nagajisの日不定記。
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鳥取島根徳島香川愛媛高知と順調に反映していって、岡山も広島も無事に収まったのに、最後の山口で収まらねえ。詰めても3工場分はみ出す。別けるのもどうかだし……。ムギュー
無理矢理収めた……。ザッツオール。たった5年間でも抜けていると見えないことが多々ある。播煉吉名工場とか。
芦屋の山際で不意に遭遇した煉瓦壁。傾斜した斜面に傾いで築かれている。足元に刻印を一個確認。
現地では大阪窯業だろうと思ったのだけど、こんな擬焼損煉瓦を作ってただろうか? できちゃった焼損ではなく意図して作ったと思わゆる焼損煉瓦だ。
サムネールで見ると吉名煉瓦っぽくも見える。もしくは、それ以外のどこか。
その近くにあった橋。自分も時おりこの間違いをするのであげつらったり笑ったりしたくはない(隊道とか随道とか墜道とかをpgrする人とお近づきになりたくないな、の心境と同右)。旁の「喬」の一画目が伝染しやすいんだよね。
市立に残りのコピーを取りに行く。帰りの電車で読んでいて、今号の「由良要塞をゆく」でドヤ顔ってた話が間違っていたことを発見して悄気た。堺の新釜は明治29年10月に初火入れ。んで成形機械の導入は31年。その時の広告の文面が社史には掲げてある。
当社堺市分工場に今般設置せし煉瓦製造器械は(略)型口圧出の際煉瓦の四面に水を浸出し側面は平滑にして恰も手製煉瓦の磨き品に等しき光沢を顕わし上下の両面は特に粗鬆にして以て「モルタル」の附着力を強固にする(略)(注:旧漢字カナを新字かなに変更)
件の「叩き」の載っている大日本窯業会雑誌は大正初めのやつだから、M31~T元の間に方針転換したんやろかね。逆にいえば「改」on手成形は改良ホフマン窯を設置し成形機械を導入するまでの間のごく限られた期間に製造されたものだ、ということになったらものさしとして精度なのだろうけど、そう旨くはいかないだろうな。岡町住宅地にあることを説明できない。それよりも機械成形と手成形を並行して利用していたと考えたほうがよさげ。『大阪府下会社組合工場一覧 明治37』には職工男103女32とある。職工の数は多いんだ。