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旧道倶樂部録"

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2016-10-16 [長年日記]

[独言] ✕はいつから✕なのか

岸和田煉瓦の刻印を考えていて、ふと「✕マークはいつから不正の意味を持つようになったのか」と思った。不正・否定をを示すのに使われる記号と同じシェイプの記号を社章に採用するのは、考えてみればおかしな話で、しかし現に採用されているのだから、明治27年当時はそうでなかったかごく限られた範囲内でしか通用しない意味だったんじゃないかと思う。そもそも数学では四則演算記号の一つであった。諸外国では✕に否定の意味はないと聞いたこともある。グレート義太夫扮する神様の✕はクロスチョップの真似にしか映らぬのである。寂しいことである。

明治大正昭和初期のどこかで✕に否定の意味が付与されたんじゃないかと思うのだが、どうやって調べたらいいのかわからない。新聞や雑誌を総ざらえするほど切羽詰まった疑問でもないし。

「善玉」「悪玉」はその起源を知っている。江戸時代の黄表紙か明治の絵草子かで主人公たる善人の顔を○善と書き悪役の顔を○悪と書いたところから来ているそうだ。善の玉と悪の玉の闘いなわけだ。しかし善玉悪玉なんて、腸内細菌でも言わなくなった昨今、もはや死語の部類に入っている。ゼンダマンとアクダマンの闘いも今は昔の物語。アターシャセコビッチードワルスキー。あーうーおほほ、あーうーおほほ。

話が逸れた。✕に否定の意味が込められるようになったいきさつ。同じように△に不適格半人前てな意味が付与された頃と一致しそうな気がする。して同様に思い当たる節がない。

[] 大高庄右衛門の改良ホフマン窯特許

第3404号

「ホフマン」窯の改良

此発明は「ホフマン」式輪環窯の焔道並に其乾燥装置の改良にして即ち中央に煙突を具うる輪環窯を数室に分割すべき様形成し其各室の上下には相対向することなき様数多の小孔を縦貫し上部の小孔は其側面を梢路に依りて枝道に通じ其枝道は或は輪環路に或は主煙道に通すべくし又下部の小孔は前の如く其側部を梢焰路に依りて枝焰路に通じ更に之を主煙道に通すべくし且つ其各室の枝焔道は縦孔によりて輪環路に相通すべくし其各通口には悉く弁を具えて開閉自在なるべくして成る「煉瓦焼」窯の改良に係り其目的とする所は煉瓦焼成前に於ける乾燥をして全部均一ならしめ之を焼成するに際して湿気より起る有害作用なからしめ且つ其焼成の熱度を均一ならしめて製品に不同を生ずるの虞なからしむるに在り

別紙図面は本装置の構造を示す即ち其の第一図は全半部を水平に切断して見たる頂面図第二図は縦に切断して見たる端面図全半部を縦に切断して見たる側面図なり

右諸図に於て同じ符号は同じ部分を示すものとす

本装置大体は「ホフマン」氏の輪環式なりと雖も其焔道並に乾燥装置は本願の改良発明にして在来の種々の構造に比して大に異なる所ありとす即ち輪環窯(イ)を数室に分割し得べき様に作り其一室を形成する毎に側面に出入口(ロ)を設け其中央に煙突(ハ)を樹てたる等は在来のものに同じとす而して其形成せる各室毎に其頂に数多の小孔(ニ)を穿ちて石炭投入口となし該小孔(ニ)には一々蓋を具え該小孔は其側面に於て梢路(ホ)に通じ各梢路(ホ)は又枝道(へ)に通じて枝道(へ)は主炎道(ト)及び輪環路(チ)に通じ其各通口には弁(リ)(ヌ)を各別に設け輪環路(チ)は輪環窯(イ)の上部に並行に具えたるものあり而して又輪環窯(イ)の床には数多の小孔(ル)を穿ち該小孔(ル)は其頂上の小孔(ニ)と相対向せざる様即ち互の中間に相向う様に設置するを可なりとす而して此小孔(ル)は前の如く梢焰路(ヲ)枝焔道(ワ)に依りて主演道(ト)に通じ其枝焔道(ワ)と主焔道(ト)の通口(レ)には弁(カ)を具う而して輪環路(チ)と枝焔道(ワ)とは縦孔(ヨ)を以て相通すべくなし其通口には弁(タ)を具えたり

本装置を使用せんには普通の輪環窯に於けるが如く焼成せんとする煉瓦素地を窯内に適当に積み其一室毎に紙を貼り以て境界となし或は一室の頂上の小孔(ニ)より粉炭を投入するものとす而して此粉炭の燃焼して発する火焔は次の両三室以上の堆積せる原品間を通過して之を焼き其煙は主煙道(ト)に逸せしむ即或任意の室限りにて其煙を逸出せしめんとするときは其室の枝焔道(ワ)の弁(カ)のみを開き他の縦孔(ヨ)の弁(タ)及び其焔道の通過する各室の枝焔道の弁(カ)は閉鎖し置くべし然るときは火焔の通過する部分は順次に燃焼さるるなり依りて最初の室の煉瓦素地が焼成せるを窺いたるときは前に開きたる最終室の枝焔道(ワ)の弁(カ)は閉じて其次室の弁(カ)を開き其室を最終となし該室より煙を逃逸せしめ此の如く順次に各室に移り焼成するものとす然して之に供給する空気は燃焼を終りたる前室を通過し来る熱風にして其火焔は最終の室の床上の数多の小孔(ル)より吸収され枝焔道(ワ)より主煙道(ト)に通ずるものとす又其燃焼されざる他室に堆積せる煉瓦素地は之を燃焼せんとする前已に乾燥し置くものとす之を乾燥せんには其已に燃焼し終りて之を冷すの必用ある室を通過し来る空気をして其室の頂上の小孔(ニ)より梢道(ホ)乃枝道(へ)を通して逃散せしめ其室に於ける弁(タ)を開き弁(リ)は閉じ之に反して其乾燥を要する室に属せる弁(ヌ)は閉じ弁(リ)は開き且つ縦穴(ヨ)の弁(タ)を開き枝煙道(ワ)の弁(カ)を閉づるなり然るときは其暖風は其暖風輪環路(チ)を通じ縦孔(ヨ)より窯室内の床下の枝煙道(ワ)梢煙路(ヲ)より小孔(ル)ヲ通じて其内部の体積せる煉瓦素地間を通じ上方の小孔(ニ)を通じ其梢路(ホ)枝道(へ)を経更に弁(リ)を経て主煙道(ト)に逸出し以て之を乾燥するものとす

従来施行せる「ホフマン」窯に於て多少乾燥せる煉瓦の素地を窯内に堆積し更に焼成の余熱を以て其焼成前に於て予め充分乾燥することは公知なりと雖も其余熱即ち熱したる空気の流通は或一小局部に止り室内全部を乾燥し得ざるを以て尚焼成の際湿気を発生し有害なる作用を誘起することあれども本装置は多数の小孔より全室内平等に其下方より発散し来る暖風の為め均等に其素地に触接し且つ上方の小孔(ニ)各所より再び均等に吸収さるるを以て室内平等均一に乾燥さるることなり加之「ホフマン」窯に於て燃焼の発生物を吸引するに窯の一隅に建設せる一個の焔道に止まるを以て室内熱度は均一ならざるの缺点あれども本願はその床下に数多の小孔(ル)より吸収すべくなせるが故窯内熱度は均一にして煉瓦の焼成に不同を生ずるの虞なし

特許条例に依り自分が此発明の保護を請求する区域を左に掲ぐ

一 本書に詳記せる目的に依り本書に詳記せる如く輪環窯(イ)を数室に分割し得べき様形成し其各室の側面には出入口を設け且各室とも其上下に相対向することなき様数多の小孔(ニ)(ル)を縦貫し上部の小孔(ニ)の側面は梢路(ホ)枝道(へ)に依りて主煙道(ト)及輪環路(チ)に通ずべくし其通口には各別に弁(リ)(ヌ)を具え下部の小孔(ル)の側部も又梢焰路(ヲ)枝焔道(ワ)に依りて主煙道(ト)に通ずべくしこの枝焔道(ワ)縦孔(ヨ)に依りて輪環路(チ)に通ずべくし其各通口には弁(カ)(タ)を各別に具え主煙道(ト)は煙突(ハ)に通ずべくして成る「ホフマン」窯の改良

千葉県山武郡大富村大字富田57番地原籍
岡山県和気郡三石村大字三石227番邸寄留
平民 煉瓦専門技師
発明者 大高庄右衛門

覚書として。図は特許検索ページで。

要するに天井と床にたくさん穴を設けて床→天井の暖気の流れを設定した所に眼目がある。そうやって焼成前の煉瓦をよく乾燥させることで均等に仕上がりのいい煉瓦を作る。冷えた煉瓦に暖かい空気があたる→結露する もしくは生乾きの煉から水分が出る→その状態で焼きに入ると粉炭が付着して表面を汚損する、というのは後述の資料でも書かれていた。

+、生乾きの煉瓦を強制乾燥させる工夫とも読める。半乾燥煉瓦を余熱で乾燥させるのは公知な慣行だったってある。その乾燥が不十分だと膨らんだり破裂したりもしやすかった筈。

[独言] 図書館へいく

結局日和って府立図書館へ行く。いつのまにか工場通覧がセルフ不可になっていて、依頼コピーで1枚20円、なおかつS30代は陶業で括られているため必要でない陶器製造業が大半で水増しボンバーという事態に行き当たり、どうしたものか悩んだが、国立国会図書館送信データの出力でも1枚20円だしなあと思って丸投げした。もとから複写不可な傷み本は国会デジタルで出力したが、これも職員氏の手を煩わせることになり時間短縮にはならず(あれ、以前は自分で出力してなかったけか)。

結局コピーだけで4せんえんもかかった。こんだけ金使った上に目がしょぼしょぼ手がヌルヌルする苦労をした挙句、出来上がったデータは無料公開、しかも自分自身の役には立たないという。どんだけ無駄やねん。

ついでに見ていた国会デジタルでホフマン窯の仕様を解説した資料を発見した(「ホフマン氏楕円形赤色煉瓦窯ノ解説」『農商工広報』分析報文第一冊号外:1887)。脳漿無償、もとい農商務省が明治20年に発行したもので、これを読んで納得したりしなかったりし、じゃあ改良ホフマン窯はどないやねんと思って調べたらIPDLが無くなって新しいサービスになっていた。これ、古い特許は番号がわかってないと調べられんのな。しかし以前は見つからなかった特許明細が出てきて上のテキスト起しとなった。余計なことすな>njis

[独言] えらいことに気づいた

「日本煉瓦史の研究」では小煙道・輪環路について触れてないのだな。単に丸く作られ連続焼成可能な窯という捉え方なんじゃなかろうか。現存窯の断面図にも書かれちょらん。

「ホ氏窯解説」では室の肩に小焔道があって、粉炭投入口とその小焔道とを(小焔道の上に開けられた穴を介して)「木製の箱」で繋いで暖気を導き、乾燥させたい室のところで同様に箱をして暖気を入れ、室の煙道もて排気すると書いてある。暖気を取るのは冷却フェーズに入った室。んでその前後で小焔道は閉ざすとある。(この説明はちょっと疑問。付図にはそんな扉がないくせに「小焔道の中途にある戸を閉づるの方は贅言を須たずして自ら明なるべし」とか宣うとる。落とし戸で良かったんかも知らんが外気との密閉はどうするんだ) ともかくこの小焔道で暖気を導いて乾燥を早めることが記されている。むろん、焼成室は連続しているので、煙道の弁を開けた室まで暖気がゆくことにはなり、小焔道を使わなくとも乾燥させることはできただろうが、煙道が内壁側にある関係から乾燥具合に偏りができることになる。そういう小焔道のないホフマン窯が一般的には普及していて、それがホフマン窯と考えられていた(考えられている)ようだ。

そういえば「赤煉瓦産地診断書」でもホフマン窯に窯のキモである何とかいう構造がないことが指摘されていた。外壁側から床下を経て煙道につながる管も目詰まりを起こしていると(これは外周側からも排気を行ない火周り暖気周りを均等に行えるようにしようとした工夫か)。大高の改良は小焔道=輪環路をフルに活用して乾燥させるところにあり、それが功を奏して品質の高い煉瓦を焼き、横綱にのし上がったに違いない。違いないのである。なるほどなあ。

「ホ氏窯解説」の微妙な未完成感が後々まで尾を引いていたとしたら面白い。この報文を鵜呑みにした各社が似非ホフマン窯を建設して品質に悩んだとしたら。。。これ明治20年に発行されたやつだから日本煉瓦製造(確か明治20年創業)とか大阪窯業の初代ホフマン窯(確か明治21年築造)とか参考にしてるんじゃないかな。そもそも大高は19年にドイツ留学とコトバンク(笑)にある。これ書いたの大高だったら罪だぜ。

嗚呼違う、「日本煉瓦史」によればウォートルスが小菅に導入したホフマン窯(薪て焼いてた)をワグネルが石炭向けに改良し、それが「ホ氏窯詳説」の図らしい(という伝聞が書いてある。p.46)。大高は22年に帰朝し日本煉瓦製造勤務。親戚のツテで渡独できたんだそうな。「大高庄右衛門記念誌」、デジタルデータ送信じゃねーか。。。

実際のところ大阪窯業の隆盛は堺に移って以降。明治20年代の製造数は他社より少ない(録”のどっかにあるデータ参照)。

[] 祝JIS取得

1965年版JIS工場通覧で印南郡の煉瓦工場が軒並みJIS認定を受けていたことを確認。S35取得とのこと。おめ。っていってもこの後すぐに・みんな斃れてゆくのだなあ。


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