鉄道アルファベット、福知山線幾何学模様)。現場で焼いたということが多いがどうなんだろう。柏原市の〒。
小口火。1例のみ。漢数字。阪大医学部など。
煉瓦分布の傾向.あくまで定性的だが煉瓦製造所の附近に集中して分布する傾向は確かにある.その工場の近くでしか見られない刻印もある.兵庫県の煉瓦は兵庫県に.大阪に入っても北・中部にとどまる.K2とかバンレンとかワとか.とくに兵庫県煉瓦工場は昭和30年代・40年代まで生産を行っていた.大阪の煉瓦工場はセメント製造やプレキャスト製品,耐火物製造に移行.需要の隙間を印南郡や讃岐煉瓦,広島県の煉瓦が埋めていた感がある.
遠くは広島・愛媛からも煉瓦がきている.大正初期の煉瓦不況期に瀬戸内海沿岸の煉瓦製造業者が結託して生産統制を行った.それ以前からもあったはず(例:呉鎮守府の建物,愛媛県三津浜煉瓦跡,大阪府貞徳舎外壁に同じ刻印が見られる○ト).
なお大阪の煉瓦は全国各地に散っている.例えば大阪窯業は鳥取米子の鉄道工事に供給,北海道,関東,はては大連まで.堺煉瓦も舞鶴鎮守府の建物に刻印がある.明治37年.
大きな工場は大口需要を受けて大量生産・大量納入した.家庭で使う程度の小口は 日本煉瓦の刻印が多数見られるのは販路が小口に向いていたからではないか.