nagajisの日不定記。
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http://www.kyudou.org/cgi-bin/tdiary/?date=20160731#p03
6ヶ月も前にkousenさんから手厳しいツッコミが入っていたことに今頃気づいたのだった。別にkousenさんのところから情報を盗ってきたつもりはないし、もし引っ張ってきてたらちゃんと書きますって。今号の虎島堡塁みたいに。
上の記事は2016年に望景亭へ行った時のと姫路市立美術館の刻印とを挙げてあったもの。前年の夏だったかその年の春だったかに鹿島の里で話を聞いて、その足で東山工業所跡の赤松さんのところへ行き、男山の望景亭の壁にうちの煉瓦が使われているという話を聞いていたから、文学館リニューアルが終わるのを待って出掛けたまでのことなのだ。そのついでに城山町の工場跡へ行って、姫路市立美術館の建物もその流れで足を運んだ。近くにある近代建築はそれくらいしか知らなかったもの。
いまさら弁明しに行っても格好悪いしなあ。はて、どうしたものか。。。
こんなだから人様のサイトに書き込みしたりコンタクト取ったりするもんじゃないなと思うのだ。あ、逆か、一度書いたら最後までやれってことなんか。。。盗ってませんよ~と掌を見せ続けるために。それもしんどいけど……。
こういうテの話を書くのは嫌いだ。八方伺いのウコサベンなことしか書けぬ。なんだかんだと言い切ってしまいたいがそうもいかないのは畢竟自分の立場を守ろうという思いがどっかにあるからであって。ええそういう書き方になるのがねぇ。とりあえずnagajisはそういうやつだということを隠さないためにここに書いておく。
Twitterでメッセージを送ってみたが、連投しすぎたためか、もう送れなくなった・・・。
ご立腹はもっともだと思うけれども、ブログを閉鎖するのはもったいないなあ。私が参照したいがためではなく(kousenさんとこはもう長いこと拝見していないのである。被るのが怖いので・・・)、世の中の役に立つだろうから・・・。いろいろコメントをもらっていたみたいだし、お仲間もいただろうに。うちみたいに誰も参照しないサイトのことで誤解して無くしてしまうのは損失です。ということが書けなかった。
まあ、これも身から出た錆なのだろう。いくら見ていないといってもそれを証明することはできないし、なにより6ヶ月も放置してしまったのは申し開きのしようがない過失である。
こういうのを知らぬうちに沢山やっているんだろうか……などと思うと何も書けなくなってしまいそうだ。今回のことは忘れて独りぽつりぽつりと歩いて行くしかない。
要するにここを真面目に書いていない・書き散らしているだけっちゅうのがあかんねん。ただの日記だと主張しても日記世代以外には伝わろうはずもなく。なので真面目に書いていくことにする。
先日伊賀に行って市街地をうろついていると偶然この橋に出会った。伊賀鉄道を跨ぎ越す煉瓦橋梁で、漠然と「伊賀にある」とだけ理解していたやつだ(初めて知ったのは「近代土木遺産2000選」で。その後「三重県の近代化遺産」を頂いて見ている筈。といちいち断らなくちゃいけないとなると大変だな。ガンガレ>nagajis)。いま「三重県~」を見なおしてみると桑町跨線橋(西平尾拱橋)が正式名称だった。
結構変わった作りだなあとは思っていたけれども、実物を見てようやく意味がわかった。要するに本来はねじりまんぽで処理すれば早いところを通常のアーチで片付けたために擦り付けの如き橋台構造を付与せねばならなかったのだ。
橋たもとから見通したこの写真と組み合わせて考えるとわかりやすい。上写真の向こう側たもとから橋を見通している。側面写真で余分に張り出しているように見える橋台(向かい岸)が実は「道なり橋軸方向」の構造であって、橋台の方向にまっすぐねじりまんぽのアーチを渡したらすっきりと済んだのだろうけれど、それを嫌って線路に直角なアーチを採用したため、そのせいでアーチの部分が右に左にはみ出している。路床が「卍」か風車ののパーツのような恰好になってしまっている。交差角が結構鋭くスパンも大きいかららねじりまんぽで飛ばすのは無理と判断されたのだろうか。関西鉄道の烏谷川橋梁なんかはこれくらい平気で飛ばしてる。福岡の欅坂橋梁はもっと広い。ただしこれらは鉄道の渡る拱橋であって、拱橋の下を鉄道が潜るのではない。傷んで煉瓦が剥落したりしたらモロに影響を受けることになる。そういう判断もあり得ただろう。
路床の一部が支えナシなのは、感覚的にちょっと怖い。ここを重量物が通ったら落ちてしまうんじゃないかと思う。この床はどう作ってあるのだろう?鉄筋コンクリートか何かだろうか?(まさか組積造ではあるまいが……。線路はこの前後で深い掘割になっているため下から確認することはできなかった。やるんだったら走る鉄道の中から見上げるしかない)。
欄干に盛ったモルタルが一部剥がれて平が露出していた。また欄干の十字に抜いた窓にも平が露出している。念入りに見て回ったけれども刻印は見つからず。焼きが甘いのと表が風化してモロモロになっているのが目についただけだ(あと、赤い小さなクモがわんさか……それこそ蜘蛛の子を散らすようにモゾモゾモサモサ歩き回っていた)
もともと伊賀に行ったのは伊賀煉瓦製造(株)の工場跡を見に行くことと市街に煉瓦が転がっていないかを確認するためだったのだけれども、その方面の発見はわずかであった。市街地では煉瓦に遭遇することがなく、工場跡地で焼損煉瓦を得ただけ。このへんはまたいつか書くことにして、ああそうだった、跨線橋に遭遇したのは伊賀耐火煉瓦が茅町にあったっぽいから、その場所を探してうろついていたんだ。工場表では「芽町」と書いてしまっている。通覧が不鮮明だったかnagajisがトンチキだったかのどちらかで。いくら検索しても見つからないと思ったら駅名に茅町とあるのを見つけて誤謬を知った。次回修正の時に反映するよろし。
旧橋紀行ネタにしても良かったのだけれども、これ以上の掘り下げができていないから、仮に書くことがあってもずいぶん先のことになるはず。
ああ話が逸れる。竣工は大正11年で伊賀鉄道開通と同じ時期だとか。となると最寄りの伊賀煉瓦製造が供給した可能性があり得る。伊賀煉瓦製造は大正6年創業となっていて(戦後も暫く別会社となって焼いていたらしい)、ただ刻印で確認はできなかったし工場跡でも煉瓦刻印は皆無だった。色が似てるとか脆いところが似てるとか言えるのみだ。四日市から、守山から、はたまた大阪府からというのもあり得ないことはないが……
伊賀鉄道には資料が残っているようなので(図面が保存されているそうだby三重県の近代化遺産)煉瓦納入の記録があったりするかも知れないが……そこまでは手に負えないなあ。